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第三章 氷の渓谷編

70.入り口と番人【N side】

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「地図上ではこのあたりだ」
「……渓谷どころか、草木の一つもないね」

もう五月も中旬に差し掛かるというのに、季節外れの大雪を記録しているアルカディア北部の山頂付近で、ウィリアムと共に途方に暮れた。

近隣の村の住人も「こんな天気で山へ登るなど死にに行くようなものだ」と恐れて道案内を拒否されたため、なんとか地図を片手に自分たちの力でそれらしき場所まで来たものの、肝心の渓谷は見当たらない。

ここまでか、と項垂れるウィリアムの声を背中で聞きながら白銀の景色の中で目を細めた。数メートル先に飛び出た岩の影に何かが動いた気がしたのだ。

「………静かに」

人差し指を口に当てて振り返ると、ウィリアムも神妙な面持ちで腰を屈める。

人間か野生の動物か。魔女が住むと言われる氷の渓谷だ、現れる敵が人の形をしているとは限らない。姿勢を低くしたまま岩場へ近付いた。

その時、ふらりと岩場の向こう側に立つ者は立ち上がった。その姿を見て目を見開く。

「なるほど、地獄のお迎えってわけか」

青白い顔には正気がなく、頭に刺さった斧はその男がもう既に死んでいることを意味する。魔女や魔法といった御伽話のような言葉たちから、まさかアンデッドが出てくるなんて夢にも思わなかった。

辺りの寒さ故か、腐敗が進んでいない死体は汚れさえ落とせば普通の人間と変わりないようにも見える。

「ウィリアム、人を殺すことは罪でも既に死んでいる人間なら大丈夫だよな?」
「……まあケースバイケースだろう」

国王のゾンビだったら殺すに殺せない、と馬鹿真面目に答える旧友に銃を投げる。彼らの弱点はおそらく頭か首の骨。最悪何をしても死なない可能性もある。

わらわらと岩陰から出てきたアンデッドの数はざっと数えて十人ほど。動くスピードを見たところ、同時に襲って来てもギリギリ対応できる数だと思う。しかし、氷の渓谷がこの先にないのであれば、そもそも倒すよりも逃げた方が得策なのではないか。

迷いながら目を走らせると、一際高い岩の上に座り込む女の姿が目に入った。黒く長い髪を背中に垂らして、コートの下には足首まであるドレスを着ている。白銀の世界で、穏やかにこちらに微笑むその姿を見据えた。

「どうやら入国審査があるみたいだ」
「は?」
「試験官が居る。俺たちの動きを見てるんだ」
「…氷の渓谷っていうのは、大層な場所なんだな」
「歓迎されてないってことは分かったよ」

目を閉じて、息を吸う。
近付いてくるえた異臭が鼻を突いた。

「頭を一発か首を折れば動かなくなると思うけど、違ったらごめんね」
「ごめんで済む問題か?」

こんな時でも笑ってくれるのは彼の優しさ。
大丈夫、慣らし程度には丁度良い。生きてる人間を相手にするよりはよっぽどのこと簡単だろう。


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