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第一章 娼館セレーネ編
08.自分の部屋
ナターシャは管理人室でうたた寝をしていた。
透明のガラス窓を覗き込んで小さくノックすると、少し目を閉じていただけという風に彼女は瞼を上げる。この大きな娼館を一人で切り盛りしているのだとすると、ナターシャの年齢を考えるとかなり大変だと思う。
「なんだい?」
「あの、私はどこに居れば良いでしょうか?」
「……ああ。部屋の案内がまだだったね」
付いてくるように言って、ナターシャは廊下を歩き出す。
「地下は食堂と使用人の部屋、一階と二階はお客様を迎える商売部屋、三階があんたたち娼婦の生活する場所だ」
足早にいくつもの部屋を通り過ぎる。
客が去ったあとの娼館はまるで女子寮のようで、上階からはキャイキャイと騒ぎ立てる女たちの声がした。
「ノアがひどく喜んでチップを弾んで帰ったよ。いったい何をしたんだい?」
「……何も特別なことはしていません」
「あいつは若いが羽振りが良い。娼婦を腑抜けにしちまうから憎たらしいが、決して乱暴もしない良い客だ」
精一杯弄んでやんな、と言ってニヤリと笑うナターシャはやはりただの老婆ではなく、娼館の管理人の顔をしていた。
弄ばれたのは自分の方だなんて口が裂けても言えない。弄ぶどころか、たかがキス一つで私は腰を抜かしてしまった。手も足も出ないとは、まさにああいう状態を言うのだろう。チップまで出したということは、ノアの満足度は低くないということなので私は安心した。
「リゼッタ、ここがあんたの部屋だ」
ナターシャがドアノブを引くと、こじんまりとした可愛い部屋が目に入った。薄いピンク色でまとめられた部屋は華美ではないものの、居心地が良さそうだ。
「欲しいものなんかあれば、たまに娼婦が連れ立って出掛ける機会があるから、その時にでも買いな。給料は月初めに支給するよ。前借りもあるから入用だったら言いな」
食費や諸々の設備費は給料から天引きする仕組みになっている、とナターシャは説明してくれた。
お礼を伝えて部屋を見渡すとベッドの隣には私が持って来たトランクケースが置いてあった。水に濡れたせいか表面の革はまだらな模様が付いていたが、もうどこにも行く予定はないので捨てても良い。
ナターシャは何かあったら呼ぶように伝えて、部屋を去って行った。その適切な距離の取り方は彼女の優しさだと思う。
(なんだか、すべてが夢みたい……)
丸一日寝ていないので、そろそろ睡眠を取った方が良いだろう。トランクケースを開いて薬を手に取り、洗面所へ向かった。備え付けのコップに水を汲んで薬を流し込む。
シグノーにも、アストロープ子爵夫妻にも、同じ朝が訪れているのだろうか。彼らは居なくなった私のことを少しは考えてくれた?ほんの少しで良いから、胸を痛めてくれていたら良いのだけれど。
手早くシャワーを済ませると、枕元の目覚ましを5時にセットして横になった。ナターシャからは7時に下に来るように言われている。今からだと、6時間は眠ることが出来るはずだ。
目を閉じて、自分から香るボディーソープの匂いに、今日起こったノアとの出来事を思い出した。謎の多い彼と私の間には客と娼婦という明確な線が引かれている。本気にしてはいけない、と改めて思いながらギュッと目を閉じた。
そうして、見習いの娼婦は明るい夜の中を眠る。
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