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第2話 ブーツの底と、滑らない理由
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「雨か。最悪だな」
宿の窓から外を見て、エルザが吐き捨てるように言った。
ガラスのない窓の外では、灰色の空から冷たい雨が降り注ぎ、石畳の道を黒く染めている。
「中止にするか?」
俺はベッドの端で荷物を整理しながら尋ねた。
雨の日のクエストは危険だ。視界は悪いし、体温は奪われる。何より足場が悪い。
だが、エルザは首を振った。
「バカ言うな。リザードマンの討伐期限は明日までだ。今日やらないと違約金が発生する」
彼女は濡れた革鎧の匂いが充満する部屋で、不機嫌そうにブーツを履き始めた。
俺はため息を殺して、防水用の油布をリュックに被せる。
荷物番の仕事に休みはない。
俺たちが向かったのは、街から少し離れた湿地帯だ。
普段でもぬかるんでいる場所だが、今日の雨で地面は完全に泥沼と化している。
歩くたびに足首まで泥に沈み、抜く時にジュボッという不快な音が鳴る。
「あーもう! 歩きにくい!」
前を行くエルザが悪態をつき、乱暴に足を振り上げた。
その拍子に、彼女の体が大きくグラつく。
「っと……危ねえ」
なんとか体勢を立て直したが、危ういバランスだった。
俺は彼女の背中を見ながら、こっそりと「鑑定」を発動する。
対象は彼女の足元。泥まみれのブーツだ。
【冒険者の革ブーツ】
【品質:C】
【耐久値:28/100】
【状態:ソール摩耗(極大)、防水機能喪失】
【注記:次の戦闘機動でスリップ転倒し、隙だらけになる】
やっぱりか。
エルザの歩き方は重心が前に偏っているため、つま先部分の溝が完全に消滅してツルツルになっている。
あれでは、濡れた泥の上を歩くのは氷の上を歩くのと同じだ。
リザードマンは素早い。
一瞬の転倒が死に直結する。
「エルザ、ちょっと止まってくれ」
「なんだよ、また休憩か? お前は体力がないな」
彼女は苛立ちながら振り返る。
俺はリュックから小さな携帯用の椅子を取り出し、泥の上に置いた。
「靴紐、解けてるぞ」
「は? 結び直せばいいだろ」
「泥だらけの手で触ると、紐が緩みやすくなる。俺がやる」
俺は強引に彼女を椅子に座らせた。
エルザは「過保護な荷物番だ」と文句を言ったが、抵抗はしなかった。
俺は彼女の足を持ち上げ、泥を拭き取るふりをしてブーツの裏を見る。
予想通り、溝がない。
俺は体で隠しながら、ポケットから取り出した道具を使う。
昨夜、廃材の革で作っておいた『後付け用のスパイクソール』だ。
硬い革に小さな鉄鋲を数個埋め込み、裏面には強力な樹液接着剤を塗ってある。
俺は泥を拭き取ったブーツの裏に、それを素早く貼り付けた。
さらに、補強のために小さな釘を二本、踵とつま先に打ち込む。
コン、コン。
小さな音は、雨音にかき消された。
「おい、何やってんだ? 紐を結ぶだけだろ」
「泥が固まってて解けにくかったんだ。もう終わる」
俺は反対の足も同様に処理する。
所要時間、三十秒。
俺は最後に靴紐をきつく結び直し、立ち上がった。
「よし、完璧だ」
「ふん。手間取らせやがて」
エルザは立ち上がり、地面を強めに踏みしめた。
ザクッ。
今までとは違う、確かな感触が地面に伝わる。
滑らない。
彼女は一瞬、怪訝な顔をして足元を見たが、すぐに視線を前に戻した。
「……行くぞ。気配がする」
湿地帯の奥から、低い唸り声が聞こえてきた。
リザードマンだ。
鱗に覆われた緑色の巨体が二体、泥水を蹴立てて突っ込んでくる。
彼らにとって、この湿地はホームグラウンドだ。
水かきのある足は泥に沈まず、高速で移動できる。
「来たな! 覚悟!」
エルザが剣を抜いて迎撃の構えを取る。
リザードマンの一体が、長い槍を突き出しながら滑るように迫った。
速い。
エルザは横に跳んで回避しようとする。
通常の彼女のブーツなら、ここで泥に足を取られ、横滑りして体勢を崩していただろう。
だが。
ガッ!
