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第三章 東井マナカ
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東井が起きたときにはすでに、零一は普段着に着替えており、布団をしまうところだった。
一瞬、どうして零一がいるんだろう、と寝ぼけていたが、すぐに我に返る。
「も、もしかして寝坊しちゃった?」
「まだ六時だ。おはよう」
「おはよう······」
「布団、そのままでいいから」
そう言い零一は台所へ。はだけていた浴衣をなおしつつ、東井は格子から見える彼女の背中をながめる。
冷蔵庫からなにやら出し、包丁で切っている。
───零一が料理してる。なんというか、意外だ。
鞄の横に、昨日着ていた服が畳んで置かれていた。いつの間にか乾かしてくれていたようだ。それに着替え、簡単に布団を畳んで台所に行ってみる。
やはり料理をしていた。きれいに大根がいちょう切りにされ、賽の目の豆腐に、立派ななめこ。そして味噌とダシ。味噌汁のようだ。
「零一がご飯作ってる」
「意外だろ。たまにしかやらないけど、ちゃんと美味しいと思う」
料理しなさそうなのは自覚しているみたいだ。
しかし手際がいい。今度は川魚を焼きはじめた。
零一といえばピザまんを食べている姿しか見たことがないので、こんなにきっちり炊事していると親近感が湧く。
零一は段取りよく和の朝食を作り上げた。
二人分の料理をダイニングのテーブルまで運び、向かい合って座る。
「あれ、リンドウさんは?」
「庭の手入れ。ここからだと死角になってるから見えないけど、いつものことだよ」
あっちの方にいる、と零一が指さしたとき、丁度リンドウが来た。
小上がりの一輪挿しに、花を活ける。そこに何かあるのだろうか······そう思っていたら、ふいにリンドウと目が合う。
「おはよう、東井くん」
「お、おはようございます」
にこりとほほ笑み、彼はまた庭へ戻っていく。今度は草むしりをはじめた。
───神様なんだよなぁ。
もう不思議なことが起こりすぎて驚かない。そのあたりの感覚がマヒしているようだ。
「いただきます」
零一が手を合わせた。
「リンドウさんは一緒に食べないの?」
零一は味噌汁を一口飲んでうなずく。
「かぁさんは朝早いから、もう済ませてある」
「そうなんだ」
外見はともかく、人と同じように食事をするのか。
東井もいただきますと挨拶をし、食べはじめる。
「ん······零一、料理上手だね。美味しいよ」
「それはどうも」
零一はすこし眠そうに言った。その理由を食後に聞くと、考え事をしていたらあまり眠れなかったのだという。
「いろんなこと考えてた······。真心のこと、東井のこと、これからどうするかとか······。
いままでも、何度も考えたことだったんだ。でも自分に都合よく答えを決めて、大切なものから目を逸らしていた。真実から逃げていたんだ。
だから、これじゃダメだって······ずっと真実から逃げていたら、大切な人たちを傷つけてしまうかもしれない。自分が傷つくことになってもいいから、ちゃんと向き合おうと思う」
その決意は、眠れなくなるほどたくさんたくさん考えたことで、零一が心に決めたものだ。
とても大きな一歩だろう。
「それで、相談なんだけど」
零一は箸を置き、東井に向き直る。
「······今日、真心の家に行く。一緒に来てほしい」
───その名前にどくんと心臓が大きく脈打つ。だが、自分以上に零一の方がきっと苦しい気持ちでいるのだろう。
「······うん、いいよ。側にいることくらいしかできないけど······」
「それでもいい。それだけで、十分助かるから······」
零一は浮かない顔をしている。
消えてしまいそうな彼女を抱きしめたい気持ちを抑え、東井は言った。
「零一。もう俺は君を否定したり、拒絶しない。だから······必ず、俺のところに帰ってきて───」
