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第二章 東常真心
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虐待をうけているんじゃないかしら、心配でね。と通報を受け、児童相談所の新人である鈴木飛鳥は、ペアの男性の先輩とともに、現場である家を訪ねた。
飛鳥がチャイムを鳴らす。内部と会話ができるタイプのものではないので、家主が出てくるまでギュッと鞄を握り、緊張を紛らわす。
「来るぞ」
先輩のちいさい声も強ばっている。
足音が聞こえてきて、控えめに扉が開いた。隙間から迷惑そうな顔した婦人が半身だけ出てくる。
「······なんですか?」
「突然すみません。児童相談所です。お電話がありまして───」
「電話? なに、誰から? なんて言ってたの」
先輩はつとめて冷静に対応する。
「お電話をくれた方のことはお教えできません。こちらのお宅にお子様はいらっしゃいますか?」
「え? いないけど。───なんなら見ていってもいいよ」
飛鳥は思わず先輩を見る。家の中を見せてくれることはなかなかないので、一度目の訪問からこれは上々ではないか。
しかし先輩は、女性が中に入っていったのを確認し、飛鳥に忠告する。
「夫がいるかもしれない。暴行を受けたりする可能性もある、気をつけろ」
「は、はい」
飛鳥は生唾を無理やり飲み込む。先輩や他の職員が、訪問した先で住人に暴行された、軟禁されたということが実際に報告されている。
それが自分にも起きるかもしれないのだ。
先輩が先に入り、飛鳥も続く。玄関をあがり、すぐ右手にキッチンとリビングがある。薄暗くカビ臭いが、ゴミのようなものはなく、散らかってもいない。
飾り気のない、普通の家だ。
リビングの2人掛けソファーに、男性の後ろ姿があった。音の大きいテレビを見ている。
先輩と飛鳥の足音で、こちらを向いた。角度的に睨むような目つき。
二人が会釈すると男性もすこし頭を下げ、またテレビを見はじめる。
「こっちも見てく?」
先輩が女性の案内で廊下の奥へ進む。飛鳥は異常がないか、二人以外に誰もいないのか、見落としがないよう素早く視線を走らせる。
重なった食器、冷蔵庫、ゴミ箱、半分閉じられたカーテン。
「───ぁ」
ふと見た冷蔵庫と壁の隙間に、なにかある。透明で厚いプレートのようなもの。しかし確認する前に男性が側に来て、怪訝な顔をしたので、飛鳥はペコッと頭を下げ逃げるようにして先輩の後を追った。
(······さっきの、どこかで見た気がする───)
透明のプレートはごく身近なところにある。だがどこなのか思い出せない。
気になるが、住人の癪に障ってもいけないので、次の部屋に意識を向けた。
一番奥の部屋は、なにも置かれていなかった。
「ここ、むっとしますね······」
先に来ていた先輩の背中に話しかける。彼は肩越しに窓が閉まっているからだろうと教えてくれた。
窓はきっちり紺のカーテンで隠され、電飾のひとつも無いので、暗く空気がこもっている。
ぐるりと部屋を端から端まで確認するが、アラビアン柄の壁紙が四方にあるだけで、床のフローリングにもとくになにもなかった。
「全部見ていくの?」
部屋を出ていく女性と入れ違いで飛鳥は踏み込んだ。
隅をしゃがんで見ると、ホコリがたまっている。カーテンを開ける。締め切られた窓には見慣れない鍵があり、すこしいじると外側からも鍵が掛けられると分かった。
「変な部屋······」
飛鳥は住人が来る前に鞄からタップを取り出し、素早くコンセントに差し込む。出る前に一度振り返り、ちゃんと刺さっていることを見届けて部屋を出た。
ひと通り中をまわり、しかし子供の姿は確認できないまま、家を後にすることとなった。
仕事を終えた飛鳥は自車に乗り込み、昼間訪ねた家の近くまで走らせる。
道の脇に停車し、盗聴器を準備する。
───イヤホンからすぐに声が聞こえてきた。が、それはあの女性でも男性でもなく、か細い子供の声だった。
「やっぱりいたんだ」
誰かと話している。女性だろうか······。家主の女性の声はもっとしゃがれていたが、イヤホンから聞こえてくる声はずっと若い。
〚あなたは······だれ〛
子供の声はずいぶんかすれていて、いまにも息が止まってしまいそうなほど弱々しい。
〚······私は、レイイチといいます〛
〚れ······いち、さん〛
〚あなたの声を聞いて、ここへ来ました。───生きたいですか? 死にたいですか?〛
「な───!」
飛鳥は驚いた。そこにいるならなぜそんなことを訊くのか。助けて当然だろうに、こいつはなにを言っているんだ。
「変なこと言ってないで、助けてよ!」
飛鳥はイヤホンに懇願するが、こちらの声がむこうに届く機能はついていない。
〚レイイチさん······ころして〛
ノイズ混じりの子供の声が、そんなことを言った。
「ど、とうして」
飛鳥は通信機を握りしめる。
〚もう、しにたい······でも、くるしいのに、どうやってしねば、いいか······わからない〛
〚······───わかりました。殺します〛
「えっ」
なにか、カチリと音がした。
(なに、いまの音······まさか、本当に殺すつもり?!)
