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第二章 アルカディア王国編
28.大理石の風呂【side N】
「ここにグラスがある。数が欲しければまた言って」
戸棚を開けて中から透明なグラスを取り出す。ひんやりと冷たいそれをリゼッタに手渡すと、白い手で大切そうに受け取った。
「ありがとうございます」
「よく俺の部屋覚えてたね?」
「あ…いざとなったらノア様しか頼れる人が居ないので」
困ったように目を伏せてそう言うから、うっかり手が伸びてしまいそうになった。片手では不便なことも多いはずだし、出来れば彼女の身の回りのすべてのことを自分がしてあげたい。他人に触れさせたくないという理由もあるけれど。
「リゼッタ、手は不便じゃない?」
「はい。だいぶ慣れました」
「お風呂はどうしてるの?」
「えっと…包帯が水に濡れないように……」
「今日は一緒に入ろうか」
「え?」
頭の中で一瞬、怒鳴り散らすナターシャの姿が浮かんだが、べつに彼女が今ここに居て監視をしているわけでもない。もっと言うと、入浴を補助することは介護的な側面もあって決してやましい気持ちだけで申し出たわけではないのだ。
リゼッタは困ったように目を泳がせている。
「娼館じゃないから難しい?」
「そういうわけでは…、」
「じゃあ、良い?」
照れたように赤くなった耳が可愛らしくて思わずその上にキスを落とした。小さく震えてギュッと目を閉じるから、どうしても先を求めてしまいたくなる。
思えば、最初からそうだった。
娼館セレーネで初めてリゼッタに出会い、彼女のことを少しずつ知れば知るほど、自分のものにしたいと思いようになった。それは男なら誰でも持っているであろう征服欲のような感情で、彼女がいつか写真で見たシグノー・ド・ルーシャの婚約者であると分かった後も変わらなかった。
むしろ、稀有な運命に感謝したぐらいだ。
「……っあ、あの…ノア様、まだ私そういったことは」
「うん、大丈夫。俺からは何もしないよ」
「本当ですか?」
「だから安心してお風呂入ろう。ね?」
渋々頷くリゼッタの手を引いて、部屋を出る。
自分の部屋へ寄って適当な着替えを取ると階下にある浴室へと向かった。部屋にある風呂でも良いが、初めてアルカディア王国に来たリゼッタには、贅を尽くして大理石で造られた浴室を見てもらいたい。
車で移動したため、彼女の慣れ親しんだ馬車ほど時間は掛からなかったものの、カルナボーン王国からの長旅で相当疲れているはずだ。
キョロキョロするリゼッタに声を掛けて、浴室の扉を開いた。
「………すごい」
リゼッタはその美しい瞳をキラキラさせて浴室を見渡している。アルカディアの宮殿が誇る浴室は、国の優秀な建築士に設計を依頼した拘りの部屋で、床に大理石を敷き詰めて窓ガラスにはステンドグラスを使用していた。
湯が溜まるまでの間、手持ち無沙汰なので、彼女をアルカディア王国に連れて来た理由を伝えておくことにした。何も知らずにこんな場所まで来てしまって、きっと混乱しているはずだから。
「リゼッタ、今更で悪いんだけど連れ回してごめん」
「いえ。新しい経験ばかりで…感謝しています」
「実は君をアルカディアに連れて来たのは、その病気を治すためなんだ」
「………、」
「ナターシャから話は聞いた。薬を飲み続けているんだろ?カルナボーンより医療が進んだこの国なら、もっと良い治療法があると思う」
説得するように手を握ったが、握り返す力は思いの外弱かった。心配になって顔を覗き込む。
「……お気遣いはありがたいですが、不要です」
「どうして、」
「これまで…私はずっと身体が弱くて、周りに迷惑を掛けてばかりでした。そんな私でもシグノー様の婚約者に選ばれてからは、自分の存在価値を見出すことが出来たんです」
話しながら、リゼッタの目にどんどん涙が溜まっていく様子が見てとれた。
「でも、婚約を破棄されて無価値になりました。どこにも行く宛もないから娼館に辿り着いたけれど…未だに何のために生きてるか分からない」
「………リゼッタ」
「誰かに必要とされたくて娼婦として働き始めましたが、今は骨折して何も出来ません。悲しいぐらい無力で…価値のない人間なんです」
溜まっていった涙は、限界を超えたように目の端から溢れ出した。嗚咽を上げる彼女の肩を軽々しく抱いて良いものか戸惑う。語られたのはリゼッタの本心で、それはあまりにボロボロに傷付いていた。不幸なんて一言では語り切れない壮絶な経験や葛藤があったのだと思う。
ふと、自分がシグノーを殺めたことは、彼女にとっての恨むべき対象を一生奪ってしまったということではないかと考えて、罪の意識を覚えた。
「ねえ、リゼッタ」
風呂の湯の温度を確かめるために、指を入れてくるくると回す。リゼッタはまだ顔を上げずに床を見つめていた。
「君は無価値なんかじゃないよ」
「…………」
「少なくとも、俺は君に生きていてほしい」
この気持ちがどれほど彼女に届いているだろうか。傷付いた心がそう簡単に人を受け入れてくれないことは十分に分かっているつもりだが、それでも触れてみたいと思う。怯えて不安そうな顔ではなくて、自然体の笑顔が見たいから。
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