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緋崎辰也

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第三章 東井マナカ

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    東井が起きたときにはすでに、零一は普段着に着替えており、布団をしまうところだった。

    一瞬、どうして零一がいるんだろう、と寝ぼけていたが、すぐに我に返る。

「も、もしかして寝坊しちゃった?」

「まだ六時だ。おはよう」

「おはよう······」

「布団、そのままでいいから」

    そう言い零一は台所へ。はだけていた浴衣をなおしつつ、東井は格子から見える彼女の背中をながめる。

    冷蔵庫からなにやら出し、包丁で切っている。
    ───零一が料理してる。なんというか、意外だ。

    鞄の横に、昨日着ていた服が畳んで置かれていた。いつの間にか乾かしてくれていたようだ。それに着替え、簡単に布団を畳んで台所に行ってみる。

    やはり料理をしていた。きれいに大根がいちょう切りにされ、賽の目の豆腐に、立派ななめこ。そして味噌とダシ。味噌汁のようだ。

「零一がご飯作ってる」

「意外だろ。たまにしかやらないけど、ちゃんと美味しいと思う」

    料理しなさそうなのは自覚しているみたいだ。
    しかし手際がいい。今度は川魚を焼きはじめた。
    零一といえばピザまんを食べている姿しか見たことがないので、こんなにきっちり炊事していると親近感が湧く。

    零一は段取りよく和の朝食を作り上げた。
    二人分の料理をダイニングのテーブルまで運び、向かい合って座る。

「あれ、リンドウさんは?」

「庭の手入れ。ここからだと死角になってるから見えないけど、いつものことだよ」

    あっちの方にいる、と零一が指さしたとき、丁度リンドウが来た。

    小上がりの一輪挿しに、花を活ける。そこに何かあるのだろうか······そう思っていたら、ふいにリンドウと目が合う。

「おはよう、東井くん」

「お、おはようございます」

    にこりとほほ笑み、彼はまた庭へ戻っていく。今度は草むしりをはじめた。

    ───神様なんだよなぁ。
    もう不思議なことが起こりすぎて驚かない。そのあたりの感覚がマヒしているようだ。

「いただきます」

    零一が手を合わせた。

「リンドウさんは一緒に食べないの?」

    零一は味噌汁を一口飲んでうなずく。

「かぁさんは朝早いから、もう済ませてある」

「そうなんだ」

    外見はともかく、人と同じように食事をするのか。
    東井もいただきますと挨拶をし、食べはじめる。

「ん······零一、料理上手だね。美味しいよ」

「それはどうも」

    零一はすこし眠そうに言った。その理由を食後に聞くと、考え事をしていたらあまり眠れなかったのだという。

「いろんなこと考えてた······。真心のこと、東井のこと、これからどうするかとか······。
    いままでも、何度も考えたことだったんだ。でも自分に都合よく答えを決めて、大切なものから目を逸らしていた。真実から逃げていたんだ。
    だから、これじゃダメだって······ずっと真実から逃げていたら、大切な人たちを傷つけてしまうかもしれない。自分が傷つくことになってもいいから、ちゃんと向き合おうと思う」

    その決意は、眠れなくなるほどたくさんたくさん考えたことで、零一が心に決めたものだ。
    とても大きな一歩だろう。

「それで、相談なんだけど」

    零一は箸を置き、東井に向き直る。

「······今日、真心の家に行く。一緒に来てほしい」

    ───その名前にどくんと心臓が大きく脈打つ。だが、自分以上に零一の方がきっと苦しい気持ちでいるのだろう。

「······うん、いいよ。側にいることくらいしかできないけど······」

「それでもいい。それだけで、十分助かるから······」

    零一は浮かない顔をしている。
    消えてしまいそうな彼女を抱きしめたい気持ちを抑え、東井は言った。

「零一。もう俺は君を否定したり、拒絶しない。だから······必ず、俺のところに帰ってきて───」

「───!」

    自分のためじゃない。ただ、暗闇のなかをひとり彷徨う彼女の、帰る場所でありたい。
    一筋の光なんて大それたものではなく、安心して眠りにつけるような、ちっぽけな花畑でいい。

