3 / 18
第一章 士草澪
2
しおりを挟む
七年が経ち、澪は二十歳になった。
庭で摘んだ花を束ねる手が冷たく、温めようと吐く息も白くなる。何度かそうしながら、納得出来る花束が完成した。
ひかえめな柄の和紙に、蝶々結びのリボン。プレゼントにしては小ぶりだが、受け取ってもらえればそれだけでいいのだ。
澪は深呼吸して、縁側に座り庭をながめるリンドウに声をかける。緊張して、声が震えてしまう。
「あの、リンドウさん⋯⋯相談があります」
「ん? なにかな」
リンドウの側に、着物が崩れないよう正座し、澪は彼の目を見た。いつもおだやかに見守ってくれていたその瞳に、自分が映っている。
「わたし、い、一度⋯⋯実家に行ってみます」
リンドウの表情がすこし険しくなる。澪は震える両手を握りしめ、上ずった声で続ける。
「でも、またここに帰ってきます! かならず──」
「⋯⋯今日、行くのか」
「はい」
「⋯⋯かならず、帰ってくるんだよ」
澪は不安げなリンドウを安心させるように微笑み、家を出た。
* * *
七年ぶりに森を抜けた澪は辺りを見渡し、記憶をたどりながら歩き出す。
「たしか、こっち⋯⋯」
あの夜のことを一日中思い出さなかった日もあった。弟や妹といたときよりも、リンドウといたほうが安らかな気持ちにもなれた。
それなのに、まるで一秒前の出来事のように思い出される、母の罵声。弟と妹の悲鳴。自分の息切れの音──
真冬の空気で、とっくに塞がっている傷痕が痛む。震えるのは寒いから? それだけじゃない。
怖くて、痛くて、かなしくて──
「あ⋯⋯ここだ」
ついに家が見えた。澪は立ち止まり、胸の前に持った花束を見つめ、意を決してゆっくりと歩み寄る。
家の周囲はあまり変わっていないようだ。
一階のリビングが見える窓にそっと近づき、仲を窺う。
そこには、成長した弟と妹と、すこし太った母の背中があった。弟は十八歳で、年子の妹も高校生だ。二人ともすっきりとした顔立ちで大人びているが、ちゃんと澪が憶えている面影がある。
ふと妹が笑い、次いで弟も笑った。母の背も小刻みに震える。
──よかった⋯⋯。二人とも無事だ。
澪は自身が成人し、思ったのだ。もうすぐ弟たちは高校を卒業する。自分は学生生活なんてものなかったけれど、二人はどうだろう、と。
人生の節目に、会ってみよう──そして、この家まで戻ってきたのだ。
澪は音を立てないよう玄関口へ行き、二度深呼吸してチャイムを押した。
「はーい」
出てきたのは、母だった。
澪を見てすぐに誰かわかったようで、母はすっと無表情になる。
澪の心臓は爆発しそうなほど速い鼓動を打っていた。
「⋯⋯お母さん」
なんとか出した声はかすれて、先を続けることができないほど口が渇いていた。母は、いまだ澪の精神を蝕む、恐怖の塊だったのだ。そしてそれは、七年経っても何ひとつ変わっていない。
「あんたを、一年間も探したよ」
座った目のままじっと澪を睨む母は、いままで溜めていたものすべてを吐き出すように話し出した。
「探したワケはねぇ、あんたを捕まえて、また殴るためだよ。気持ちがいいからね。
下の子たちとくらべて、あんたはお姉ちゃんだからって私にまでえらそうに口きいてさ、すっごくストレス溜まってたわ。
その分をあんた自身にぶつけてたってわけ。あんたがいなくなったらそのストレスもなくなったのよ。
──いまは平和そのもの。だってあんたがいないんだもん! あんた、もういらないから。
ずっと行方不明でいてよね」
鼻で笑ってドアを閉めようとする母に、澪は視界を滲ませながら訊く。
「水斗と雫には、ひどいこと⋯⋯してないよね?」
母はうれしそうに笑って答えた。