「───!」
自分のためじゃない。ただ、暗闇のなかをひとり彷徨う彼女の、帰る場所でありたい。
一筋の光なんて大それたものではなく、安心して眠りにつけるような、ちっぽけな花畑でいい。
零一は顔をほころばせ、「うん」と言った。
* * *
東常真心の家は閑静な住宅街の端にあり、こちらの小さな庭にも百合が咲いていた。
玄関前で三回深呼吸をし、零一はチャイムを押す。暑さか緊張からなのか、彼女のこめかみから汗が伝い落ちていく。
「はーい」
すぐに扉が開き、白髪混じりの細身の女性が顔を出した。
「ぁ───」
女性を見るなり零一は硬直し、女性はというと零一をじっと見つめ、それから東井を見る。また零一に目を戻し、なにかに気づいた表情になる。
「もしかして······零ちゃん?」
「······は、はい。お久しぶりです、お母様······」
零一の声は震えていた。
「零ちゃん······っ!」
東常真心の母親が零一を抱きしめる。嗚咽を漏らし、その人は泣いていた。
「元気だった? あの日から一度も会えてなかったから、心配だったの······」
「会いに行かなくて、ごめんなさい······」
「ううん、謝らなくていいのよ。今日は、どうしたの?」
ようやく零一を解放し、母親は彼女の頭を撫でたり、ほほをさすったりする。
「こんなに大きくなって······」
「連絡もなく来てしまって、すみません。······真心に、挨拶したくて」
「そうだったの······ありがとう。今日私、仕事お休みでよかった。じゃあ中に入って」
「お邪魔します」
零一が先に入り、東井は母親に挨拶をする。
「はじめまして、東井です。零一と同じ大学に通っています」
「え、零ちゃん、大学に行ってるの。あ、東井さんもどうぞ」
「はい、失礼します」
中に上がると、窓を開けているのかどこからか風が吹いてきた。
「いま静は高校に行ってて、夏休みなんだけど、部活がいそがしくてなかなか帰ってこれないのよ」
静とは誰のことか小声で零一に聞くと、真心の弟だという。
「ここ、座っていいからね」
リビングに案内し、母親は座卓の脇に座布団を敷いてくれた。
はじめて来た人の家なのだが、ここは不思議な安心感がある。たとえるなら、実家に帰ってきたみたいだ。
「───真心に会ってくる。東井は、ここにいて」
「大丈夫か?」
「······うん」
零一はほほ笑む。そしてお茶を用意している母親に声をかけ、廊下へ向かった。しばらくそこから目を離せずにいたら、母親が盆を持ってきた。
「零ちゃんのこと、気になるの?」
「え、ああ、すこし······大丈夫だと思いますけど」
母親はトンボ柄のコースターを敷き、その上にグラスを置いた。きれいな色のお茶だ。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
一口いただく。よく冷えていて美味しい。
母親がその様子を見ていて、そして口を開いた。
「東井さんは······うちのこと知ってるの?」
「それは······真心さんのことですか」
「そう」
「······零一や、彼女の親しい人から聞きました」
母親はまた「そう······」とつぶやき、ここから見える庭先に目をやった。そこには短い薪の小山が燃えたあとがある。日にち的に、送り火のあとだろう。
「······零ちゃんと最後に会ったのはね、真心の葬儀のときだったの。雨が降ってて······私は会場の入口にいたんだけど、外に姿が見えた。
お父さんが傘を差してて、零ちゃんも一緒にいて······じっとこっちを見てた。まるで───怖がっているような目だった」
よく憶えてるの、と懐かしげに目を伏せ、母親は目元を拭った。
仏間に入るとすぐに、彼の遺影があった。あの頃の、やわらかい笑顔のまま。
途端に胸があつくなって涙があふれ出る。
「っ······まだ、なにも話してないのに······」