「うそ、待っておねが······っ!」
パンッ
車内に響く飛鳥の悲痛な叫びは、盗聴器から聞こえてきた乾いた音によって止められる。
その音が銃声だと分かるまで、ずいぶん時間が掛かった。
飛鳥は呼吸をするのも忘れ、イヤホンに集中する。
〚······来世で······しあわせになって······〛
それきり静かになる。もうあの部屋には誰もいない。いや、あの子が······あの子の体が、ある······。
助けられなかった───。
もうどうすることもできないのだと悟った瞬間、飛鳥は泣き出した。
* * *
はじめての現場で少年を助けられなかった飛鳥は、ショックで仕事を休みがちになっていた。
あの日ひそかにつけた盗聴器のことは、誰にも話していない。
飛鳥はとても正義感が強かった。ニュースで虐待死のことを知る度に、私なら何としてでも子供を助けるのに、と憤りを感じていた。
だから、禁止されている盗聴器まで用意したのだ。こうまでしなければ助けられない。むしろここまですれば助けられるだろう、そう思っていた。
だが、助けられなかった。
少年は部屋の扉にも窓にも鍵が掛けられた状態で死んでいた。頭を銃のようなもので撃ちぬかれ、即死だったという。ニュースではそれだけだった。
飛鳥が先輩と訪問したとき、少年は冷蔵庫の中に隠されていたと、後に気がついた。
冷蔵庫と壁の間にあったプレートは、冷蔵庫の間仕切りだったのだ。すべて外せば、子供ひとりは入れる。
なぜもっとはやく、それこそプレートを怪しんだ時点で気づくことができなかったのか。
子供を隠していたあの女と男への怒りよりも、助けられなかったという変えようのない事実が、時間を追うごとに絶望となって飛鳥の脳を支配していく。
上司から職場に来るよう言われ、一週間ぶりに出勤する。スーツを着て、適当に身形を整える。車を運転しているとき、あの子は死んだのに、どうして自分は生きているんだろうと思った。
職場について早々に、上司はスマートフォンの画面を見せてきた。そこには、見覚えのあるタップが、袋に入っている画像だった。
「これから君の指紋が見つかった。あの家に盗聴器を仕掛けたのは鈴木さんだね。······何としても助けたい気持ちはわかるが、それはしてはいけないんだよ。だから、三ヶ月の謹慎処分とする───」
帰り際、あのとき一緒だった先輩が不思議な話をしてきた。
「鈴木が休んでる間に、ちょっとしたミステリーがあったんだよ」
───耳の聞こえない女の子が殺された。
その子の物と思われるノートには、死ぬ直前に書いたらしいメッセージが残されていた。
〚レイイチさん、ありがとう〛
飛鳥はその名前にはっとする。あの子が言っていた名前だ。
先輩は顎に手を当て、探偵のように目をつむって続ける。
「その子は頭を撃たれていた。誰かがいたのは確かなのに、女の子以外が部屋にいた形跡は無かったんだ。その家の住人以外の指紋は見つからなかったようだし。
なによりそこは、密室になっていたんだ───」
あの子を殺したやつと同一人物だ。“レイイチさん”はいる。存在する。
飛鳥は確信した。
飛鳥がチャイムを鳴らす。内部と会話ができるタイプのものではないので、家主が出てくるまでギュッと鞄を握り、緊張を紛らわす。
「来るぞ」
先輩のちいさい声も強ばっている。
足音が聞こえてきて、控えめに扉が開いた。隙間から迷惑そうな顔した婦人が半身だけ出てくる。
「······なんですか?」
「突然すみません。児童相談所です。お電話がありまして───」
「電話? なに、誰から? なんて言ってたの」
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「え? いないけど。───なんなら見ていってもいいよ」
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しかし先輩は、女性が中に入っていったのを確認し、飛鳥に忠告する。
