0110.

緋崎辰也

文字の大きさ
2 / 18
第一章 士草澪

1

しおりを挟む
    薄暗い玄関で、士草澪しそうみおはじりじりと迫ってくる母と対峙していた。

    母は台所から届く照明の明かりを背負い、逆光になっていて顔がよく見えない。

    ただ、母が握る、澪の血がついた包丁が鈍く光っている。

「ふ、へへへぇ」

    かすれた声で嬉しそうに、母が笑っている。澪の怯えた息づかいを楽しんでいる。

    澪は、深く切りつけられた左腕を抱えながら、母の後ろを見やった。

    物陰に隠れている幼い弟と妹が、母の背をじっとにらんでいた。いまにも飛びかかりそうな二人は、ずいぶん前から静かに泣いている。

    と、弟と目が合った。澪は彼がなにをしようとしているのか分かり、首を横に振る。

    ──だめ、来ちゃだめ⋯!!

    弟はまた母を見て、そして強く歯を食いしばり、何も持たない手で母に飛びかかった。

「ああっ!  なにするんだ!!」

    思いもよらない邪魔が入り、母が声を荒らげる。

    弟が包丁を叩き落とし、さらに妹も母に飛びつく。

「お姉ちゃんにげてぇ!!」

    ちいさな体から懸命に出される声に、澪の強ばった脚がびくっと反応する。

「はやく!  姉ちゃんはやくにげて!」

    弟は母に引き剥がされそうになるが、必死に首にしがみつき抵抗する。

「オレたちのことはいいから!  姉ちゃんここにいたら殺されちゃうよ!!」

「そうだよ!  お姉ちゃんはここにいちゃだめぇ!」

    ──ここにいてはいけない。二人の叫びに、澪は嗚咽をもらしながら外へ飛び出した。

    振り返らずに走る。まだ母の声が聞こえる。

    夜の闇に澪の息切れがまじり、道路に点々と血が落ちる。一歩進むたびに深い傷に響き、いまも全身が切り裂かれているようだ。

    それでも一度も休むことなく、澪は走った。

    もうどれほど走ったのか分からなくなった時には、森のなかにいた。

    靴下を貫き、足裏に小枝が刺さる。枝に髪がからまり、音を立てて数本抜けた。

「──たすけて⋯⋯」

    薄れていく意識のなか、澪は虚空に願った。ぼんやりする視界に、木々の間からの月明かりだけが眩しくうつる。

    ついに澪は足を止め、受け身もとれずに倒れた。

「⋯⋯ぁすけ⋯⋯て」

   声はかすかで、澪は目を見開いたままゆっくりと意識を失った。




    森に、静かに足音が鳴る。

    一人分のその音は、土に横たわる少女のそばで止まる。

    そしておもむろに少女を抱き上げ、森の奥へと消えていった。




    *    *    *




    澪は薄明かりを感じ、目覚めた。

「ここ、は⋯⋯」

    見慣れない天井に、照明。そよ風が鼻先をかすめ、草いきれの豊かな香りがする。

    布団の中の体がだるいので、首だけを動かし、日射しのほうを確認すると、そこにはやはり見慣れない縁側があった。

    ちらほらと小花の咲く、手入れがなってない庭もある。林から小鳥が鳴きながら飛び立った。

「朝⋯⋯かな」

    時間の感覚も分からなくなっている。

    そもそもなぜ自分はここにいるのか、ここはどこなのか。

    澪は暗がりの室内へ目を移す。そこには──布団の脇に、黒い着物姿の見知らぬ男性が正座をし、自分を見下ろしていた。

    中性的な細い輪郭で色の白い肌、きらきらと輝くような真っ白の短髪、そして不思議な目の色をしている。まだ夢を見ているのかと思ってしまうほど、この男性は現実離れした美しさだ。

「おはよう」

    男性が微笑み、おだやかな低い声で言った。

    その声にドキッとして、澪は我に返る。

「ぁ、あの⋯⋯っ、ここは──わたし、どうして」

    起き上がろうと手を床に着いたら、にぶい痛みが走る。見るとあちこちに包帯が巻かれていた。

「すぐに動いては、傷が開いてしまう。話なら横になったまましよう」

    男性にうながされ、澪は再び頭を枕に乗せ、長く息をついた。

    この痛みは、母に切られたから⋯⋯あの絶望は夢なんかではなかったのだ。あんなに血が出ていたのに、助かることが出来たなんて。

「⋯⋯あなたが、わたしを助けてくれたんですか?」

「そうだ。助けてと、声が聞こえたから」

「あ、ありがとうございます⋯⋯」

    この男性はあんなひと気のない夜の森にいたのか。

「──名前を、教えてほしい」

    そういえばまだ名乗っていなかった。

「士草澪です」

「歳はいくつ?」

「十三です」

「⋯⋯なぜ、こんなに傷だらけで森にいたんだ?」

「⋯⋯わたしは、時々母から暴力を受けていました。でもあの夜はいつもよりひどくて、死んじゃうかと思ったんです。それで、弟と妹を家に残したまま⋯⋯逃げていたんです」

    母は澪にだけ暴力を振るっていた。自分がいなくなった後、その矛先が弟と妹に向かっていないだろうか⋯⋯。

「君は、家に帰りたいかい?」

    訊かれてはじめて、澪は考える。

    ──答えはすぐに出た。

「帰りたくないです。まだ、怖い⋯⋯」

「警察には、連絡する?」

    澪は首を振る。

「もしも母が弟たちを傷つけないなら、このままがいいです。二人にはまだ母が必要なんです。母しか、いないんです。⋯⋯わたしのことは、誰にも言わないでください。母に知られたら連れ戻されてしまう」