零一はハンカチで顔を覆い、心を落ちとかせようとする。
閉じた目蓋の闇に君の顔が浮かんで、消えて、私を呼ぶ声まで聞こえてきて、はっと顔を上げる。
「·········」
君は相変わらず笑顔をたたえ、鳥や蝉の音が心地良い。
零一は仏壇の前に正座し、遺影の君に泣きながらそっと笑う。
「······久しぶり。ずっと······会えなくて、ごめん。───私、あの日のこと謝りたくて······。
真心が死んだ日の前日に、会いに行けばよかった······」
いまでも鮮明に思い出す。あのときの夕焼け。伸びていく影に、迷いが生まれた。
もう二度と取り戻すことも巻き戻すこともできない、後悔だけが残った選択だった。
「真心が苦しんでたこと、ひとりで決意したこと、なにも知らなかった······ごめんなさい······っ」
───真心は助けてくれたのに、私はしなかった。
ひどいことをした。ひとりにさせてしまった······。
「私だけ、大きくなって。真心が遠くなっていく気がして······でも、死ねなかった······」
死んだら会えるの───? それでも私は引き金を引けなかった。
単純に私は、死ぬことが恐いのだ。
「───真心に、よく似てる人がいるんだ······名前も同じ······助けてくれるところも、一緒。私がしてきたことにも、ちゃんと怒ってくれた。やっと、ちゃんと東井と向き合える気がする······」
だから───。
私も心に決めたよ。
「やっと、言える。真心······ありがとう。それから、好きだったよ······あ······愛してた······っ」
流れ落ちていく涙に嗚咽がまじる。
最後に零一は───
「真心······───さようなら」
精一杯、笑った。
「友達だった真心を亡くしてから、零ちゃんが心を壊していないか心配だった······」
母親は森ヲ噛の家を知らないのだという。
真心と零一が家で遊ぶときは、いつも東常家でだった。だから葬儀のあとも会うことができず、音信不通だったのだ。
「零ちゃんとは、大学で出会ったの?」
「はい」
「そう······うん。そうね······それまではどうだったのかわからないけど、今日零ちゃんの顔を見て安心した。なんていうか、ちゃんと血が通っている顔してたから。
東井さんがいるからかな?」
「それは、どうでしょう」
「ふふ、わかるのよなんとなく。零ちゃん、東井さんと出会えてよかったんじゃないかな。やっぱり誰かがいないといけないのよ」
どういうことだろう、と東井は疑問に思う。
真心の母親は、まっすぐ東井を見て、約束事をするようにたしかな言葉で言った。
「真心が死んだ日、「遊びに行く」と言ってこの家を出ていったとき、土色の顔をしていたの。
食欲があまりなかった日が続いていたから、そのせいだと私は思った。でも、そうじゃなかった······
もう、心は死んでいたのよ」
「───」
「まだ生きていた時になんとかしてあげることができればよかった。でも遅い。なにもかも遅かった。
死んでしまったら助けられない。
───東井さん、生きている人を助けることができるのは、生きている人だけよ」
赤い目元に涙をためて、しかし力強い瞳はしっかりと東井を見据えている。
「零ちゃんを、零ちゃんの心を······守って」
「───はい」
───覚悟はできている。これからどんなことがあっても、彼女から離れない。
彼女を傷つけるやつは、絶対に許さない。
* * *
玄関先で零一と母親は抱き合い、後ろ髪引かれる思いで別れた。
「また、うちに来てね」
「はい」
車に乗り込み、角を曲がるまで零一は手を振った。
しばらく走ってからようやく、「はぁ」と深く息を吐き、何度目かわからない涙を拭いた。すっかり両目が腫れてしまっている。
「泣いたら眠くなってきちゃった」
「ちゃんと寝れてなかったみたいだし、帰ったら休んだら?」
「そうする」
車が林道に入ると、ゆれが眠気に拍車をかけたのか、零一があくびをした。
