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第二章 アルカディア王国編
53.最後の日
「え?明日…娼館へ帰るのですか?」
突然の提案に絶句した。雨が降っていたので宮殿内の図書室で本を読んでいた時のことだ。入ってくるなり、私が座るソファの隣に腰を下ろして、ノアは「明日カルナボーンへ君を送り届ける」と伝えた。
「どうして、そんな急に……」
本当は心のどこかで期待していたのかもしれない。優しい彼が私の手を取って、このままここに残るように乞うのを。
「すまないが事情が変わったんだ」
「まだ二ヶ月経っていません、」
「申し訳ないと思う」
「治療は…?検査の結果はどうだったのですか?」
「ごめん、時間切れだ。ナターシャとの約束がある」
娼館を出る時に約束した日付までにはまだ一週間ほどの余裕がある。その一週間を待たずに今ここで私をカルナボーンへ送り返そうと急ぐ理由が分からなかった。
ノアは私のことに飽きたのだろうか。帰る支度をするようにと言い渡して部屋を去っていくノアの後ろ姿を見つめた。人が変わったように厳しい顔をして、昨日までのことは嘘のような態度を取る。
(本気になったら馬鹿を見るって分かってたのに…)
ナターシャやヴィラと久しぶりに会えるという喜びもあるが、それよりも気掛かりなのはやはりノアの胸中。手の平を返したような態度の変化は、考えれば考えるほどその意図が分からない。
◇◇◇
あまり眠れないまま、最後の朝が来た。
ふんわりしたオムレツはいつもならお代わりしたいぐらい美味しいのに、今日は味がしない。これがアルカディアの宮殿で食べる最後の食事なのかと思うと、堪えていても涙が浮かんだ。
ノアはそんな私の様子にも気が付かないのか、黙々と食事を続けていた。表情はやはり硬いままで、時々考え込むように目を閉じている。最後の食事ぐらい楽しく過ごしたいのに、彼のその態度を前にして話し掛けることは憚られた。
「ごちそうさまでした」
食事を残したまま席を立つことが料理人へのマナーとしても悪いことだとは分かっていたが、これ以上時間を掛けても食べ進めることは難しい。近くに立つメイドに謝罪の言葉を述べて、ノアには先に部屋に戻ると伝えた。
赤い絨毯が敷かれた階段を登って二階へ上がる。国王と王妃は忙しいのか、食事の時間をズラしているのか、滅多に会うことはない。最後の日ぐらい挨拶がしたかったけれど、どうにも叶わないようだ。
最後の荷物チェックを行うために自分の部屋へ向かっている途中、廊下に面したノアの部屋の前に白い封筒が落ちているのを見つけた。
「……?」
拾い上げるも封筒には宛先人も差出人も書かれていない。
良くないとは思ったが、好奇心から中に入った三つ折りの紙を引っ張り出した。何の変哲もないただの真っ白な紙の上に並んだ二つの文章は私の目を釘付けにした。
『アルカディアの若き王子は隣国の娼婦に心を惑わされている。臣民はこの事実をどう受け止めるのか』
心臓の鼓動が速くなる。誰かが階段を上がってくる足音がして、思わずポケットに手紙を押し込んだ。廊下に姿を現したノアは不思議そうな顔で私を見た。
「どうしてこんな場所で立ち止まっているの?」
「……あ、靴紐が解けて」
「そう?」
近付いて来るノアに冷や汗が流れる。あれは明らかな脅しの文句だった。封が切られていたということは、ノアは手紙を読んだのだろうか?あんな手紙を読んだせいで、もしかすると彼は私を早急にカルナボーンに返そうとしているのかもしれない。
誰かが私が娼婦だという事実を知っている。
その真実をノアに突き付けて、脅そうとしている。
崩れ落ちて泣き出したいほどに、ショックな出来事だった。自分の存在がノアの足を引っ張るということは既知の事実だった。だけれど、こんな風に他人がそれをネタに、彼の心を揺すろうとするなんて思いもしなかった。
「リゼッタ、顔色が悪いよ。どうしたの?」
「すみません…寝不足なので」
「もうすぐ皆に会えるから」
残酷な言葉を添えてノアは私を抱き寄せた。
彼は本当に私が娼館に帰ることを望んでいると思っているのか。ノアの手を離して、娼館でナターシャやヴィラに会うことの方が、喜ばしいと?
「……ええ、そうですね」
「帰り道は僕とウィリアムが送る。玄関で会おう」
「はい」
部屋に入って行くノアを見送って、とぼとぼと廊下を進んだ。荷物が片付いて殺風景になった部屋のベッドに横たわる。荷造りはほとんど済んでいて、あとはこの宮殿において異物である私が姿を消せば完璧だ。
カルナボーンの宮殿で私に与えられた小さな部屋から娼館へ、娼館からアルカディア王国へと旅を続けた壊れ掛けのトランクには今、ノアが買い与えてくれた服や装飾品が詰め込まれている。シグノーの元を去る時には思わなかったけれど、今はそのすべてを捨てて行きたい気分だ。服を着る度、ネックレスやイヤリングを付ける度に、ノアのことを思い出すのは余りに辛いから。
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