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第一章 娼館セレーネ編

16.シグノーは御乱心▼

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「………どうして…」

声は喉に張り付いたように掠れる。
目だけは歩み寄るシグノーから離せなくて、その手が首に触れると全身の毛があわ立つのを感じた。怖気付く私を愉しむようにシグノーは喉を鳴らす。

いつもなら客を案内する時に付いてくるナターシャが今日は居ない。ドアが完全に閉まる音、そして鍵が掛かる金属音が静かな部屋に響いた。

外は雨だったのか、水に濡れたコートが乱暴に床に投げ捨てられる。


「まさか、本当に娼婦になっていたとはな」
「……何のためにいらっしゃったのですか?」
「婚約者に向かってそんな物言いはないだろう」
「貴方がその婚約を破棄したのです…!」

感情的にたかぶった声が空気を揺らした。
シグノーは顎を撫でながら私の全身を舐めるように眺めた。

「似合っている。僕のために娼館で修行しているという噂は本当だったんだな」
「貴方のために……?」
「ああ。執務官から聞いたんだ、郊外にある娼館でリゼッタとよく似た女が働いているらしいと」

やはり、情報は漏れていた。
娼婦からか客からかは分からないが、私が働いている情報を得た優秀な執務官はきちんとその事実を主君に伝えてくれたようだった。運の悪さに吐きそうだ。

それにしても、シグノーのこの物言いはなんだろう。まるで私は彼に言われた言葉を間に受けて、娼館で働き出したような話し方をする。そんなストーリーは完全なるでっちあげだし、勘違いも甚だしい。

「シグノー様、私が娼館で働いているのは貴方のためではありません」
「まあ…そう強がるな、リゼッタ」

名前を呼ばれることにすら強い抵抗を覚える。

「事情が変わったんだ。婚約破棄を取りやめる」
「………何を…今更、」
「僕のために娼婦にまで身を落として、可愛い奴め」

ベビードールの肩紐にシグノーの骨張った指が触れた。思わず後ろへ後退る。そんな私の行動が面白くないのか、乱暴に手を取るとベッドの上に押し倒された。

「おやめください…!だいたい、どうやって娼館へ入られたのですか?ここは会員制です」
「シケた老婆に伝えたんだ、入れてくれないと営業停止令を出すと」
「……なんですって?」
「そうしたら、すんなり入れたよ。金はもちろん払ったが」

高い買い物だった、と言いながらシグノーは自分のベルトに手を掛ける。

ギョッとして私は固まった。まさか、この男は今から元婚約者である私を抱こうというのだろうか。自ら不要であると屋敷を追い出した女を、娼館まで追い掛けてきて、わざわざ?

「シグノー様、申し訳ありません…今日はお引き取りください」
「……どうしてそんなことを言うんだ?」
「既に私と貴方は他人です。お金はお返しいたしますので、どうか聞き入れてください…」
「娼婦になったお前が男を選べる立場か」

パシン、と乾いた音が部屋に反響した。
焼けるような痛みが頬に広がる。シグノーは振り上げた右手を見つめて驚いたような顔を作った。

「ついつい手が出てしまった。君が口答えするから」
「お願いです……シグノー様、」

再び平手打ちが反対の頬に振り下ろされた。
痛くて、堪えていた涙がボロボロと溢れ出す。何もかもが最悪で、自分が惨めだということだけが分かっていた。私が働いていることが彼の耳に入る可能性はゼロではなかった。しかし、ほぼ無いに等しいと油断していたのだ。

涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、頭の隅でナターシャに聞いたベルの存在を思い出す。危険な行為を強いられたらベルを押せば、彼女は来てくれると言っていた。

なんとかシグノーの下から這い出して、入り口の隣に設置された呼び鈴へと向かう。しかし、ベルのマークが書かれたボタンに指が届く寸前で、シグノーは私の腕を思いっきり後ろへ引いた。

床に投げ出された身体の上に、シグノーが跨る。
そのまま革靴を履いた足で手首を踏み付けられた。

「………っああ!」

成人男性の体重をまともに受けて、痛みどころの騒ぎではなく、私は本気で手首が千切れたと思った。踏まれた右手の感覚がないし、冷や汗が止まらない。

痛くて動かない手首を見つめる私の脚をシグノーは自分の肩に掛けた。ショーツが乱暴に取り払われて、濡れてもいないそこにシグノーは唾を吐き掛けて性器を捩じ込む。

「……っやめて、シグノー様!」
「はぁ…いいぞ、リゼッタ。ようやく女らしくなった」
「痛いです…そこを退いてください…!」

必死の抵抗はすぐに暴力で押さえられる。
何度も叩かれたせいか口の中が切れて血の味がした。頬はずいぶん酷く腫れ上がっている気がする。こんな顔では暫く客も取れないだろう。

ノアとの約束も、きっと守れない。

シグノーは泣き崩れる私など視界に入っていないのか、ヘコヘコと腰を振りながら自分の快楽を追求しているようだった。早く終われば良い。この地獄が終わったら、私は部屋に戻って、シャワーを浴びて、そして机の上の花束を花瓶に生けてあげたいから。


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