「明日から大学、来るだろ?」
「んー、行くつもりではある」
「つもりじゃなくて、ちゃんと来いよ。俺も待ってるし、高山教授だって心配してるだろうから、顔みせてやりなよ」
「わかった······あ、ここでいいよ」
もうすこし行けば枇杷の樹があるのだが、その手前で停める。
「もしかしてワープするの?」
「うん。ここまで付き合ってくれて、ありがと」
「また家まで送るよ」
「いいって」
はは、と零一が笑う。と、なにか思い出したのか、「あ」と言い東井の顔を覗き込む。
「な、なに」
ぐっと零一が身を寄せてきたので、わけが分からないままドキドキする。
「その眼帯、取ることはできる?」
「え? いや、まだ抜糸してないから、見せられないよ」
「······それなら、もうちょっとこっち向いて」
「なんで。なんか顔についてるの?」
断る理由もないので言われた通りにする。
零一の香りが鼻先をかすめ、さらに心臓の鼓動が加速する。
零一が左肩に手を乗せてきて、すっと上体を近づけてきた。
彼女のきれいな顔が目の前に来て、
「! れい───」
反射的に目をつむったとき。
左目、眼帯の上にやわらかいものが押し当てられ、二秒ほどで離れた。
「ふっ、また頭突きされると思ったのか?」
もう声が近くないので、そっと目を開ける。
零一はまだ東井を見ていて───
「おまじない。目と、眼鏡······ごめん。それから、ありがとう」
やさしくほほ笑み、光のなかに消えた。
残された東井は、
「いま······もしかして」
キス、というものをされたのだろうか───。
ぼう然とし、ふと見たスマホ画面に自分の赤らんだ顔が映っていて、さらに恥ずかしくなった。
一瞬、どうして零一がいるんだろう、と寝ぼけていたが、すぐに我に返る。
「も、もしかして寝坊しちゃった?」
「まだ六時だ。おはよう」
「おはよう······」
「布団、そのままでいいから」
そう言い零一は台所へ。はだけていた浴衣をなおしつつ、東井は格子から見える彼女の背中をながめる。
冷蔵庫からなにやら出し、包丁で切っている。
───零一が料理してる。なんというか、意外だ。
鞄の横に、昨日着ていた服が畳んで置かれていた。いつの間にか乾かしてくれていたようだ。それに着替え、簡単に布団を畳んで台所に行ってみる。
やはり料理をしていた。きれいに大根がいちょう切りにされ、賽の目の豆腐に、立派ななめこ。そして味噌とダシ。味噌汁のようだ。
「零一がご飯作ってる」
「意外だろ。たまにしかやらないけど、ちゃんと美味しいと思う」
料理しなさそうなのは自覚しているみたいだ。
しかし手際がいい。今度は川魚を焼きはじめた。
零一といえばピザまんを食べている姿しか見たことがないので、こんなにきっちり炊事していると親近感が湧く。
零一は段取りよく和の朝食を作り上げた。
二人分の料理をダイニングのテーブルまで運び、向かい合って座る。
「あれ、リンドウさんは?」
「庭の手入れ。ここからだと死角になってるから見えないけど、いつものことだよ」
あっちの方にいる、と零一が指さしたとき、丁度リンドウが来た。
小上がりの一輪挿しに、花を活ける。そこに何かあるのだろうか······そう思っていたら、ふいにリンドウと目が合う。
「おはよう、東井くん」
「お、おはようございます」
にこりとほほ笑み、彼はまた庭へ戻っていく。今度は草むしりをはじめた。
───神様なんだよなぁ。
もう不思議なことが起こりすぎて驚かない。そのあたりの感覚がマヒしているようだ。
「いただきます」
零一が手を合わせた。
「リンドウさんは一緒に食べないの?」
零一は味噌汁を一口飲んでうなずく。
「かぁさんは朝早いから、もう済ませてある」
「そうなんだ」
外見はともかく、人と同じように食事をするのか。
東井もいただきますと挨拶をし、食べはじめる。
「ん······零一、料理上手だね。美味しいよ」
「それはどうも」
