6 / 83
第一章 娼館セレーネ編
05.ノアに教わるキス
「初めまして、ノアだよ。今日はよろしく」
「あ、リゼッタです…よろしくお願いします」
ナターシャが去った今、部屋には私とこの若い男の二人。面を付けているから顔の上部は見えないものの、顎のラインや瞳の感じからしてとても美しい男性だと分かる。
シグノーの飛び出た顎や鷲鼻を思い出して、頭を振った。その容姿すら愛嬌があると思った日もあったのに。
「今日が初めてなんだって?」
言いながらノアは面を外す。
思った通り、作り物のように綺麗な顔が現れた。透き通るような銀色の髪にすべてを見透すような赤い瞳。しかし、その喉元は男性的で色気がある。
不思議そうな顔をしたノアを見て、慌てて口を開いた。
「はい、初めてです。精一杯取り組むのでどうぞ宜しくお願いいたします」
腰を折ってお辞儀をする私を見てノアは「堅いね」と言って噴き出す。笑うと目尻に皺がよって少し仔犬のような顔になる彼を見て、無意識にかわいいと思ってしまった。
ノアはどこか異国を思わせるゆったりとした白い服を着ている。裾が膨らんだ動きやすそうなパンツに同じく白のシャツ。あまりカルナボーン王国では見掛けない服装だ。
しかし、職業やプライベートな話はこちらから聞き出すのはタブーな筈だし、彼とてただの娼婦相手に語りたくないだろう。娼婦との中身のある会話なんて誰も望んでいない。
「……ベッドに移りますか?それともお風呂へ?」
「ははっ、積極的だね。そんな急ぐ必要ないよ」
ノアは笑いながら「俺は朝まで君の時間を買ってる」と説明してくれた。朝までというと、つまりそれは明日の午前中という意味だろうか。よくよく時間的な拘束について確認していなかったが、そんな長い試合になるとは知らずにすぐ眠りに着ける気持ちで来てしまったことを後悔する。
「まずはリゼッタのことが知りたいな」
伸びて来たノアの手がくるくるに巻いてもらった私の髪に触れる。長い指が毛先を弄ぶ間、私は生きた心地がしなかった。
「……な、何が知りたいですか?」
「どうしてこんな場所で働くことになったの?」
「それは…、」
「言いたくないならパスでいいよ」
「………パスで」
いきなりパスを使ってしまい申し訳ない気持ちで一杯になるけれど、素直にすべて話すときっとこの場を白けさせてしまう。せっかく日々の疲れを癒しに来た男たち相手に話して楽しい話ではないから。
「じゃあ、すきな週末の過ごし方は?」
「え?」
「趣向を変えてみたよ。答えやすいでしょう?」
ノアはそう言ってニコニコ笑う。
「そうですね…今まであまりした事はないのですが、飽きるまで外を散歩してみたいです」
「……へえ、簡単そうだけど?」
「私には出来なかったので、」
それ以上の追及を避けるように笑って誤魔化した。
厳しい家庭で育ったんだね、と言うノアの言葉を私は否定せずに微笑む。いつまで持つのか分からない、この身体の話もこういった場ではタブーだ。
「んーと、じゃあもう少し知るためにキスしようか」
「………キス?」
聞き返す私の頬にノアの手が触れる。
婚約者だったシグノー以外の人間が私に触れているという現状に私は背徳感のような感情が湧き上がる。しかし、婚約はもうとっくに破棄されたのであって私は自由の身だ。
考えなくて良い、考えてはいけない。悲しみの沼に引っ張られそうになる思考を振り切るように目を閉じた。
「……っん、」
ノアの柔らかな唇が重なる。
男の人の唇もこんなにふわふわしているんだ、と今更のことを私は頭の隅で思う。
やがて確かめるように、ノアの舌が唇の隙間から口内に侵入して来て、私は思わず腰を引いた。その怯えに気付いたのか、ノアの手が背中に回る。逃げ場のない甘い監獄の中で、表面だけ強く仕上げてもらった娼婦はもう泣き出したくなっていた。
「…ふ、ん……っあ」
舌の動かし方なんて分からないし、私はシグノーとこんなキスをした覚えはない。これは私が何度も交わしてきたキスではない。経験に基づく正解から大きく外れている。
ようやく離れた唇は濡れた糸を引いて、ノアはそれをペロリと舐めた。
「リゼッタ、可愛いね。好きになっちゃいそうだ」
ヴィラの言葉が頭の中でサイレンのように響く。
見つめ続けると落ちていくような恐怖に、目を逸らした。
あなたにおすすめの小説
すみっこ婚約破棄同盟〜王子様による婚約破棄のすみっこで〜
まりー
