フィラメント

EUREKA NOVELS

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第4話

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「おい、小桜。お前のアカウント教えろ」
「え?」

 八木に突然詰問されて由衣は間の抜けた声を出す。

「いいから教えろって。スマホ奪い取るぞ」
「ま、待って」

 圧倒的な体格差の前に由衣は為す術もなく取り押さえられてしまい、羞恥の色に染まった顔で「教えるから放してよ!」と叫んだ。他のクラスメイトたちからは女子同士でじゃれ合っているようにしか見えず、これを虐めだと認識しているこの場には人間は由衣一人しかいない。

「笑わないでよ……?」

 由衣はSNSを覗かれるのは嫌だったので、スマートフォンに映し出された投稿サイトのマイページを二人に見せる。
 八木といつきは素早くそれを検索し「あったあった」と嬉しそうにタッチスクリーンを流していく。由衣は何を言われるのか戦々恐々としており、目を瞑ってただ待った。

「ふーん、上手いじゃん。高評価ポチっと」

 八木が空白のハートを赤く満たす。

「私も」

 いつきもそれに倣う。

「これで高評価十件か。このクラス三分の一がアンタのこと誉めてんだよ。おめでとさん」

 八木がにぃっと口角を上げて言った。
 彼女らの言葉に由衣は強張っていた身体の力を抜き、目を開ける。
 それで新世界が開ける訳ではないが、確かに世界は変化し続けていた。
 小さく、小さく。誰かによって変化し続ける不確かな世界。
 観測者によっては混沌とした世とも、希望溢れる世ともとれる不条理。夜明けの光をどうとらえるかも人それぞれだ。

「ありがとう。でも、ごめんなさい。わたしには教えるなんてこと出来ない」

 由衣は夜の終わりを恐れ、朝日から逃れるように歩き出した。



——それでも。

 わたしは前に進みたい。
 朝にも夜にも染まり切れない半端者だけど、停滞は死を意味するから進み続けたい。由衣はそう思い、弱々しい表情で口を結ぶ。
 まずは年頃の女子としては大幅な減点対象の散乱した室内の掃除からだ。と彼女は重い吐息をこぼして取りかかるのだった。
 だが、その決意も数十分と持たなかった。
 由衣は辛うじて片付いた領域にどさりと崩れ落ち「やっぱり絵以外はダメダメだあ……」とぼやいて愛機を手繰り寄せる。
 スリープを解除し、ペンを硝子板の上に走らせる。この瞬間こそ自分の存在証明なのだと言わんばかりに。

「あれっ」

 由衣はそう思っていたはずなのに思い通りの線が引けず、何度もやり直す。過去の自分の動きをトレースして、完璧な完成図をイメージして。
 手を動かす度に擦り減っていった。それは夕暮れで佇んでいた彼女の心に夜の帳を下ろし、やがて意識は闇に飲まれて何も考えられなくなる。ヤケになって投げ捨てた布製のグローブが夢の残骸の上で軽やかに弾んでいた。

 由衣は絵が描けなくなっていた。
 それどころか身体中に鉛を荒縄で縛り付けたように重たく、起き上がることができない。頭は鈍く痛み、目の前が薄い暗幕で覆われているのではないかというような錯覚に陥る。
 彼女はその日、欠かすことのなかったイラストのアップロードを諦め、その翌日には学校を休んだ。通りの通行人たちの談笑が窓を挟んで室内に響いてくる。今の彼女には自分を嘲笑っているように聞こえてきつく目を閉じた。そして思い出したかのように時々タブレットを取り出しては数秒固まって仕舞い、SNS上で病んでる自分可哀そう! な呟きをしそうになってはすんでのところで踏み止まる。

「おかしい……何か『ヘン』だ、わたし……」

 彼女はいつしか入浴や食事を摂るのも億劫になり、不規則な生活が心身を徐々に荒廃させていった。



「由衣、入るわよ」

 そんな生活がしばらくの間続き、痺れを切らせた由衣の母親が薄暗い領域へと足を踏み入れる。いつか由衣自身で掃除をするので絶対に立ち入るなと強く言った聖域。

「最近どうしたの?」

 木製のベッドフレームを軋ませて母親が昼間から寝転がる由衣の傍に寄り添う。
 彼女がいつも強く当たっていたというのに、母親はいつでも穏和な態度を崩さなかった。それに甘えたくなるが、遅れてやってきた反抗期がそれを拒む。
 以前ならそこで終わるはずだった。
 だが、あの時のクラスメイトたちの言葉が、その表情が。自分の作品を評価してくれた名も知らないインターネットの人々を想像して彼女は自分を改め、自身へと向き直る。
 このままではダメになってしまう。由衣は藁をも掴む思いで差し伸べられた手を掴む。