零一はすこし眠そうに言った。その理由を食後に聞くと、考え事をしていたらあまり眠れなかったのだという。
「いろんなこと考えてた······。真心のこと、東井のこと、これからどうするかとか······。
いままでも、何度も考えたことだったんだ。でも自分に都合よく答えを決めて、大切なものから目を逸らしていた。真実から逃げていたんだ。
だから、これじゃダメだって······ずっと真実から逃げていたら、大切な人たちを傷つけてしまうかもしれない。自分が傷つくことになってもいいから、ちゃんと向き合おうと思う」
その決意は、眠れなくなるほどたくさんたくさん考えたことで、零一が心に決めたものだ。
とても大きな一歩だろう。
「それで、相談なんだけど」
零一は箸を置き、東井に向き直る。
「······今日、真心の家に行く。一緒に来てほしい」
───その名前にどくんと心臓が大きく脈打つ。だが、自分以上に零一の方がきっと苦しい気持ちでいるのだろう。
「······うん、いいよ。側にいることくらいしかできないけど······」
「それでもいい。それだけで、十分助かるから······」
零一は浮かない顔をしている。
消えてしまいそうな彼女を抱きしめたい気持ちを抑え、東井は言った。
「零一。もう俺は君を否定したり、拒絶しない。だから······必ず、俺のところに帰ってきて───」
「───!」
自分のためじゃない。ただ、暗闇のなかをひとり彷徨う彼女の、帰る場所でありたい。
一筋の光なんて大それたものではなく、安心して眠りにつけるような、ちっぽけな花畑でいい。
零一は顔をほころばせ、「うん」と言った。
* * *
東常真心の家は閑静な住宅街の端にあり、こちらの小さな庭にも百合が咲いていた。
玄関前で三回深呼吸をし、零一はチャイムを押す。暑さか緊張からなのか、彼女のこめかみから汗が伝い落ちていく。
「はーい」
すぐに扉が開き、白髪混じりの細身の女性が顔を出した。
「ぁ───」
女性を見るなり零一は硬直し、女性はというと零一をじっと見つめ、それから東井を見る。また零一に目を戻し、なにかに気づいた表情になる。
「もしかして······零ちゃん?」
「······は、はい。お久しぶりです、お母様······」
零一の声は震えていた。
「零ちゃん······っ!」
東常真心の母親が零一を抱きしめる。嗚咽を漏らし、その人は泣いていた。
「元気だった? あの日から一度も会えてなかったから、心配だったの······」
「会いに行かなくて、ごめんなさい······」
「ううん、謝らなくていいのよ。今日は、どうしたの?」
ようやく零一を解放し、母親は彼女の頭を撫でたり、ほほをさすったりする。
「こんなに大きくなって······」
「連絡もなく来てしまって、すみません。······真心に、挨拶したくて」
「そうだったの······ありがとう。今日私、仕事お休みでよかった。じゃあ中に入って」
「お邪魔します」
零一が先に入り、東井は母親に挨拶をする。
「はじめまして、東井です。零一と同じ大学に通っています」
「え、零ちゃん、大学に行ってるの。あ、東井さんもどうぞ」
「はい、失礼します」
中に上がると、窓を開けているのかどこからか風が吹いてきた。
「いま静は高校に行ってて、夏休みなんだけど、部活がいそがしくてなかなか帰ってこれないのよ」
静とは誰のことか小声で零一に聞くと、真心の弟だという。
「ここ、座っていいからね」
リビングに案内し、母親は座卓の脇に座布団を敷いてくれた。
はじめて来た人の家なのだが、ここは不思議な安心感がある。たとえるなら、実家に帰ってきたみたいだ。
「───真心に会ってくる。東井は、ここにいて」
「大丈夫か?」
「······うん」
零一はほほ笑む。そしてお茶を用意している母親に声をかけ、廊下へ向かった。しばらくそこから目を離せずにいたら、母親が盆を持ってきた。
「零ちゃんのこと、気になるの?」
「え、ああ、すこし······大丈夫だと思いますけど」