    零一は顔をほころばせ、「うん」と言った。




    *    *    *




    東常真心の家は閑静な住宅街の端にあり、こちらの小さな庭にも百合が咲いていた。

    玄関前で三回深呼吸をし、零一はチャイムを押す。暑さか緊張からなのか、彼女のこめかみから汗が伝い落ちていく。

「はーい」

    すぐに扉が開き、白髪混じりの細身の女性が顔を出した。

「ぁ───」

    女性を見るなり零一は硬直し、女性はというと零一をじっと見つめ、それから東井を見る。また零一に目を戻し、なにかに気づいた表情になる。

「もしかして······零ちゃん?」

「······は、はい。お久しぶりです、お母様······」

    零一の声は震えていた。

「零ちゃん······っ!」

    東常真心の母親が零一を抱きしめる。嗚咽を漏らし、その人は泣いていた。

「元気だった?    あの日から一度も会えてなかったから、心配だったの······」

「会いに行かなくて、ごめんなさい······」

「ううん、謝らなくていいのよ。今日は、どうしたの?」

    ようやく零一を解放し、母親は彼女の頭を撫でたり、ほほをさすったりする。

「こんなに大きくなって······」

「連絡もなく来てしまって、すみません。······真心に、挨拶したくて」

「そうだったの······ありがとう。今日私、仕事お休みでよかった。じゃあ中に入って」

「お邪魔します」

    零一が先に入り、東井は母親に挨拶をする。

「はじめまして、東井です。零一と同じ大学に通っています」

「え、零ちゃん、大学に行ってるの。あ、東井さんもどうぞ」

「はい、失礼します」

    中に上がると、窓を開けているのかどこからか風が吹いてきた。

「いましずかは高校に行ってて、夏休みなんだけど、部活がいそがしくてなかなか帰ってこれないのよ」

    静とは誰のことか小声で零一に聞くと、真心の弟だという。

「ここ、座っていいからね」

    リビングに案内し、母親は座卓の脇に座布団を敷いてくれた。

    はじめて来た人の家なのだが、ここは不思議な安心感がある。たとえるなら、実家に帰ってきたみたいだ。

「───真心に会ってくる。東井は、ここにいて」

「大丈夫か?」

「······うん」

    零一はほほ笑む。そしてお茶を用意している母親に声をかけ、廊下へ向かった。しばらくそこから目を離せずにいたら、母親が盆を持ってきた。

「零ちゃんのこと、気になるの?」

「え、ああ、すこし······大丈夫だと思いますけど」

    母親はトンボ柄のコースターを敷き、その上にグラスを置いた。きれいな色のお茶だ。

「どうぞ」

「ありがとうございます」

    一口いただく。よく冷えていて美味しい。
    母親がその様子を見ていて、そして口を開いた。

「東井さんは······うちのこと知ってるの?」

「それは······真心さんのことですか」

「そう」

「······零一や、彼女の親しい人から聞きました」

    母親はまた「そう······」とつぶやき、ここから見える庭先に目をやった。そこには短い薪の小山が燃えたあとがある。日にち的に、送り火のあとだろう。

「······零ちゃんと最後に会ったのはね、真心の葬儀のときだったの。雨が降ってて······私は会場の入口にいたんだけど、外に姿が見えた。
    お父さんが傘を差してて、零ちゃんも一緒にいて······じっとこっちを見てた。まるで───怖がっているような目だった」

    よく憶えてるの、と懐かしげに目を伏せ、母親は目元を拭った。





    仏間に入るとすぐに、彼の遺影があった。あの頃の、やわらかい笑顔のまま。
    途端に胸があつくなって涙があふれ出る。

「っ······まだ、なにも話してないのに······」

    零一はハンカチで顔を覆い、心を落ちとかせようとする。
    閉じた目蓋の闇に君の顔が浮かんで、消えて、私を呼ぶ声まで聞こえてきて、はっと顔を上げる。

「·········」

    君は相変わらず笑顔をたたえ、鳥や蝉の音が心地良い。

    零一は仏壇の前に正座し、遺影の君に泣きながらそっと笑う。

「······久しぶり。ずっと······会えなくて、ごめん。───私、あの日のこと謝りたくて······。
    真心が死んだ日の前日に、会いに行けばよかった······」

    いまでも鮮明に思い出す。あのときの夕焼け。伸びていく影に、迷いが生まれた。
    もう二度と取り戻すことも巻き戻すこともできない、後悔だけが残った選択だった。

「真心が苦しんでたこと、ひとりで決意したこと、なにも知らなかった······ごめんなさい······っ」

    ───真心は助けてくれたのに、私はしなかった。
    ひどいことをした。ひとりにさせてしまった······。

「私だけ、大きくなって。真心が遠くなっていく気がして······でも、死ねなかった······」

    死んだら会えるの───?    それでも私は引き金を引けなかった。
    単純に私は、死ぬことが恐いのだ。

「───真心に、よく似てる人がいるんだ······名前も同じ······助けてくれるところも、一緒。私がしてきたことにも、ちゃんと怒ってくれた。やっと、ちゃんと東井と向き合える気がする······」

