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第三章 氷の渓谷編

71.双子の共鳴

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氷の渓谷に来てどれぐらい時間が経ったのか。

ノアが来るとジゼルは言っていたけれど、もう、すぐ近くまで彼は来ているのだろうか。最後に言葉を交わしたのは娼館セレーネで別れの挨拶をした時。「必ず迎えに来る」と言ってくれた彼の顔を私は見ることが出来なかった。

思い返せば私とノアの約束はいつも実現されない。三回逢瀬を重ねて私を抱くという意味が分からない彼のルールも、私がシグノーに怪我を負わされたことによって頓挫した。今回も娼館まで迎えに来ると言ってくれたのに、私は今こうして氷の渓谷に居る。守られない約束ならば、最初から交わさない方が良いと今更ながら思う。

「気になるんだね、ノアのこと」
「え?」
「ずっと同じページを読んでるから」

ルネは椅子に座ったまま、私の膝の上に乗った本を指差した。暇潰しにでもと渡されたアルカディア王国の歴史に関する本は、内容の難易度も相まって全くページが進まない。

考え事に没頭していたことを見透かされて私は気まずい思いをしつつ、でこぼこした本の表紙を撫でる。

「いえ…私には少し難しいので」
「カルナボーン出身の君がアルカディアの文字を理解できるだけで凄いことだ。王妃になれないのは残念だね」
「べつに、下心があって学んだわけではありません」
「ノアが王子じゃなくても好きになった?」
「……何を言いたいんですか?」

ノアはもともと娼館の客だったのだ。
べつに彼が王族だからという理由で自分から近付いたわけではないし、金銭的な価値に目が眩んだわけでもない。ルネの言葉は自分にとって非常に不本意だと思った。

「いや、昔から兄に群がる浅はかな女を腐るほど見てきたからさ。君もそういった類かと思って」
「違います。むしろ…ノアがこの国の王子でなければどんなに良いだろうと、本当は思っています」
「……?」
「彼が王族である限り、私はノアとの将来を望めません。もし仮に平民だったら…こんな絶望はなかったでしょうから」

ルネにこんなことを話しても仕方がない。
さぞかし興味がない顔をして聞いているのだろうと、視線を上げると、思いのほか真剣な顔をしていて驚いた。てっきり悲劇のヒロインぶって、と笑われると思ったから。

「あまり人に同情したりしないけど、君の状況は結構可哀想だね。ノアと出会ったのが運の尽き…いや、そうでもないか。アストロープ子爵の家に貰われた時にはもう、どう足掻いても残念な人生になっていた」

それは全くもってその通りなのだろう。
ジゼルやルネの話が本当ならば、そもそもそういう星の下に生まれているわけで。後はもう誰とどう出会っても、悪い方に悪い方にと転がっていくことは最初から決まっていたようだ。

「リゼッタ、君のこと助けてあげようか?」
「助けるって?」
「ノアが死んだら俺が後釜になってあげるよ」
「……何を、」
「王族でもない俺と一緒になれば君は人並みの幸せは送れるんじゃない?顔だってほぼノアみたいなもんだし」

傷があるからちょっと違うけど、と笑い出すルネの横顔を見つめた。人並みの幸せという言葉に少し心は揺れたけど、ルネとノアは全く違う。ルネの顔を見る度にノアのことを思い出す状況は、幸せとは程遠そうだ。

「お言葉ですが、結構です。ノアの代わりは要りません」
「そう。良い提案だと思ったけど」
「貴方は少し誤解しているようです」
「?」
「ノアの気持ちは知りませんが、私は後戻りが出来ないぐらい彼のことを想っています。身を引かなければいけないと理解していても…必要とされる間は側に居たい」

ルネの表情が少し変わった。一瞬の驚きを経て、苛立ちのような感情を滲ませながら私の方へ歩み寄る。

決意を持ってその目を見返す。
左右異なる綺麗なガラス玉のような瞳がスッと細められた。

「生意気なこと言うんだね。たかが娼婦のくせに」
「たかが娼婦でもプライドはあります」
「金を払えば君を抱くことは出来るの?」
「冗談やめてください、此処は娼館じゃありません!」
「面白くないことばっかりだな」

唸るようにそう言うと、ルネは右手で椅子の脚に触れた。金属で出来た回転椅子の脚はぐにゃりと形を変えて、手錠に変形する。

「便利だろ?触れたものの形を変えることができる」
「……それが魔法の仕組みですか?」
「流石にコンクリートから剣とか、水から火は無理だけど同じ材質の物には変更できるよ。全部魔女の力のお陰だ」

私はルネの指に嵌った指輪を見つめた。
赤い宝石が小さく輝いている。

「これから君のこと拘束するのに逃げないの?」
「逃げたところで力では敵いません…それより、そんなもので押さえつけないと駄目なんですね。非力な女一人を取り押さえるために、わざわざ手錠が必要だなんて、」

よっぽど力に自信がない、と続けたかったが、ルネが私の首に手を掛けたので最後まで言えなかった。咳き込む私の腕を乱暴に掴み、手錠を掛ける。冷たい金属が手首に触れた。

見たところ相当頭に来たようで、ルネの口元は怒りで歪んでいる。そういう感情を表に出すとノアとは全く違う顔になる、と私は冷静に頭の隅で考えた。

不思議と怖くない。
もう力に屈したくない。

シグノーの時とは違うから。相変わらず腕力ではどうも出来ないけれど、心は強く保つことができる。私はノアが私を必要だと思ってくれる限りは彼の力になりたい。その話に耳を傾けて、この身体だって明け渡して良い。ノアは私が生きる理由になりたいと言ってくれたから。

「なにその目?鬱陶しいな」

ルネの手が私の胸元を引っ張って、幾つかのボタンが弾け飛んだ。恐れを出さないように気を付けながら、ルネの目を睨み続ける。瞬間、その瞳が大きく揺れて、ルネは身体ごと扉の方へ向き直った。


「……どうりでイライラする筈だ。感覚まで共有できるなんて随分と面倒なことだね、ノア」

開かれた扉の先には白い顔に微笑みを湛えたジゼルの姿が、そして彼女の後ろにはノアとウィリアムが立っていた。

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