「夫がいるかもしれない。暴行を受けたりする可能性もある、気をつけろ」
「は、はい」
飛鳥は生唾を無理やり飲み込む。先輩や他の職員が、訪問した先で住人に暴行された、軟禁されたということが実際に報告されている。
それが自分にも起きるかもしれないのだ。
先輩が先に入り、飛鳥も続く。玄関をあがり、すぐ右手にキッチンとリビングがある。薄暗くカビ臭いが、ゴミのようなものはなく、散らかってもいない。
飾り気のない、普通の家だ。
リビングの2人掛けソファーに、男性の後ろ姿があった。音の大きいテレビを見ている。
先輩と飛鳥の足音で、こちらを向いた。角度的に睨むような目つき。
二人が会釈すると男性もすこし頭を下げ、またテレビを見はじめる。
「こっちも見てく?」
先輩が女性の案内で廊下の奥へ進む。飛鳥は異常がないか、二人以外に誰もいないのか、見落としがないよう素早く視線を走らせる。
重なった食器、冷蔵庫、ゴミ箱、半分閉じられたカーテン。
「───ぁ」
ふと見た冷蔵庫と壁の隙間に、なにかある。透明で厚いプレートのようなもの。しかし確認する前に男性が側に来て、怪訝な顔をしたので、飛鳥はペコッと頭を下げ逃げるようにして先輩の後を追った。
(······さっきの、どこかで見た気がする───)
透明のプレートはごく身近なところにある。だがどこなのか思い出せない。
気になるが、住人の癪に障ってもいけないので、次の部屋に意識を向けた。
一番奥の部屋は、なにも置かれていなかった。
「ここ、むっとしますね······」
先に来ていた先輩の背中に話しかける。彼は肩越しに窓が閉まっているからだろうと教えてくれた。
窓はきっちり紺のカーテンで隠され、電飾のひとつも無いので、暗く空気がこもっている。
ぐるりと部屋を端から端まで確認するが、アラビアン柄の壁紙が四方にあるだけで、床のフローリングにもとくになにもなかった。
「全部見ていくの?」
部屋を出ていく女性と入れ違いで飛鳥は踏み込んだ。
隅をしゃがんで見ると、ホコリがたまっている。カーテンを開ける。締め切られた窓には見慣れない鍵があり、すこしいじると外側からも鍵が掛けられると分かった。
「変な部屋······」
飛鳥は住人が来る前に鞄からタップを取り出し、素早くコンセントに差し込む。出る前に一度振り返り、ちゃんと刺さっていることを見届けて部屋を出た。
ひと通り中をまわり、しかし子供の姿は確認できないまま、家を後にすることとなった。
仕事を終えた飛鳥は自車に乗り込み、昼間訪ねた家の近くまで走らせる。
道の脇に停車し、盗聴器を準備する。
───イヤホンからすぐに声が聞こえてきた。が、それはあの女性でも男性でもなく、か細い子供の声だった。
「やっぱりいたんだ」
誰かと話している。女性だろうか······。家主の女性の声はもっとしゃがれていたが、イヤホンから聞こえてくる声はずっと若い。
〚あなたは······だれ〛
子供の声はずいぶんかすれていて、いまにも息が止まってしまいそうなほど弱々しい。
〚······私は、レイイチといいます〛
〚れ······いち、さん〛
〚あなたの声を聞いて、ここへ来ました。───生きたいですか? 死にたいですか?〛
「な───!」
飛鳥は驚いた。そこにいるならなぜそんなことを訊くのか。助けて当然だろうに、こいつはなにを言っているんだ。
「変なこと言ってないで、助けてよ!」
飛鳥はイヤホンに懇願するが、こちらの声がむこうに届く機能はついていない。
〚レイイチさん······ころして〛
ノイズ混じりの子供の声が、そんなことを言った。
「ど、とうして」
飛鳥は通信機を握りしめる。
〚もう、しにたい······でも、くるしいのに、どうやってしねば、いいか······わからない〛
〚······───わかりました。殺します〛
「えっ」
なにか、カチリと音がした。
(なに、いまの音······まさか、本当に殺すつもり?!)
