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第25話 『風に揺れる、瀬戸内ブルーと二人の午後』

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Scene.01 今治港、朝の待ち合わせ

 朝の今治港には、まだ眠たげな空気が流れていた。
 空は淡く白みはじめ、港の水面にはかすかな波紋と、遠くのフェリーターミナルから漂うディーゼルの匂い。
 結は、静かにスタンドを下ろしてジスペケを停めた。

 「……少し早く着いちゃったかな」

 ヘルメットを脱いで髪を整えながら、バッグからスマホを取り出す。
 時間は約束より五分前。画面の明かりに照らされた顔は、ほんのり緊張をにじませていた。

 何度目かの確認を終えたそのとき――

 「……おはよう、結」

 低くも優しい声に振り向くと、フェリー乗り場の入口から青いGSX-R125が滑るように入ってきた。
 朝日に照らされたレーシングカウルが、ひときわ鮮やかに光っている。
 いつもの黒のライディングジャケットに身を包んだ隼人が、ヘルメットのシールドを軽く上げて、目元で笑った。

 「おはよう、隼人くん。今日も……やっぱりその青、似合ってるね」

 結は思わず、にこりと笑いながらそう言った。

 「結も、ジスペケ調子良さそうだな」

 「うん。昨日、彩花さんのアドバイス通りにチェーンとオイル見てもらったから……今日は万全だよ」

 そう言って、タンクを軽く撫でるように見つめる結。その手付きは、まるで相棒を気遣うようだった。
 一緒に走るようになってもう何度目かになるけれど、それでも“二人きり”のツーリングは、いつもより少しだけ緊張する。

 だけど、隼人と話していると――自然と心がほぐれていく。

 「じゃ、行こうか」

 隼人がそう言ってサイドスタンドを払う。結もそれに続き、ヘルメットを被った。

 「うん。今日のルート、ずっと楽しみにしてたんだ」

 バイザー越しに交わす視線が、いつもより少しだけ長く続いていた。
 GSX-R125とGSX-S125――二台の青い車体が、エンジンの咆哮を重ねながら、フェリー乗り場へと並んで走り出す。

 朝の港に、ふたりの静かな冒険の始まりを告げる音が、やさしく響いた。



Scene.02 フェリーと島の縁

 バイクのエンジンを切り、係員の指示に従ってフェリーの甲板にゆっくりと乗り込む。
 今治港から岡村島行きのフェリー――小さな船体ながら、地元の人々や原付旅のライダーたちにはおなじみの交通手段だ。

 甲板には数台の車と、結と隼人のバイクだけが並んでいた。
 結はジスペケをスタンドに立て、ヘルメットを脱ぎながら息をついた。

 「ふぅ……潮風、けっこう涼しいね」

 白い息がうっすらと見えるほどではないが、海風は思っていたよりも肌寒い。
 それでも、どこか心地よい――身体の奥に残った緊張感が、潮の香りとともに和らいでいく。

 フェリーが静かに港を離れ、エンジンの響きが遠ざかる陸地を押しやるように響く。

 「しまなみも好きだけど、こっちはこっちで静かでいいね」

 結が、揺れる手すりにもたれかかりながら呟いた。

 隼人もヘルメットを外し、彼女の隣に立つ。
 視線の先には、島々の輪郭が薄い朝霧の向こうにゆっくりと浮かび上がってくる。
 とびしま海道――しまなみよりも素朴で、観光地然としていない、生活の匂いが残る島々。