母親はトンボ柄のコースターを敷き、その上にグラスを置いた。きれいな色のお茶だ。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
一口いただく。よく冷えていて美味しい。
母親がその様子を見ていて、そして口を開いた。
「東井さんは······うちのこと知ってるの?」
「それは······真心さんのことですか」
「そう」
「······零一や、彼女の親しい人から聞きました」
母親はまた「そう······」とつぶやき、ここから見える庭先に目をやった。そこには短い薪の小山が燃えたあとがある。日にち的に、送り火のあとだろう。
「······零ちゃんと最後に会ったのはね、真心の葬儀のときだったの。雨が降ってて······私は会場の入口にいたんだけど、外に姿が見えた。
お父さんが傘を差してて、零ちゃんも一緒にいて······じっとこっちを見てた。まるで───怖がっているような目だった」
よく憶えてるの、と懐かしげに目を伏せ、母親は目元を拭った。
仏間に入るとすぐに、彼の遺影があった。あの頃の、やわらかい笑顔のまま。
途端に胸があつくなって涙があふれ出る。
「っ······まだ、なにも話してないのに······」
零一はハンカチで顔を覆い、心を落ちとかせようとする。
閉じた目蓋の闇に君の顔が浮かんで、消えて、私を呼ぶ声まで聞こえてきて、はっと顔を上げる。
「·········」
君は相変わらず笑顔をたたえ、鳥や蝉の音が心地良い。
零一は仏壇の前に正座し、遺影の君に泣きながらそっと笑う。
「······久しぶり。ずっと······会えなくて、ごめん。───私、あの日のこと謝りたくて······。
真心が死んだ日の前日に、会いに行けばよかった······」
いまでも鮮明に思い出す。あのときの夕焼け。伸びていく影に、迷いが生まれた。
もう二度と取り戻すことも巻き戻すこともできない、後悔だけが残った選択だった。
「真心が苦しんでたこと、ひとりで決意したこと、なにも知らなかった······ごめんなさい······っ」
───真心は助けてくれたのに、私はしなかった。
ひどいことをした。ひとりにさせてしまった······。
「私だけ、大きくなって。真心が遠くなっていく気がして······でも、死ねなかった······」
死んだら会えるの───? それでも私は引き金を引けなかった。
単純に私は、死ぬことが恐いのだ。
「───真心に、よく似てる人がいるんだ······名前も同じ······助けてくれるところも、一緒。私がしてきたことにも、ちゃんと怒ってくれた。やっと、ちゃんと東井と向き合える気がする······」
だから───。
私も心に決めたよ。
「やっと、言える。真心······ありがとう。それから、好きだったよ······あ······愛してた······っ」
流れ落ちていく涙に嗚咽がまじる。
最後に零一は───
「真心······───さようなら」
精一杯、笑った。
「友達だった真心を亡くしてから、零ちゃんが心を壊していないか心配だった······」
母親は森ヲ噛の家を知らないのだという。
真心と零一が家で遊ぶときは、いつも東常家でだった。だから葬儀のあとも会うことができず、音信不通だったのだ。
「零ちゃんとは、大学で出会ったの?」
「はい」
「そう······うん。そうね······それまではどうだったのかわからないけど、今日零ちゃんの顔を見て安心した。なんていうか、ちゃんと血が通っている顔してたから。
東井さんがいるからかな?」
「それは、どうでしょう」
「ふふ、わかるのよなんとなく。零ちゃん、東井さんと出会えてよかったんじゃないかな。やっぱり誰かがいないといけないのよ」
どういうことだろう、と東井は疑問に思う。
真心の母親は、まっすぐ東井を見て、約束事をするようにたしかな言葉で言った。