地面を蹴ったエルザの足は、泥を深く噛んだ。
一ミリも滑らない。
彼女の意思通り、完璧なグリップ力が地面から反発力を生み出した。
「ッ!?」
エルザ自身が驚くほどの鋭い加速。
彼女はリザードマンの槍を紙一重で躱し、懐に飛び込んだ。
敵は、エルザが滑ってバランスを崩すことを予測して攻撃を繰り出していたようだ。
ありえない速度で踏み込んできた彼女に対し、リザードマンは反応できない。
「遅いッ!」
銀閃が走る。
リザードマンの首が飛び、泥水に沈んだ。
「ギャッ!?」
もう一体のリザードマンが、仲間の死に動揺して足を止める。
エルザは止まらない。
泥濘の中を、まるで乾燥した石畳の上であるかのように自在に駆け回る。
急停止、急旋回。
足元の不安が消えた剣士は、暴力的なまでに強かった。
「そこだ!」
二体目のリザードマンが尻尾で薙ぎ払おうとするが、エルザは垂直に跳躍してそれを回避。
着地と同時に踏ん張り、脳天を唐竹割りにした。
戦闘終了。
エルザは血振るいをして剣を納め、荒い息を吐いた。
雨はまだ降り続いている。
だが、彼女の足元は微動だにしていなかった。
「……ふぅ」
彼女は自分の両足を見下ろした。
そして、何度か足踏みをする。
ザクッ、ザクッ。
「おい、荷物番」
「なんだ。怪我でもしたか」
「いや……今日の私、なんかすごくないか?」
エルザが興奮気味に振り返る。雨に濡れた髪が頬に張り付いているが、その瞳は輝いていた。
「この泥の中で、一度も滑らなかった。体の軸が完全に安定してたんだ。もしかして私、足運びの極意を掴んだのかもしれない」
「そうか。才能が開花したんじゃないか」
俺は無表情で棒読みの称賛を送る。
彼女は知らない。
ブーツの裏に、鉄鋲付きの革が打ち付けられていることを。
それが泥を噛み、滑り止めになっていることを。
リザードマンの鱗よりも硬い革と鉄を使ったのだから、当然の結果だ。
「へへっ……そうだよな。やっぱり私は天才か」
エルザはニヤニヤしながら、また足踏みをした。
その感触が気に入ったらしい。
「帰ったら酒場に行くぞ! 今日は奢ってやる!」
「……その前に、泥を落とさせてくれよ。宿の女将に怒られる」
俺たちは街へ戻る。
エルザは上機嫌で、時折スキップのような足取りを見せた。
滑らない安心感というのは、人をここまで陽気にするらしい。
宿に戻り、玄関先で泥を落とす。
俺はエルザからブーツを受け取り、洗い場で泥を洗い流した。
その際、打ち付けたスパイク革を綺麗に剥がし、釘穴を目立たないように樹脂で埋めておく。
証拠隠滅だ。
明日になれば地面も乾く。スパイクがついたままだと、石畳の上では逆に歩きにくい。
「ほら、綺麗になったぞ」
「おう、サンキュ」
風呂上がりのエルザが、自室でブーツを受け取る。
彼女はそれを履き、床を踏みしめた。
当然、あの強力なグリップ力は消えている。
「……あれ?」
エルザが首を傾げた。
「なんか、さっきと感覚が違うな」
「泥が落ちて軽くなったんだろ」
「いや、そうじゃなくて……なんかこう、地面に噛みつく感じがなくなったというか……」
彼女は不満そうに何度も足踏みをしている。
野生の勘は鋭い。
だが、ブーツの裏を見ても、そこには使い古されたツルツルのソールがあるだけだ。
「気のせいだろ。戦いの高揚感が消えただけだ」
「むぅ……そうか? あの感覚、好きだったんだけどな」
エルザは残念そうにブーツを脱ぎ、ベッドに放り出した。
「また雨が降ったら、あの動きができるかもな」
「……そうだな。雨の日も悪くないかもしれん」
彼女はそう言って笑った。
単純なやつだ。
だが、これで次の雨の日も、彼女はこのブーツを履いて出かけるだろう。
そして俺はまた、こっそりとスパイクを打ち付ける作業をすることになる。
面倒だが、彼女が滑って死ぬよりはマシだ。
俺は自分の部屋に戻り、減ってしまった鉄鋲の在庫を確認する。