 「とびしま海道は、島ごとに個性があって面白いぞ。観光地って感じじゃなくて、生活があるっていうか……」

 「……生活がある、か。確かに。電柱の影とか、干してる洗濯物とか、ただの海じゃなくて“人の暮らし”がある風景、って感じがする」

 波間に漂う釣り船、岸辺に小さく連なる民家。
 華やかさはないけれど、誰かの日常の匂いが、そっと漂っていた。

 「……あの日のこと、覚えてる? あたしが初めて店に行った日」

 ふいに結がそう切り出す。

 「もちろん。あの目を見た時、優斗と同じだったんだよ。何かを取り戻したい、そんな目だった」

 隼人の声は穏やかだったが、その奥にあった感情は、決して軽いものではなかった。
 兄・優斗の名前が出るたび、結の中でも小さな灯がともる。

 ――あのとき、走ることが怖かった自分。
 でも、それでもバイクにもう一度跨ったのは、きっと何かを取り戻したかったから。

 結は視線を落としたまま、一瞬だけ黙っていたが、すぐにふっと顔を上げた。

 「バイクに、救われたんだ。……隼人くんに、出会えたから」

 その言葉に、隼人は言葉を返さなかった。
 ただ、わずかに頬をゆるめて、優しいまなざしを結へ向けていた。

 風は穏やかで、空も海もやわらかい色に包まれていた。
 寄り添うように立つふたりの姿が、ゆったりと進むフェリーの時間とともに、静かに溶け込んでいく。



Scene.03 呉、レトロと海と未来と

 フェリーを降りて、とびしま海道へ。

 岡村島から中ノ島、大崎下島を越えて――穏やかな海沿いの道を、ふたりは軽やかに駆け抜けた。
 空はすっかり昼の色になり、陽射しはまぶしいが、海風がちょうどよくバイクの体温を冷ましてくれる。

 橋をいくつも渡り、海沿いの民家の間を縫うように走る。
 何気ない集落を通り過ぎるたび、軒先に吊るされた干物や、空き地に置かれた漁具が目に映る。
 それらが、この土地の日常を確かに伝えていた。

 やがて、呉の市街に入る。
 結は、信号で止まった際、ふと周囲を見回した。

 「……ここに来るの、ほんと久しぶり。子供の頃、親に連れて来てもらったきりかも」

 呉の街は、どこか懐かしい匂いがした。
 年季の入った商店街の看板。白地に黒で書かれた“海軍カレー”の文字が、レトロさをさらに際立たせている。

 アーケードを抜けた先には、小さな屋台がいくつか並んでいた。
 そのひとつで売られていた、揚げたてのたこ天をふたりで半分こにする。

 「あっつ……けど、うまっ!」

 「はふっ……ほんとだ、しっかりした味。こういう地元の味って、なんか安心する」

 そんな何気ないやりとりの中に、小さな幸せが混じっていた。

 やがて、通りを抜けた先の埠頭近くで足を止める。

 そこには観光客向けの艦船クルーズの案内板が立っていて、「この時間なら空きあり」の文字が風に揺れていた。
 結はそれを見上げながら、目を細める。

 「……やっぱり、呉って“海の街”なんだね」

 「昔からな。港町の景色は変わらないけど、見るたびに何か感じるもんがある」

 静かにそう言って、隼人はポケットからスマートフォンを取り出した。

 「せっかくだから写真、撮っとこうか。こっち向いて」

 「えっ、ちょ、待って、急に……!」

 慌てて顔を横に向ける結。

 けれど、そんな戸惑いをよそに、カシャッというシャッター音が響いた。

 「よし、今日のログブックに追加決定」

 スマホの画面に映っていたのは、ほほえみをこらえきれなかった結の素の表情だった。

 「……も、もう……せめて言ってから撮ってよね」

 拗ねたように頬を膨らませる結を見て、隼人はいたずらっぽく笑った。

 「自然な顔の方が、いい表情してる」

 その言葉に、結は不意を突かれて言葉を失った。
 けれどすぐに、うつむきがちに、小さく笑う。

 ふと、隼人の手が結の手にそっと重なる。

 強すぎず、でも確かにそこにいると感じられる、温かな体温。

 「……うん。記念に、握っとこう」

 結は何も言わず、ただその手を握り返した。

 港町の風は少しだけ潮の匂いを濃くしていて、遠くで汽笛が鳴った。
 どこか懐かしくて、どこか新しい――そんな時間が、ゆっくりとふたりを包み込んでいた。



Scene.04 夕暮れと忠海港、再びの海路

 呉の街を離れたのは、午後も後半に差しかかるころだった。

 行きと同じとびしま海道を通らず、ふたりは山陽道沿いの静かな海沿いのルートを選んで、忠海港を目指していた。

 海岸線のカーブが緩やかに続き、漁村やみかん畑の合間を抜けるその道は、どこか懐かしい気配を感じさせた。
 国道を少し外れた旧道には、今は使われていない木造のバス停や、昔ながらの看板がぽつぽつと残っていて、時間がゆるやかに流れていた。

 「……こっちの道、静かでいいね。車も少ないし」

 結がヘルメット越しにインカムでそう呟くと、隼人の声がすぐ返ってくる。

 《ああ。とびしまも好きだけど、ここの雰囲気も悪くない》

 山陽本線の線路が時折横切り、小さな無人駅のホームがちらりと見えた。

 忠海港の手前にさしかかるころには、陽が西に傾き、あたりは柔らかな金色に包まれていた。

 港に着くと、そこには小さな待合所と、のんびりした空気。
 夕方の便に乗る人はまばらで、バイクと人の影が長く伸びていた。

 「もうすぐ出航みたいだね」

 そう言って結がヘルメットを外すと、潮の匂いがふわりと鼻先をくすぐった。

 フェリーに乗り込むと、甲板のベンチに腰を下ろす。バイクたちはロープでしっかり固定され、穏やかな波に揺られていた。

 「……夕陽、きれいだね」

 結がそう呟いたとき、隼人は手すりに肘をかけ、空の色をゆっくり眺めていた。

 「多々羅の橋、見えるかな。あそこを戻るルートにしよう」

 「うん。きっときれい……」

 結の返事は小さな声だったが、確かにその胸に何か温かいものが広がっていた。

 フェリーが大三島の盛港へ到着するころには、空はすっかりオレンジに染まり、海は鏡のように光を映していた。

 再びバイクに火を入れ、今度は南下ルートでしまなみ海道を走り出す。
 多々羅大橋に差しかかると、まるで映画のワンシーンのように、ふたりのバイクが橋の上を並走した。

 ジスペケの青と、GSX-R125の青。
 それぞれのマシンが、落ちかけた太陽の光を反射しながら、橋の白いフレームの間を駆け抜ける。

 「たぶん、忘れられない一日になるね」

 結の言葉は、風の音にかき消されることなく、インカムを通じて真っ直ぐに届いた。

 《結とだから、だよ》

 短く、でも真剣に返された言葉に、結は一瞬、胸がぎゅっとなるのを感じた。

 ふとバックミラーを見ると、橋のアーチと沈みかけた夕陽が重なっていた。
 美しくて、少しだけ切ない光景。

 その時、後ろを走っていた車のヘッドライトが、ふたりの影を路面に長く伸ばした。

 (私、今……すごく幸せだ)

 結は思わず、ヘルメットの中で笑みをこぼす。

 やがて橋を渡りきり、今治の市街地が見え始めた。

 街の灯りがぽつぽつと灯り、夜の訪れがすぐそこにあることを告げていた。
 それはまるで、この一日をそっと包み込むように、ふたりを優しく迎え入れる光でもあった。



Scene.05 今治の夜、ただいまのぬくもり

 夜のしまなみ海道を抜けた先に、やわらかな街の光が見えてきた。
 昼間は賑わっていた今治の市街も、この時間帯になるとどこか落ち着いた表情を見せる。

 GSX-S125とGSX-R125。
 ふたつの青いバイクが並んで走る姿は、どこかリズムの合ったペアダンスのようだった。

 夜風は昼間ほど強くなく、身体を優しく包むようなぬくもりを残している。
 空を見上げると、いくつかの星が淡く瞬いていた。

 今治港近くの交差点で信号が赤に変わり、ふたりはバイクを停める。

 しばしの静寂。ヘルメット越しでもわかるような、心地いい間が流れた。

 「……ただいま、って感じだね」

 インカム越しに結がぽつりと呟く。
 その言葉はまるで、今日一日の旅にそっと蓋をするような、柔らかな余韻を含んでいた。

 信号が青に変わり、再びエンジンが唸りを上げる。
 ふたりは、今治駅近くのバイク駐車場までゆっくりとマシンを進めた。

 駐車スペースに到着すると、隼人がGSX-R125のエンジンを止め、静かにフルフェイスのヘルメットを脱ぐ。
 汗で少しだけ乱れた前髪の奥から、穏やかな目がのぞいていた。