「当たり前でしょ。あの子たちはあんたと違って生意気なこと言わないからね」
「そっか⋯⋯安心した」
澪は背に隠していた花束を差し出す。
「これ、わたしが育てた花。きれいだから、花束にしたの。⋯⋯受け取って、くれる?」
「⋯⋯いらない。知らないひとの物には手を出さないように、ってあの子たちに教えておくわ」
乱暴にドアが閉められる。
澪は花束をそっとポーチに置き、ドアに一礼して立ち去った。
庭で摘んだ花を束ねる手が冷たく、温めようと吐く息も白くなる。何度かそうしながら、納得出来る花束が完成した。
ひかえめな柄の和紙に、蝶々結びのリボン。プレゼントにしては小ぶりだが、受け取ってもらえればそれだけでいいのだ。
澪は深呼吸して、縁側に座り庭をながめるリンドウに声をかける。緊張して、声が震えてしまう。
「あの、リンドウさん⋯⋯相談があります」
「ん? なにかな」
リンドウの側に、着物が崩れないよう正座し、澪は彼の目を見た。いつもおだやかに見守ってくれていたその瞳に、自分が映っている。
「わたし、い、一度⋯⋯実家に行ってみます」
リンドウの表情がすこし険しくなる。澪は震える両手を握りしめ、上ずった声で続ける。
「でも、またここに帰ってきます! かならず──」
「⋯⋯今日、行くのか」
「はい」
「⋯⋯かならず、帰ってくるんだよ」
澪は不安げなリンドウを安心させるように微笑み、家を出た。
* * *
七年ぶりに森を抜けた澪は辺りを見渡し、記憶をたどりながら歩き出す。
「たしか、こっち⋯⋯」
あの夜のことを一日中思い出さなかった日もあった。弟や妹といたときよりも、リンドウといたほうが安らかな気持ちにもなれた。
それなのに、まるで一秒前の出来事のように思い出される、母の罵声。弟と妹の悲鳴。自分の息切れの音──
真冬の空気で、とっくに塞がっている傷痕が痛む。震えるのは寒いから? それだけじゃない。
怖くて、痛くて、かなしくて──
「あ⋯⋯ここだ」
ついに家が見えた。澪は立ち止まり、胸の前に持った花束を見つめ、意を決してゆっくりと歩み寄る。
家の周囲はあまり変わっていないようだ。
一階のリビングが見える窓にそっと近づき、仲を窺う。
そこには、成長した弟と妹と、すこし太った母の背中があった。弟は十八歳で、年子の妹も高校生だ。二人ともすっきりとした顔立ちで大人びているが、ちゃんと澪が憶えている面影がある。
ふと妹が笑い、次いで弟も笑った。母の背も小刻みに震える。
──よかった⋯⋯。二人とも無事だ。
澪は自身が成人し、思ったのだ。もうすぐ弟たちは高校を卒業する。自分は学生生活なんてものなかったけれど、二人はどうだろう、と。
人生の節目に、会ってみよう──そして、この家まで戻ってきたのだ。
澪は音を立てないよう玄関口へ行き、二度深呼吸してチャイムを押した。
「はーい」
出てきたのは、母だった。
澪を見てすぐに誰かわかったようで、母はすっと無表情になる。
澪の心臓は爆発しそうなほど速い鼓動を打っていた。
「⋯⋯お母さん」
なんとか出した声はかすれて、先を続けることができないほど口が渇いていた。母は、いまだ澪の精神を蝕む、恐怖の塊だったのだ。そしてそれは、七年経っても何ひとつ変わっていない。
「あんたを、一年間も探したよ」
座った目のままじっと澪を睨む母は、いままで溜めていたものすべてを吐き出すように話し出した。
「探したワケはねぇ、あんたを捕まえて、また殴るためだよ。気持ちがいいからね。
下の子たちとくらべて、あんたはお姉ちゃんだからって私にまでえらそうに口きいてさ、すっごくストレス溜まってたわ。
その分をあんた自身にぶつけてたってわけ。あんたがいなくなったらそのストレスもなくなったのよ。