    いずれ男性の元にも母が来るかもしれない。そして澪を助けた人物なのだと知ったら、この男性にも危害を加えるかもしれないのだ。

    具体的にここがどこなのか分からないが、もし士草家から近い場所ならまずい。

    助けてくれただけでも奇跡のようなのだから、これ以上男性に迷惑は掛けられない──澪は早々にここを立とうと心に決めた。

    ──しかし。

「それなら、これからはここで暮らすといい」

    男性がそんなことを言い出すので、「え?」と思わず聞き返す。こんな素性の知れない家出少女を、簡単に迎え入れるなんて。

「ここは私しかいない、森の奥深い戸建てだ。知っている者は滅多にいない。言うなれば陸の孤島のようなところだから、外部の者も迷ってここまでは来れないよ」

    だから安心するといい、と男性はまた微笑んだ。

    澪は驚きのあまり放心してしまい、「え、え」としか言えないでいる。

「ここら一帯は私の敷地だから、家のなかもふくめて好きに使っていいからね」

「ぇ、お⋯⋯ほ、ほんとうに?」

    男性はうなずく。

    ──これは⋯⋯まだ夢を見ているの?

    不思議と男性のことを怖いと思わない。なにかのキャラのコスプレをしているような見た目で、年齢も分からないのに、澪の心には一切の不安も疑いもない。なぜか、とても安心できる。

    この人は、いったい──。

「あ、そういえばまだ、あなたのお名前をきいてません」

    自分のことばかり考えていて、大切なことを忘れていた。

    だが男性はすぐに答えず、なぜかうーんと悩み出す。明後日の方向を見やり、首を傾げる仕草がなんだか可愛らしい。

「⋯⋯すまないが、私には名乗るほどの名前がない。君の好きなように呼んでくれると助かる」

    名乗るほどの名前がない?  ──どうしてだろうと思ったが、男性がこう言ったのならなにかワケがあるんだろう、詮索するのはやめておく。

    まだこの家で暮らすと返事をしていないのに、澪は真剣に男性の名前を考える。これから何度も呼ぶことになるであろう、彼の名を──。

「ん~⋯⋯」

    澪はけっこうな時間をかけた。男性はその間もじっとし、澪を急かすことも小言を言うこもせず、静かに待っていた。

(──あ、そうだ)

    初めて男性の目を見たとき、不思議な色に心臓がギュッとなった。

    青紫色の、花のような色。

「リンドウは、どうでしょうか」

「リンドウ⋯⋯うん、いいね。澪が呼んでくれると、特別な感じがする」

「あ、ありがとうございます」

    みお、と彼に言われて、澪は顔が熱くなるのを自覚した。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

✿ 私は彼のことが好きなのに、彼は私なんかよりずっと若くてきれいでスタイルの良い女が好きらしい 

設楽理沙
ライト文芸
累計ポイント110万ポイント超えました。皆さま、ありがとうございます。❀ 結婚後、2か月足らずで夫の心変わりを知ることに。 結婚前から他の女性と付き合っていたんだって。 それならそうと、ちゃんと話してくれていれば、結婚なんて しなかった。 呆れた私はすぐに家を出て自立の道を探すことにした。 それなのに、私と別れたくないなんて信じられない 世迷言を言ってくる夫。 だめだめ、信用できないからね~。 さようなら。 *******.✿..✿.******* ◇|日比野滉星《ひびのこうせい》32才   会社員 ◇ 日比野ひまり 32才 ◇ 石田唯    29才          滉星の同僚 ◇新堂冬也    25才 ひまりの転職先の先輩(鉄道会社) 2025.4.11 完結 25649字 

🥕おしどり夫婦として12年間の結婚生活を過ごしてきたが一波乱あり、妻は夫を誰かに譲りたくなるのだった。

設楽理沙
ライト文芸
 ☘ 累計ポイント/ 190万pt 超えました。ありがとうございます。 ―― 備忘録 ――    第8回ライト文芸大賞では大賞2位ではじまり2位で終了。  最高 57,392 pt      〃     24h/pt-1位ではじまり2位で終了。  最高 89,034 pt                    ◇ ◇ ◇ ◇ 紳士的でいつだって私や私の両親にやさしくしてくれる 素敵な旦那さま・・だと思ってきたのに。 隠された夫の一面を知った日から、眞奈の苦悩が 始まる。 苦しくて、悲しくてもののすごく惨めで・・ 消えてしまいたいと思う眞奈は小さな子供のように 大きな声で泣いた。 泣きながらも、よろけながらも、気がつけば 大地をしっかりと踏みしめていた。 そう、立ち止まってなんていられない。 ☆-★-☆-★+☆-★-☆-★+☆-★-☆-★ 2025.4.19☑~

つまらなかった乙女ゲームに転生しちゃったので、サクッと終わらすことにしました

蒼羽咲
ファンタジー
つまらなかった乙女ゲームに転生⁈ 絵に惚れ込み、一目惚れキャラのためにハードまで買ったが内容が超つまらなかった残念な乙女ゲームに転生してしまった。 絵は超好みだ。内容はご都合主義の聖女なお花畑主人公。攻略イケメンも顔は良いがちょろい対象ばかり。てこたぁ逆にめちゃくちゃ住み心地のいい場所になるのでは⁈と気づき、テンションが一気に上がる!! 聖女など面倒な事はする気はない!サクッと攻略終わらせてぐーたら生活をGETするぞ! ご都合主義ならチョロい!と、野望を胸に動き出す!! +++++ ・重複投稿・土曜配信 (たま~に水曜…不定期更新)

不倫の味

麻実
恋愛
夫に裏切られた妻。彼女は家族を大事にしていて見失っていたものに気付く・・・。

処理中です...