恋愛
ある夜会で王子とその側近達の婚約破棄が行われた。腕に恋人をぶら下げて。所謂、王道断罪劇である。
でもこのお話の主役は麗しのヒロインでも、キラキラ王子でも、学園一の秀才や騎士団期待のホープでもない。これは王道のすみっこで行われた、弱小貴族と商人の子息たちの婚約破棄のお話である。
_ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _
「もう俺ら、恋なんてしない!」と言う小学生の息子の話を参考に書きました。登場人物の男子たちの頭は小学生レベルだと思って読んでください。
死ぬまでに叶えたい十の願い
木風
恋愛
「あなたを妻として、愛することはない。おそらく、生涯抱くこともないだろう」
三年間の白い結婚——捨て置かれた王太子妃エリアーナに、側妃が『死の呪い』をかけ余命一年を宣告する。
離縁を願うも拒否され、代わりに「死ぬまでに十の願いを叶えて」と契約する——
二人きりの外出、星空、海…ささやかな願いが王太子の心をほどいていく。
地味で役に立たないと言われて捨てられましたが、王弟殿下のお相手としては最適だったようです
阿里
恋愛
「君は地味で、将来の役に立たない」
そう言われ、幼なじみの婚約者にあっさり捨てられた侯爵令嬢の私。
社交界でも忘れ去られ、同情だけを向けられる日々の中、私は王宮の文官補佐として働き始める。
そこで出会ったのは、権力争いを嫌う変わり者の王弟殿下。
過去も噂も問わず、ただ仕事だけを見て評価してくれる彼の隣で、私は静かに居場所を見つけていく。
そして暴かれる不正。転落していく元婚約者。
「君が隣にいない宮廷は退屈だ」
これは、選ばれなかった私が、必要とされる私になる物語。
【完結】婚約破棄される前に察して距離を置いていたら、幼なじみの第三王子が本気になっていました〜義妹と元婚約者? もう過去の人です〜
井上 佳
恋愛
婚約者に裏切られた侯爵令嬢は、
嘆くことも、復讐に走ることもなかった。
彼女が選んだのは、沈黙と誇り。
だがその姿は、
密かに彼女を想い続けていた第三王子の心を動かす。
「私は、国よりも君を選ぶ」
婚約破棄、王位継承、外交圧力――
すべてを越えて選び取る、正統な幸福。
これは、
強く、静かな恋の物語。
2026/02/23 完結
異世界に逃げたシングルマザー経理は、定時退勤だけは譲れない
木風
恋愛
DV夫から一歳の娘を抱えて逃げた鈴木優子は、光に飲まれて異世界の王宮へ転移してしまう。
生きるために差し出した武器は簿記と経理経験――崩壊寸前の王宮会計を『複式簿記』で立て直すことに。
ただし譲れない条件はひとつ、「午後五時の定時退勤」。娘の迎えが最優先だからだ。
その姿勢に、なぜか若き国王ヴィクトルが毎日経理室へ通い始めて――仕事と子育ての先に、家族の形が芽吹いていく。
転生したら魔王のパートナーだったので、悪役令嬢にはなりません。
Y.ひまわり
恋愛
ある日、私は殺された。
歩道橋から突き落とされた瞬間、誰かによって手が差し伸べられる。
気づいたら、そこは異世界。これは、私が読んでいた小説の中だ。
私が転生したのは、悪役令嬢ベアトリーチェだった。
しかも、私が魔王を復活させる鍵らしい。
いやいや、私は悪役令嬢になるつもりはありませんからね!
悪役令嬢にならないように必死で努力するが、宮廷魔術師と組んだヒロイン聖女に色々と邪魔されて……。
魔王を倒すために、召喚された勇者はなんと転生前の私と関わりの深い人物だった。
やがて、どんどん気になってくる魔王の存在。前世に彼と私はどんな関係にあったのか。
そして、鍵とはいったいーー。
※毎日6時と20時に更新予定。全114話(番外編含む)
★小説家になろうでも掲載しています。
ため息ひとつ――王宮に散る花びらのように
柴田はつみ
恋愛
「離縁を、お願いしたいのです」
笑顔で、震えずに、エレナはそう言った。
夫は言葉を失った。泣いてくれれば、怒ってくれれば、まだ受け止め方があった。しかしあの静けさは、エレナがもう十分に泣き終わった後の顔だと、ヴィクトルにはわかった。
幼なじみと結ばれた三年間。すれ違いは静かに始まり、深紅のドレスの令嬢によって加速した。ため息を飲み込み、完璧な微笑みを保ち続けた公爵夫人が、最後に選んだのは――。
王宮に散る花びらのような、夫婦の崩壊と再生の物語。