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第一章 娼館セレーネ編
19.スノードロップを手向ける【N side】
まだ三月だというのに、南東にあるカルナボーン王国では春の花が咲き始めている。アルカディアの国土を厚く覆った雪の気配もここではまったく感じない。
こんなにも恵まれた土壌を持っていて、何故アルカディアに劣る国力に沈んでいるのか。他国でも見掛ける自動車もカルナボーンでは一台も走っていない。ネズミが走り回る城下町を見下ろす豪勢な王宮は、その事実をどう受け止めているのだろう。
拍子抜けするほど簡単に内部に侵入できたことに驚きながら、部屋の主人の帰宅を待っていた。シグノー・ド・ルーシャの寝室はシンプルで、唯一飾られていたのは棚の上に置かれた家族写真。国王陛下、その腕に手を添える王妃、そして後列には第一王子である兄のヴァイタン、皇太子妃のサマンサ。その隣、写真の中に映り込むシグノーに寄り添うように立っているのは今より少し健康的な顔をしたリゼッタだ。
写真立てをひっくり返して、写真を抜き取った。もうこの部屋にあっても意味のないものだから。
足音がして、部屋の主人が姿を現した。
死角になる場所で息を潜めて、扉が閉まるのを待つ。ご丁寧に鍵まで掛けてくれるシグノーの用心深さに感謝を示しつつ、声を掛けた。
「お帰りなさい、シグノー王子」
「なんだお前は…!」
驚いて後退る彼に良心的な笑顔を向ける。
「ご安心ください。貴方と話し合いたいだけです」
「……先ずは名を名乗れ、不届者め!」
「これは、失礼致しました。僕はアルカディア王国のノア・イーゼンハイムです」
「イーゼンハイム…?王室の者か?」
「一応、第一王子なんて呼ばれていますが」
ハッとしたようにシグノーが態度を正した。
分かりやすい男だと思う。カルナボーン王国の王族がアルカディアのイーゼンハイムを相手に楯突くことなど出来ないと、いくら彼でも重々承知しているようだ。
「イーゼンハイム家のお方が、どうして私の部屋に…?」
「私用があったんです。時間がないので端的に話しますが、貴方は元婚約者であるリゼッタを暴行しましたか?」
「……あれは私のものです。何をしようが咎められる筋合いはない」
「それは間違いだな。認識を改めてください」
「何……?」
気を悪くしたのか、少し不機嫌そうな顔でシグノーは問い掛ける。
「僕はリゼッタを身請けするつもりです」
「……なんだって?王族である貴方が他国で婚約を破棄されて娼婦に落ちた女を迎え入れるというのですか?」
「はい。従って、もう貴方のものではない」
グッと下唇を噛んだシグノーは腹立たしげに机を叩いた。机の上に広がった書類が何枚か床に落ちる。
「婚約破棄は取り消す予定です!リゼッタにも伝えた!」
「どうして急に?何か不都合でもありましたか?」
「………、」
「そういえば、不仲を噂されていた第一王子と皇太子妃の間に子供が産まれるそうですね。実におめでたい」
「……どこでそれを?」
驚いたように目が大きく見開かれる。
「宮殿のメイドが教えてくれましたよ。ついでに貴方の部屋の場所も聞きました。ここのメイドは自己管理が緩くていいですね……主人に似たのかな?」
「何を…!他国の王子と言えども無礼が過ぎるぞ…!」
焦り出すシグノーを見るのは愉快で、出来ればこの問答をもう少し続けたかったが時間は限られている。就寝の確認を使用人が取りに来る前に終わらせなければいけない。
核心に迫ってみようか。
「兄と同じ女性を共有する気持ちはどうですか?」
「やめろ!お前、何を言っているんだ!」
「貴方と第一王子が皇太子妃を巡って揉めていることを内部の人間は皆知っているようですよ。知らないのは、つまらない理由で婚約を破棄されたリゼッタぐらいでしょう」
「………っ!」
「皇太子妃が貴方の子を妊娠したから、追い出した婚約者を呼び戻してカモフラージュとは素晴らしい考えだ。ハッピーエンドの完成ですね。貴方たちにとっては」
シグノー・ド・ルーシャの兄であるヴァイタンとその妻サマンサの不仲説が巷で囁かれ出したのは三年ほど前のこと。娼館の女たちですら、その話は知っているぐらい周知の事実だった。
もうすぐ四十代を迎えるヴァイタンが子を残していないことに国王は焦りを感じ始めた。そこで迎えられたのが、没落貴族であるアストロープ家の令嬢。取り繕ったような家族写真が挨拶代わりにアルカディア王国に届いた時、初めてリゼッタの姿を目にした。写真の中でぎこちない笑顔を浮かべる彼女は一人だけ、異質に感じたのを覚えている。
「どうします?僕の希望は貴方が死ぬことです」
「………何を…、」
「断るなら皇太子妃とその腹の中の赤子を殺しましょう。貴方は生涯その罪を背負って生きて行くことになる」
「馬鹿を言うな!使用人を呼ぶぞ!」
「呼んでみてください。貴方の喉元を撃ち抜く程度は僕でも出来ますから」
手に持った銃をチラつかせると、シグノーは顔色を変えて後ろに倒れ込んだ。恐怖に震える顔を覗き込む。
「自殺って事にしましょう。首吊りが一番確実で痛みが少ない死に方らしいですよ。僕的にはミンチにして魚の餌にしたいぐらいですが」
でもその魚がリゼッタの食卓に習ぶ可能性もあるな、と続けて話したら、シグノーは「狂ってる」と吐き捨てるように言った。兄嫁に手を出せるこの男の方が余程狂気の沙汰だと思うが。
目を閉じて息を吐いた。
大丈夫、上手くやれそうだ。
◆スノードロップ…花言葉は「あなたの死を望む」。
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