また補充しておかないといけない。
荷物番の出費は嵩むばかりだ。
宿の窓から外を見て、エルザが吐き捨てるように言った。
ガラスのない窓の外では、灰色の空から冷たい雨が降り注ぎ、石畳の道を黒く染めている。
「中止にするか?」
俺はベッドの端で荷物を整理しながら尋ねた。
雨の日のクエストは危険だ。視界は悪いし、体温は奪われる。何より足場が悪い。
だが、エルザは首を振った。
「バカ言うな。リザードマンの討伐期限は明日までだ。今日やらないと違約金が発生する」
彼女は濡れた革鎧の匂いが充満する部屋で、不機嫌そうにブーツを履き始めた。
俺はため息を殺して、防水用の油布をリュックに被せる。
荷物番の仕事に休みはない。
俺たちが向かったのは、街から少し離れた湿地帯だ。
普段でもぬかるんでいる場所だが、今日の雨で地面は完全に泥沼と化している。
歩くたびに足首まで泥に沈み、抜く時にジュボッという不快な音が鳴る。
「あーもう! 歩きにくい!」
前を行くエルザが悪態をつき、乱暴に足を振り上げた。
その拍子に、彼女の体が大きくグラつく。
「っと……危ねえ」
なんとか体勢を立て直したが、危ういバランスだった。
俺は彼女の背中を見ながら、こっそりと「鑑定」を発動する。
対象は彼女の足元。泥まみれのブーツだ。
【冒険者の革ブーツ】
【品質:C】
【耐久値:28/100】
【状態:ソール摩耗(極大)、防水機能喪失】
【注記:次の戦闘機動でスリップ転倒し、隙だらけになる】
やっぱりか。
エルザの歩き方は重心が前に偏っているため、つま先部分の溝が完全に消滅してツルツルになっている。
あれでは、濡れた泥の上を歩くのは氷の上を歩くのと同じだ。
リザードマンは素早い。
一瞬の転倒が死に直結する。
「エルザ、ちょっと止まってくれ」
「なんだよ、また休憩か? お前は体力がないな」
彼女は苛立ちながら振り返る。
俺はリュックから小さな携帯用の椅子を取り出し、泥の上に置いた。
「靴紐、解けてるぞ」
「は? 結び直せばいいだろ」
「泥だらけの手で触ると、紐が緩みやすくなる。俺がやる」
俺は強引に彼女を椅子に座らせた。
エルザは「過保護な荷物番だ」と文句を言ったが、抵抗はしなかった。
俺は彼女の足を持ち上げ、泥を拭き取るふりをしてブーツの裏を見る。
予想通り、溝がない。
俺は体で隠しながら、ポケットから取り出した道具を使う。
昨夜、廃材の革で作っておいた『後付け用のスパイクソール』だ。
硬い革に小さな鉄鋲を数個埋め込み、裏面には強力な樹液接着剤を塗ってある。
俺は泥を拭き取ったブーツの裏に、それを素早く貼り付けた。
さらに、補強のために小さな釘を二本、踵とつま先に打ち込む。
コン、コン。
小さな音は、雨音にかき消された。
「おい、何やってんだ? 紐を結ぶだけだろ」
「泥が固まってて解けにくかったんだ。もう終わる」
俺は反対の足も同様に処理する。
所要時間、三十秒。
俺は最後に靴紐をきつく結び直し、立ち上がった。
「よし、完璧だ」
「ふん。手間取らせやがて」
エルザは立ち上がり、地面を強めに踏みしめた。
ザクッ。
今までとは違う、確かな感触が地面に伝わる。
滑らない。
彼女は一瞬、怪訝な顔をして足元を見たが、すぐに視線を前に戻した。
「……行くぞ。気配がする」
湿地帯の奥から、低い唸り声が聞こえてきた。
リザードマンだ。
鱗に覆われた緑色の巨体が二体、泥水を蹴立てて突っ込んでくる。
彼らにとって、この湿地はホームグラウンドだ。
水かきのある足は泥に沈まず、高速で移動できる。
「来たな! 覚悟!」
エルザが剣を抜いて迎撃の構えを取る。
リザードマンの一体が、長い槍を突き出しながら滑るように迫った。
速い。
エルザは横に跳んで回避しようとする。
通常の彼女のブーツなら、ここで泥に足を取られ、横滑りして体勢を崩していただろう。
だが。
ガッ!