「うそ、待っておねが······っ!」
パンッ
車内に響く飛鳥の悲痛な叫びは、盗聴器から聞こえてきた乾いた音によって止められる。
その音が銃声だと分かるまで、ずいぶん時間が掛かった。
飛鳥は呼吸をするのも忘れ、イヤホンに集中する。
〚······来世で······しあわせになって······〛
それきり静かになる。もうあの部屋には誰もいない。いや、あの子が······あの子の体が、ある······。
助けられなかった───。
もうどうすることもできないのだと悟った瞬間、飛鳥は泣き出した。
* * *
はじめての現場で少年を助けられなかった飛鳥は、ショックで仕事を休みがちになっていた。
あの日ひそかにつけた盗聴器のことは、誰にも話していない。
飛鳥はとても正義感が強かった。ニュースで虐待死のことを知る度に、私なら何としてでも子供を助けるのに、と憤りを感じていた。
だから、禁止されている盗聴器まで用意したのだ。こうまでしなければ助けられない。むしろここまですれば助けられるだろう、そう思っていた。
だが、助けられなかった。
少年は部屋の扉にも窓にも鍵が掛けられた状態で死んでいた。頭を銃のようなもので撃ちぬかれ、即死だったという。ニュースではそれだけだった。
飛鳥が先輩と訪問したとき、少年は冷蔵庫の中に隠されていたと、後に気がついた。
冷蔵庫と壁の間にあったプレートは、冷蔵庫の間仕切りだったのだ。すべて外せば、子供ひとりは入れる。
なぜもっとはやく、それこそプレートを怪しんだ時点で気づくことができなかったのか。
子供を隠していたあの女と男への怒りよりも、助けられなかったという変えようのない事実が、時間を追うごとに絶望となって飛鳥の脳を支配していく。
上司から職場に来るよう言われ、一週間ぶりに出勤する。スーツを着て、適当に身形を整える。車を運転しているとき、あの子は死んだのに、どうして自分は生きているんだろうと思った。
職場について早々に、上司はスマートフォンの画面を見せてきた。そこには、見覚えのあるタップが、袋に入っている画像だった。
「これから君の指紋が見つかった。あの家に盗聴器を仕掛けたのは鈴木さんだね。······何としても助けたい気持ちはわかるが、それはしてはいけないんだよ。だから、三ヶ月の謹慎処分とする───」
帰り際、あのとき一緒だった先輩が不思議な話をしてきた。
「鈴木が休んでる間に、ちょっとしたミステリーがあったんだよ」
───耳の聞こえない女の子が殺された。
その子の物と思われるノートには、死ぬ直前に書いたらしいメッセージが残されていた。
〚レイイチさん、ありがとう〛
飛鳥はその名前にはっとする。あの子が言っていた名前だ。
先輩は顎に手を当て、探偵のように目をつむって続ける。
「その子は頭を撃たれていた。誰かがいたのは確かなのに、女の子以外が部屋にいた形跡は無かったんだ。その家の住人以外の指紋は見つからなかったようだし。
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