──いまは平和そのもの。だってあんたがいないんだもん! あんた、もういらないから。
ずっと行方不明でいてよね」
鼻で笑ってドアを閉めようとする母に、澪は視界を滲ませながら訊く。
「水斗と雫には、ひどいこと⋯⋯してないよね?」
母はうれしそうに笑って答えた。
「当たり前でしょ。あの子たちはあんたと違って生意気なこと言わないからね」
「そっか⋯⋯安心した」
澪は背に隠していた花束を差し出す。
「これ、わたしが育てた花。きれいだから、花束にしたの。⋯⋯受け取って、くれる?」
「⋯⋯いらない。知らないひとの物には手を出さないように、ってあの子たちに教えておくわ」
乱暴にドアが閉められる。
澪は花束をそっとポーチに置き、ドアに一礼して立ち去った。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
✿ 私は彼のことが好きなのに、彼は私なんかよりずっと若くてきれいでスタイルの良い女が好きらしい
設楽理沙
ライト文芸
累計ポイント110万ポイント超えました。皆さま、ありがとうございます。❀
結婚後、2か月足らずで夫の心変わりを知ることに。
結婚前から他の女性と付き合っていたんだって。
それならそうと、ちゃんと話してくれていれば、結婚なんて
しなかった。
呆れた私はすぐに家を出て自立の道を探すことにした。
それなのに、私と別れたくないなんて信じられない
世迷言を言ってくる夫。
だめだめ、信用できないからね~。
さようなら。
*******.✿..✿.*******
◇|日比野滉星《ひびのこうせい》32才 会社員
◇ 日比野ひまり 32才
◇ 石田唯 29才 滉星の同僚
◇新堂冬也 25才 ひまりの転職先の先輩(鉄道会社)
2025.4.11 完結 25649字
🥕おしどり夫婦として12年間の結婚生活を過ごしてきたが一波乱あり、妻は夫を誰かに譲りたくなるのだった。
設楽理沙
ライト文芸
☘ 累計ポイント/ 190万pt 超えました。ありがとうございます。
―― 備忘録 ――
第8回ライト文芸大賞では大賞2位ではじまり2位で終了。 最高 57,392 pt
〃 24h/pt-1位ではじまり2位で終了。 最高 89,034 pt
◇ ◇ ◇ ◇
紳士的でいつだって私や私の両親にやさしくしてくれる
素敵な旦那さま・・だと思ってきたのに。
隠された夫の一面を知った日から、眞奈の苦悩が
始まる。
苦しくて、悲しくてもののすごく惨めで・・
消えてしまいたいと思う眞奈は小さな子供のように
大きな声で泣いた。
泣きながらも、よろけながらも、気がつけば
大地をしっかりと踏みしめていた。
そう、立ち止まってなんていられない。
☆-★-☆-★+☆-★-☆-★+☆-★-☆-★
2025.4.19☑~
つまらなかった乙女ゲームに転生しちゃったので、サクッと終わらすことにしました
蒼羽咲
ファンタジー
つまらなかった乙女ゲームに転生⁈
絵に惚れ込み、一目惚れキャラのためにハードまで買ったが内容が超つまらなかった残念な乙女ゲームに転生してしまった。
絵は超好みだ。内容はご都合主義の聖女なお花畑主人公。攻略イケメンも顔は良いがちょろい対象ばかり。てこたぁ逆にめちゃくちゃ住み心地のいい場所になるのでは⁈と気づき、テンションが一気に上がる!!
聖女など面倒な事はする気はない!サクッと攻略終わらせてぐーたら生活をGETするぞ!
ご都合主義ならチョロい!と、野望を胸に動き出す!!
+++++
・重複投稿・土曜配信 (たま~に水曜…不定期更新)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる