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緋崎辰也

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第三章 東井マナカ

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「タオルは、積んでなかったな······コンビニも寄るか」

    河原の側に停めておいた車に戻り、東井は前方の車内灯を点ける。
    助手席側で零一はボーッと突っ立っていて、濡れた髪や服から水滴を落としている。

    東井はシャツを脱ぎ絞ってみた。ビチャビチャと水が出る。きつく絞ったそれで髪も拭いてみるが、できるのはここまでだった。
    ひとりならジーンズも脱いでしまうのだが、零一がいる手前それは無理だ。
    もしかしたらそんなことしても零一ならなんとも思わないかもしれないが、なんとなく自分が嫌だった。

「零一も服、絞ったら?」

    それは当然着たままで、気休め程度だが絞ってみたら?    という意味だった。
    しかしあろうことか彼女は「あぁ、うん······」とうなずくと、ためらいなくポロシャツを脱ぎはじめる。

「!!」

    零一の白い腹をもろに見てしまい、東井はバッと体ごと回転し目を逸らす。
    突然のことでどぎまぎしながらも周囲を警戒し、人の気配がないか確かめる。
    明かりと言えるものは月と車内灯だけで、とくにそれ以外の気配もない。

「······零一、服着たら出発するよ」

「どこに······?」

「どこって、コンビニ行って、それから零一の家に行くんだよ」

    ジーンズや下着はしょうがない。乾くのを待っていたら一向に動けないので、座席が濡れるのを承知で運転席に乗り込む。

    鞄から教授が書いてくれた地図を出して、そぉっと零一の方を見た。
    彼女はとっくに元通り服を着ていた。

「東井も来るのか?」

「え?    いや、君を家まで送るんだ」

    まだ零一はぼんやりしていて、どこか会話が噛み合っていない。
    ん?    と零一が首をかしげる。

「私はすぐに移動できるから······送らなくてもいいんだけど」

「零一をひとりにさせたくないんだ。ちゃんと家の場所を知ることもできるし、瞬間移動よりは時間掛かるけど、いいだろ。ほら、乗って」

「······濡れてるよ」

「俺もね。レザーシートだから大丈夫」

    そこまで言ってようやく零一は助手席に乗り込んだ。

「ね、この地図って合ってる?」

    紙を零一に渡し、エンジンを掛ける。
    濡れた眼帯はそのままにしておくとまずいので、病院でもらった別のものと、零一には見えないように変えておいた。

「これ、合ってるよ」

「まじか。神社しかないじゃん」

「地元の人でも、知っている人はすくない。夜道だしわかりにくいから、案内する」

「うん、たのむよ」




    *    *    *




    コンビニでバスタオルやシャツ、体の温まる食事を買い、急いで車に戻る。
    どこにも行かないで、ちゃんと零一は待っていてくれた。

「タオル多めに買ってきたから。体拭くのと、シートに敷くので使って。あと───はい、ピザまん」

「あ」

    零一に渡すと、また「あ」と言って東井を見た。

「そういえば、あのピザまんは······」

「ん?    ああ、大学でケンカしたときのやつはもう俺の腹の中だよ」

「そ、そう。買ってくれて、ありがと」

    申し訳なさそうに零一は下を向き、タオルを体に巻き付ける。
    東井はシャツを替え、シートにタオルを敷いて発進させた。

    ピザまんを味わうように食べる零一の案内で、車は町からはずれ山の谷間を抜ける。
    こじんまりとした神社の前を二回通り、それから舗装されていない林道を三十分ほど走った。

「······本当にこっちでいいのか?」

    普段街中ばかり走り、こうした自然のなかは中々走らないので、夜の森にすこし恐怖を感じる。
    零一はこういう手のことは平気なのか慣れているのか、落ち着いていた。