「真心が死んだ日、「遊びに行く」と言ってこの家を出ていったとき、土色の顔をしていたの。
食欲があまりなかった日が続いていたから、そのせいだと私は思った。でも、そうじゃなかった······
もう、心は死んでいたのよ」
「───」
「まだ生きていた時になんとかしてあげることができればよかった。でも遅い。なにもかも遅かった。
死んでしまったら助けられない。
───東井さん、生きている人を助けることができるのは、生きている人だけよ」
赤い目元に涙をためて、しかし力強い瞳はしっかりと東井を見据えている。
「零ちゃんを、零ちゃんの心を······守って」
「───はい」
───覚悟はできている。これからどんなことがあっても、彼女から離れない。
彼女を傷つけるやつは、絶対に許さない。
* * *
玄関先で零一と母親は抱き合い、後ろ髪引かれる思いで別れた。
「また、うちに来てね」
「はい」
車に乗り込み、角を曲がるまで零一は手を振った。
しばらく走ってからようやく、「はぁ」と深く息を吐き、何度目かわからない涙を拭いた。すっかり両目が腫れてしまっている。
「泣いたら眠くなってきちゃった」
「ちゃんと寝れてなかったみたいだし、帰ったら休んだら?」
「そうする」
車が林道に入ると、ゆれが眠気に拍車をかけたのか、零一があくびをした。
「明日から大学、来るだろ?」
「んー、行くつもりではある」
「つもりじゃなくて、ちゃんと来いよ。俺も待ってるし、高山教授だって心配してるだろうから、顔みせてやりなよ」
「わかった······あ、ここでいいよ」
もうすこし行けば枇杷の樹があるのだが、その手前で停める。
「もしかしてワープするの?」
「うん。ここまで付き合ってくれて、ありがと」
「また家まで送るよ」
「いいって」
はは、と零一が笑う。と、なにか思い出したのか、「あ」と言い東井の顔を覗き込む。
「な、なに」
ぐっと零一が身を寄せてきたので、わけが分からないままドキドキする。
「その眼帯、取ることはできる?」
「え? いや、まだ抜糸してないから、見せられないよ」
「······それなら、もうちょっとこっち向いて」
「なんで。なんか顔についてるの?」
断る理由もないので言われた通りにする。
零一の香りが鼻先をかすめ、さらに心臓の鼓動が加速する。
零一が左肩に手を乗せてきて、すっと上体を近づけてきた。
彼女のきれいな顔が目の前に来て、
「! れい───」
反射的に目をつむったとき。
左目、眼帯の上にやわらかいものが押し当てられ、二秒ほどで離れた。
「ふっ、また頭突きされると思ったのか?」
もう声が近くないので、そっと目を開ける。
零一はまだ東井を見ていて───
「おまじない。目と、眼鏡······ごめん。それから、ありがとう」
やさしくほほ笑み、光のなかに消えた。
残された東井は、
「いま······もしかして」
キス、というものをされたのだろうか───。
ぼう然とし、ふと見たスマホ画面に自分の赤らんだ顔が映っていて、さらに恥ずかしくなった。
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2025.4.19☑~
つまらなかった乙女ゲームに転生しちゃったので、サクッと終わらすことにしました
蒼羽咲
ファンタジー
つまらなかった乙女ゲームに転生⁈
絵に惚れ込み、一目惚れキャラのためにハードまで買ったが内容が超つまらなかった残念な乙女ゲームに転生してしまった。
絵は超好みだ。内容はご都合主義の聖女なお花畑主人公。攻略イケメンも顔は良いがちょろい対象ばかり。てこたぁ逆にめちゃくちゃ住み心地のいい場所になるのでは⁈と気づき、テンションが一気に上がる!!
聖女など面倒な事はする気はない!サクッと攻略終わらせてぐーたら生活をGETするぞ!
ご都合主義ならチョロい!と、野望を胸に動き出す!!
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