 「うん。今日は、本当にありがとう」

 隼人がそう言って、バイクのハンドルに手を添えながら振り向く。
 その表情は、どこか照れくさそうで、でも紛れもなく真剣だった。

 結も、少し遅れてジスペケのエンジンを切る。
 ヘルメットを脱いだ瞬間、頬にあたる夜風が心地よくて、思わず深呼吸をひとつ。

 「こっちこそ。……隼人くんと一緒だったから、何倍も楽しかった」

 乱れた前髪を指で直しながら、結はまっすぐに隼人の目を見た。
 街灯の光がふたりの間に差し込み、まるでスポットライトのように静かな空間を照らしていた。

 しばしの沈黙――
 だけど、それは居心地の悪いものではなく、言葉にならない気持ちが流れるような、優しい間だった。

 ふたりはどちらからともなく、ふっと笑みをこぼす。

 「えっと……ね、……また一緒に走りたいなって」

 結が少しだけ目線を逸らしながら、でもはっきりと口にした。

 「俺も。次は日曜、空いてるよ」

 隼人の返事はあまりにも自然で、まるで当たり前のようだった。

 この言葉に、結の胸の奥にある“何か”が、そっとほどけていくような気がした。

 恋と呼ぶにはまだ少し照れくさいけれど、
 それでも、今日一緒に走った距離が、確かにふたりの距離を近づけてくれていた。

 ふたりの間にあった“恋の輪郭”が、ようやくやさしく、穏やかに形を持ち始めたような――
 そんな、今治の夜だった。



Scene.06 メッセージのやりとりと、眠る夜

 今治の夜は、ひときわ静かだった。
 住宅街に差しかかると、バイクのエンジン音すら控えめに思えるほどの落ち着いた空気が流れている。

 結が自宅に帰り着いたのは、夜の九時を少し過ぎた頃だった。

 ジスペケをゆっくりとガレージに入れ、ヘルメットを脱ぐと、今日一日の出来事が、次々と心の中に浮かんできた。

 ──朝の港、揺れるフェリー、島の景色。
 ──並んで食べたたこ天、撮られた一枚の写真。
 ──多々羅大橋の上、肩越しに見た隼人の背中。

 (……全部、忘れたくないな)

 お風呂から上がり、髪を乾かしてから、結はパジャマ姿でベッドに腰を下ろす。
 ほのかに残る海風の香りが、旅の余韻を運んでくるようだった。

 スマホを手に取り、ホーム画面を開くと──
 LINEの通知がひとつ、優しく画面を揺らしていた。

 【隼人】
 「今日はありがとう。
 またすぐに走ろうな。
 次は海沿いの朝カフェとか、どう?」

 画面をタップし、メッセージの文字を読み進めた結は、思わず頬を緩めた。

 (……この人、本当にバイクが好きなんだな)

 そして、そこに自分も“隣にいること”が、当たり前のように書かれている。
 それが、なんだか嬉しくて、胸の奥がじんわりとあたたかくなった。

 キーボードに指を滑らせながら、結はゆっくりと返信を打つ。

 【結】
 「こちらこそ!
 今日のこと、一生忘れないと思う。
 次も楽しみにしてるね☕🏍✨」

 少し悩んで、最後にカフェとバイクとキラキラの絵文字を添えた。

 (……ちょっと恥ずかしいかな)

 でも、送信ボタンをタップした瞬間には、そんな気持ちはどこかへ消えていた。

 スマホを胸に抱え、ベッドにそっと横になる。

 シーツの肌触り、心地よい疲れ、そして身体に残る“風の記憶”。
 エンジンの鼓動が、まだどこかに残っているような気がした。

 ──きっと、また明日も。

 ──風に会いに行く。
 ──エンジン音とともに、新しい景色に出会う。

 そう思いながら、結はそっと目を閉じた。

 静かな夜に包まれながら、夢の中でも、隼人と並んでどこかを走っているような──そんな気がしていた。



 走った距離と風の感触が、まだ体に残っている。

 ──きっと、また明日も。エンジン音と一緒に、新しい景色に会える。

To be Continued...

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