「お母さん、あのね……」



 数日後。
 スクールカウンセリングを受けた由衣は自室で呆けていた。心の風邪のようなものだとカウンセラーは言っていた。
 つまりは誰でも陥る可能性のある病。
 彼女が抱いていた違和感や他人の視線、被害妄想などはじきに気にならなくなると言っていた。
 気休めの言葉だけがふわふわと辺りに漂い、由衣はぼんやりと「あまり気を張らなくいい」というカウンセラーの言葉を思い返していた。
 だが、絵が描けなくなったことに対しての返答は「そんなに急かずともまた描けるようになりますよ」と曖昧だった。

「今描けなくて悩んでいるのよぉ」

 少しだけ片付けの進んだ自室で由衣が消え入るように呟いた。
 彼女はカウンセラーの指導のもと、規則正しい生活を送ってまだ通学こそ出来ていなかったが、精神面は大分落ち着きを取り戻していた。だというのに絵が未だに描けない。
 彼女は口から黒い感情を煙のように吐き出し、ゆっくりと瞬きを何度かしてタブレットを三度取る。
 完璧は求めない。今の自分に描けるものを描こう。彼女はそう決意してペン先をタブレットの上で躍らせる。
 ぎこちないホワイトヘッドの動き。
 液晶に描かれる滑らかではない弧線。
 オリジナリティを追求するあまり崩れた構図にでたらめなパース。
 全てが思い通りにいかない。絶不調とはこのようなことを言うのだろうか。彼女は魂を搾り取る気持ちでただひたすら描き殴った。
 それは絵を描き始めた幼き日の感覚に似ており、どこか懐かしさや不甲斐なさ、無力感を味わいながらも彼女はあの頃の自分に宛てて描くつもりで続けた。



 数日ぶりに完成させた作品は歪なものだった。だが彼女は胸の内で渦巻いていたものを全て吐き出せた気がして、暗雲立ち込める空に晴れ間が見える。
 今度は陽が当たるのを恐れない。
 ほんの少しだけの前進。
 由衣は改めて自分と向き合うことで再び歩き出す。その姿がどんなにみっともなくて他人にどう笑われようが構わない。これが「わたし」なのだから——由衣の瞳に僅かな光が宿る。



 投稿サイトとSNSにアップロードしたそのオリジナルイラストは、彼女の思う通り評価は一件も付かず、閲覧数も微々たるものだった。
 以前の由衣ならばエア机叩きを決めているところだが、様々な出来事から自らを客観視できるように成長した彼女は大胆な行動に踏み切る。
 スマートフォンで素早く入力したメッセージを送信前に確認する。

「絵描きとして未熟なので、どこがヘンなのかご教示いただけないでしょうか?」

 由衣は送信ボタンを指で弾くのを一瞬だけ躊躇し、大きく息を吸い込んで吐くと「どうにでもなれ!」と指先に力を込めてそれを押した。
 数分間の静寂。
 由衣がぼーっとタイムラインを眺めていると通知が入った。

「基本がなってない」
「もう少し考えて描けよ。絵を舐めすぎ」
「これラフ以下の落書きだろ(笑」

 どこから湧いてきたのか、心無いリプライが続く。
 由衣の頭にかあっと熱気が昇ってくるが、熱くなったところで何の得にもならないのでぶんぶんと頭を振り、頬を手で打って冷静になるように言い聞かせた。
 無反応より何倍もマシだと。

「絵が好きなことだけは伝わった」
「身体の描き方を立体的に意識してみるといいかも」
「好きな絵柄だ」

 どこかで拡散でもされたのだろうか。次第に好感的なリプライも届き始め、あの時以来達成できていなかった高評価二桁台も再び達成できていた。

「がんばれ、がんばれ、がんばれっ」
「上のコメ、お前は美少女なんだろうな?」
「アンチコメあるけど無視しなよー」

 八木が気付かせてくれたことだ。
 たったワンタップで染まる安いハートだが、その数字の先には紛れもなく人がいた。
 由衣にとってそれはアンダーグラウンドなインターネットで光輝く道標のようだった。
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