地面を蹴ったエルザの足は、泥を深く噛んだ。
一ミリも滑らない。
彼女の意思通り、完璧なグリップ力が地面から反発力を生み出した。
「ッ!?」
エルザ自身が驚くほどの鋭い加速。
彼女はリザードマンの槍を紙一重で躱し、懐に飛び込んだ。
敵は、エルザが滑ってバランスを崩すことを予測して攻撃を繰り出していたようだ。
ありえない速度で踏み込んできた彼女に対し、リザードマンは反応できない。
「遅いッ!」
銀閃が走る。
リザードマンの首が飛び、泥水に沈んだ。
「ギャッ!?」
もう一体のリザードマンが、仲間の死に動揺して足を止める。
エルザは止まらない。
泥濘の中を、まるで乾燥した石畳の上であるかのように自在に駆け回る。
急停止、急旋回。
足元の不安が消えた剣士は、暴力的なまでに強かった。
「そこだ!」
二体目のリザードマンが尻尾で薙ぎ払おうとするが、エルザは垂直に跳躍してそれを回避。
着地と同時に踏ん張り、脳天を唐竹割りにした。
戦闘終了。
エルザは血振るいをして剣を納め、荒い息を吐いた。
雨はまだ降り続いている。
だが、彼女の足元は微動だにしていなかった。
「……ふぅ」
彼女は自分の両足を見下ろした。
そして、何度か足踏みをする。
ザクッ、ザクッ。
「おい、荷物番」
「なんだ。怪我でもしたか」
「いや……今日の私、なんかすごくないか?」
エルザが興奮気味に振り返る。雨に濡れた髪が頬に張り付いているが、その瞳は輝いていた。
「この泥の中で、一度も滑らなかった。体の軸が完全に安定してたんだ。もしかして私、足運びの極意を掴んだのかもしれない」
「そうか。才能が開花したんじゃないか」
俺は無表情で棒読みの称賛を送る。
彼女は知らない。
ブーツの裏に、鉄鋲付きの革が打ち付けられていることを。
それが泥を噛み、滑り止めになっていることを。
リザードマンの鱗よりも硬い革と鉄を使ったのだから、当然の結果だ。
「へへっ……そうだよな。やっぱり私は天才か」
エルザはニヤニヤしながら、また足踏みをした。
その感触が気に入ったらしい。
「帰ったら酒場に行くぞ! 今日は奢ってやる!」
「……その前に、泥を落とさせてくれよ。宿の女将に怒られる」
俺たちは街へ戻る。
エルザは上機嫌で、時折スキップのような足取りを見せた。
滑らない安心感というのは、人をここまで陽気にするらしい。
宿に戻り、玄関先で泥を落とす。
俺はエルザからブーツを受け取り、洗い場で泥を洗い流した。
その際、打ち付けたスパイク革を綺麗に剥がし、釘穴を目立たないように樹脂で埋めておく。
証拠隠滅だ。
明日になれば地面も乾く。スパイクがついたままだと、石畳の上では逆に歩きにくい。
「ほら、綺麗になったぞ」
「おう、サンキュ」
風呂上がりのエルザが、自室でブーツを受け取る。
彼女はそれを履き、床を踏みしめた。
当然、あの強力なグリップ力は消えている。
「……あれ?」
エルザが首を傾げた。
「なんか、さっきと感覚が違うな」
「泥が落ちて軽くなったんだろ」
「いや、そうじゃなくて……なんかこう、地面に噛みつく感じがなくなったというか……」
彼女は不満そうに何度も足踏みをしている。
野生の勘は鋭い。
だが、ブーツの裏を見ても、そこには使い古されたツルツルのソールがあるだけだ。
「気のせいだろ。戦いの高揚感が消えただけだ」
「むぅ……そうか? あの感覚、好きだったんだけどな」
エルザは残念そうにブーツを脱ぎ、ベッドに放り出した。
「また雨が降ったら、あの動きができるかもな」
「……そうだな。雨の日も悪くないかもしれん」
彼女はそう言って笑った。
単純なやつだ。
だが、これで次の雨の日も、彼女はこのブーツを履いて出かけるだろう。
そして俺はまた、こっそりとスパイクを打ち付ける作業をすることになる。
面倒だが、彼女が滑って死ぬよりはマシだ。
俺は自分の部屋に戻り、減ってしまった鉄鋲の在庫を確認する。
また補充しておかないといけない。
荷物番の出費は嵩むばかりだ。
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