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第一章 娼館セレーネ編
06.キャパオーバー▼
ノアのキスに腰砕けになった私は暫く床を見つめて荒い息を繰り返していた。
しっかりしなければ。これからもっと凄いことが始まるのだから、この程度でペースを乱されていたら私は娼館で働くなんて無理だ。ヴィラ曰く、ノアは甘い言葉を連発するらしいし。私にだけ言っているわけではない。
自分を見失わないで、心を渡してはだめ。
私は男に夢を見せる娼婦になるんだから。
「……ごめんなさい、少し眩暈がして」
「眩暈がするほど良かった?」
ソファに座ったノアはおかしそうに笑って私を見上げる。
「どうしようか。抱きたくなっちゃうけど、君のこと食べるの勿体ない気がしてきたよ」
「……え?」
「もっと時間をかけて仲良くなりたいな」
「でも…ここは娼館なので、」
ノアの意図するところが分からずに首を傾げる。
勿体ないも何も今この時間は、大金が投入された上で実現している時間なのだ。娼館という場所の特質上、やることをやらないと無駄金になってしまうのではないか。私としては別にトランプでもしりとりでも、はたまたただ惰眠を貪るだけでも大歓迎なのだが。
「リゼッタ、ベッドに横になって」
「はい……」
「今日は僕が君を気持ち良くしてあげよう」
シーツの上に身を預けながら、その言葉に身体が緊張した。
婚約している間、シグノーとの行為は私にとって苦痛でしかなく、毎夜彼から誘いが来ることを考えると憂鬱になっていた。10歳年上のシグノーは年齢のためか、単に面倒だったのか分からないが、私の身体をどうこうということよりも如何にして自分が気持ち良くなるかを常に優先した。
私に月のものが来ていてもそれは変わらず、涙を流しながら彼を受け入れたことも少なくない。こうした経緯から、私にとって性行為は楽しい事ではなく、ただ女として生まれた以上こなさなければいけない義務的な行為だった。
「力を抜いて」
ノアの手が私の左手を持ち上げる。
手の甲に温かいノアの舌が触れた。そのままペロペロと舐められて、私は思わずくすぐったくて身を捩る。指の先まで猫のように舐め回すから舌の動きに思わず腰が跳ねた。
「綺麗な服だね。ナターシャのセンスかな?」
「……どうでしょう?」
ベビードールの裾を持ち上げて、そんなことを聞くからナターシャが下着屋で衣装を選ぶ様子を想像して少しだけ笑ってしまう。肩を震わせる私を見下ろしてノアは目を丸くした。
「そうやって笑う方がずっといい」
「……?」
「愛想笑いよりも、俺は好きだな」
ハッとした。ノアは私が都合の悪い話を避けるために笑っていることに気付いていたのだ。バツが悪くて、目を泳がせる。私は娼婦で、こうした時間の間は常にアドバンテージを取っていなければいけないのに、ノアと一緒に居るとまるで心理カウンセラーを前にしているような気持ちになってしまう。
細かな会話を通して一枚一枚のヴェールが剥がされて、やがてその手が私の心に触れるのではないかと思うと気分は重くなった。
そんなことを考えている間にも、ノアの唇は私の肌の上を滑って、今や胸の下まで達していた。
「これ、脱いでもらってもいい?」
ノアの指示でベビードールを脱ぐ。
天女の羽衣のような薄さのそれでも、脱いでしまえば私は上半身が丸裸になってしまうので非常に心許ない。
「………っあ、」
ノアの手が胸の膨らみを覆う。
その手の平から彼の体温が伝わってきた。
ふよふよと手の中で形を変えながら、ノアは時折愛おしそうに肌に口付けを落とす。どんな顔をして良いか分からず、どこを見て良いかも分からなかったので、恥ずかしくて壁を見つめながら漏れ出す声を片手で押さえた。すると、それに気付いたノアが私の手首を掴む。
「声を聞かせてよ」
「でも、恥ずかしくて…」
娼婦が聞いて飽きれるだろう。
ノアの前で私は赤子同然だ。どうすることもできない羞恥心に泣き出しそうな私を見て、ノアは優しく微笑んだ。
「今日はこのあたりで止めようかな」
「あ…ごめんなさい、そういうわけじゃなくて…!」
「君は高級なデザートだ。ゆっくり愉しまないと」
さて残りの時間で何をしようかな、と部屋を見回したノアは「お風呂でも入る?」と聞いてくる。ベッドの上で呆然としていた私は慌てて飛び起きて、浴室へ向かった。
本当にもう終わりなのだろうか?
ここで終わった場合、ノアはナターシャに文句を言ったりしないの?私は落第評価を押されたような不安を抱えながら、猫足のバスタブに向かって蛇口を捻る。
さすがにショーツだけだと寒くて、バスタオルの横に掛けてあった白いローブを羽織ってノアの元へ戻った。ノアはベッドに腰掛けて窓の外を見ている。
「もうすぐ準備が出来ますので…」
「うん。ありがとう」
手招きされて隣に座ると、私の首元に顔を沈めてスンスンと匂いを嗅いだ。
「リゼッタはもうお風呂に入ってるんだね」
「……はい、雨に濡れていたので」
「外に出てたの?」
「私、実は今日この娼館に来たんです」
訳ありだと察したのか、ノアは「そうなんだ」と頷いたきり何もそれ以上は聞いてこなかった。
それから、お湯が溜まったことを伝えると彼は一人で入ると言ったので、私は部屋で膝を抱えてその帰りを待った。掴みどころのないノア。彼を手に入れるためにその人生を賭けて娼館を出て行った女たちは、いったいどうなったのだろう。
結局、朝まで買われた私の時間はほとんどをポーカーとチェスの対戦で消費され、ノアと二人で寝不足の目を擦りながら日の出を迎えた。
「そろそろ出ようかな」
壁に掛かった時計を確認して名残惜しそうにノアが言う。
部屋のドアへと向かう後ろ姿を追った。
「ごめん、机の上の面を取って」
「あ…はい!」
サイドテーブルに置かれた半面を手渡す。
「客はみんなこれで顔を隠して屋敷の中を移動するんだ。こういう場所の性質上、知り合いに会ったら困るから」
なるほど。確かにノアはその服装や佇まいからして平民でないことは明らかだし、明確な金額は知らないがこのような大きな娼館に出入りしているということは、それに値する身分があることは明らかだった。
入り口に立って今日の御礼を伝えると、ふいにノアが私を抱き寄せた。耳に柔らかな唇が触れる。
「また来るよ、リゼッタ。次は君を指名する」
「……ありがとうございます」
「俺のことを忘れないで」
それだけ言うと身体を離して行ってしまった。
風を切って遠ざかる銀髪を見ながら、騒ぎ立てる心臓に手を添える。いっそ、忘れられたらどんなに幸せだろう。
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