    だから───。

    私も心に決めたよ。

「やっと、言える。真心······ありがとう。それから、好きだったよ······あ······愛してた······っ」

    流れ落ちていく涙に嗚咽がまじる。

    最後に零一は───

「真心······───さようなら」

    精一杯、笑った。





「友達だった真心を亡くしてから、零ちゃんが心を壊していないか心配だった······」

    母親は森ヲ噛の家を知らないのだという。
    真心と零一が家で遊ぶときは、いつも東常家でだった。だから葬儀のあとも会うことができず、音信不通だったのだ。

「零ちゃんとは、大学で出会ったの?」

「はい」

「そう······うん。そうね······それまではどうだったのかわからないけど、今日零ちゃんの顔を見て安心した。なんていうか、ちゃんと血が通っている顔してたから。
    東井さんがいるからかな?」

「それは、どうでしょう」

「ふふ、わかるのよなんとなく。零ちゃん、東井さんと出会えてよかったんじゃないかな。やっぱり誰かがいないといけないのよ」

    どういうことだろう、と東井は疑問に思う。

    真心の母親は、まっすぐ東井を見て、約束事をするようにたしかな言葉で言った。

「真心が死んだ日、「遊びに行く」と言ってこの家を出ていったとき、土色の顔をしていたの。
    食欲があまりなかった日が続いていたから、そのせいだと私は思った。でも、そうじゃなかった······
    もう、心は死んでいたのよ」

「───」

「まだ生きていた時になんとかしてあげることができればよかった。でも遅い。なにもかも遅かった。
    死んでしまったら助けられない。
    ───東井さん、生きている人を助けることができるのは、生きている人だけよ」

    赤い目元に涙をためて、しかし力強い瞳はしっかりと東井を見据えている。

「零ちゃんを、零ちゃんの心を······守って」

「───はい」

    ───覚悟はできている。これからどんなことがあっても、彼女から離れない。
    彼女を傷つけるやつは、絶対に許さない。




    *    *    *




    玄関先で零一と母親は抱き合い、後ろ髪引かれる思いで別れた。

「また、うちに来てね」

「はい」

    車に乗り込み、角を曲がるまで零一は手を振った。
    しばらく走ってからようやく、「はぁ」と深く息を吐き、何度目かわからない涙を拭いた。すっかり両目が腫れてしまっている。

「泣いたら眠くなってきちゃった」

「ちゃんと寝れてなかったみたいだし、帰ったら休んだら?」

「そうする」

    車が林道に入ると、ゆれが眠気に拍車をかけたのか、零一があくびをした。

「明日から大学、来るだろ?」

「んー、行くつもりではある」

「つもりじゃなくて、ちゃんと来いよ。俺も待ってるし、高山教授だって心配してるだろうから、顔みせてやりなよ」

「わかった······あ、ここでいいよ」

    もうすこし行けば枇杷の樹があるのだが、その手前で停める。

「もしかしてワープするの?」

「うん。ここまで付き合ってくれて、ありがと」

「また家まで送るよ」

「いいって」

    はは、と零一が笑う。と、なにか思い出したのか、「あ」と言い東井の顔を覗き込む。

「な、なに」

    ぐっと零一が身を寄せてきたので、わけが分からないままドキドキする。

「その眼帯、取ることはできる?」

「え?    いや、まだ抜糸してないから、見せられないよ」

「······それなら、もうちょっとこっち向いて」

「なんで。なんか顔についてるの?」

    断る理由もないので言われた通りにする。
    零一の香りが鼻先をかすめ、さらに心臓の鼓動が加速する。

    零一が左肩に手を乗せてきて、すっと上体を近づけてきた。
    彼女のきれいな顔が目の前に来て、

「!    れい───」

    反射的に目をつむったとき。

    左目、眼帯の上にやわらかいものが押し当てられ、二秒ほどで離れた。

「ふっ、また頭突きされると思ったのか?」

    もう声が近くないので、そっと目を開ける。
    零一はまだ東井を見ていて───

「おまじない。目と、眼鏡······ごめん。それから、ありがとう」

    やさしくほほ笑み、光のなかに消えた。

    残された東井は、

「いま······もしかして」

    キス、というものをされたのだろうか───。

    ぼう然とし、ふと見たスマホ画面に自分の赤らんだ顔が映っていて、さらに恥ずかしくなった。
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