「もうすこし。───そこの枇杷の樹の前で停まって」

「枇杷の樹」

「ここ」

    零一に言われた通りの場所に車を停めるが、ヘッドライトが照らす先に道なんてない。
    もはや森だ。

「まじでここなの?」

「正確には、まだここらか歩いて行ったとこ」

「え、こ、ここ?    この先?    登山道みたいなのもないけど」

    当然外灯なんてなく、かろうじて月光が木々の間からたまに届くくらいだ。
    時折吹く風にざわざわと草木がゆれ、東井には森が別世界に見えた。

「東井」

「ん?」

    呼ばれてそちらを見ると、零一は丁寧に畳んだタオルを脇に置き、頭を下げた。

「今日は、東井にひどいことをしてしまった。本当に、ごめんなさい」

「······うん」

「それから······ありがとう。あの河原にいたとき、死のうか考えていた。でも、本当は······東井を待っていたのかもしれない」

「え───」

    零一と目が合う。夜空のようなきれいな目に、東井の心臓が緊張する。

「東井が来てくれて、うれしかった」

    儚げにほほ笑み、彼女がドアを開けて降りる。

「ここまででいいよ」

「あ、ま、待って!    ちゃんと家まで送らせて!」

「でももう遅いし、東井の家って県外なんだろ」

    零一がパタンとドアを閉じてしまう。東井はあわてて貴重品を鞄に突っ込み、

「女の子がひとりでこんなとこ歩くなんて危ないだろ」

「もう“女の子”って言える歳じゃないけど」

    車を降り鍵を掛ける。
    スマホのライトを点けるが、これだけでは心細い。
    東井は零一の手をしっかり握った。

「はぐれないように、ね!」

「東井が怖いだけなんだろ」

「すこしだけ!」

    零一が「ははっ」と笑った。
    はじめて見た、うれしそうな笑顔だった。




     結構時間が掛かるかと覚悟していたが、実際森のなかを歩いていた時間は十分ほどだった。

    木々の間から差し込む月明かりがやけにまぶしい一角があり、そこは開けた場所だった。
    古いが、ちゃんと手入れされている戸建てが一軒あり、そこが零一の家だった。

「こんなところに、家が······」

    もともと集落があったのかとも思ったが、それらしい痕跡は見当たらず、本当にこの家だけだ。

「ただいま」

    玄関を開け、零一が中に向かって言った。返事はなく、いつものことなのか零一も気にしていないようだ。

「東井はどうする?    私を送り届けるっていう目的は達成できたけど······泊まっていってもいいよ」

「まぁ、そうだな······泊まるといっても急なことだし、お父さんにも迷惑じゃないかな」

「別にかぁさんはそういうの気にしないよ。それに、ひとりで来た道を戻るつもりなのか?」

「うわ、そうじゃん。······零一は俺が泊まっていってもかまわないの?」

「うん。東井が家まで送るって言い出したとき、帰りはひとりで森のなかを歩くことになるけどいいのかな、って思ってた。だったらいっそ泊まっていけばいいんじゃないかな」

「······俺、送ったあとのこと考えてなかった。それじゃあ······お邪魔するよ」

「どうぞ」

    零一が先に入り灯りを点ける。ちゃんと電気も通っているのか。

「お邪魔します······」

    東井も怖々入り扉を閉める。
    平屋建てのコンパクトな広さで、見た感じ必要最低限のものしかないようだ。

    玄関には零一が脱いだばかりのスニーカーと、男性ものの一足の下駄のみ。

    靴をそろえて脱ぎ、スリッパはないのでそのまま廊下を歩く。玄関からすぐ左にダイニングがあり、右に台所がある。
    ダイニングの方が広く小上がりもあり、零一はそちらへ歩いていった。

    ダイニングの先には縁側があって、そこに男性が背中を向けて座っている。
    零一が話し掛けると、何度か言葉を交わした後立ち上がり、こちらへ振り返った。

    その姿に東井は息を呑む。

    白髪で、青紫色の目の青年。零一がかぁさんと言っているものだから、勝手に中高年くらいだろうと思っていたが、それよりずっと若い。
    あきらかに人ではない佇まいだ。

    東井は一礼し、青年のもとへ。

「東井です。零一、さんとは、大学で知り合って、仲良くさせてもらっています。今日はあの、突然お邪魔してしまって、すみません」

    東井がまた頭を下げると、青年は柔和な顔で「かまわないよ」と言った。その声もやさしく、なぜか心地よい。

「あなたのことは零一から聞いている。私はリンドウという。零一の親のようなものだ」

「は、はい······」

「ここにいるときは気を使わないで、ゆっくりしていくといい。お風呂も沸かしてあるし、私の部屋に入らなければ、あとは好きに使ってもらっていいからね」

「はい、ありがとうございます」

    そしてリンドウは散歩に行ってくると言い、小上がりの角にある一輪挿しから花を抜き取り、森へと消えていった。

「······いまから散歩?」

「かぁさん、夜はいつもそうだから。お風呂先に入っていいよ。浴衣も使っていいから」

    零一は小上がりのふすまを開け、布団を出しはじめる。
    見たことのある服も同じところにしまってあり、小上がりは零一の部屋になっているようだ。

    零一と話をしたかったが、まだ服が濡れていて気持ち悪いので、お言葉に甘えることにした。

    零一に案内してもらい、リンドウの部屋と、風呂とトイレの場所を教えてもらう。間取りはそれだけだが、窮屈さはない。

    風呂も、いわゆるおばあちゃん家にありそうな昔のものだが、汚れておらずきれいだ。
    せっけん類を借りたとき、零一と同じ香りがしてドキドキしてしまう。
    浴槽に入るのはさすがにやめ、早々に出た。

    小上がりに戻ると、布団一式がふたつ並んで敷かれていた。
    東井に気づいた零一が来て、「ちょっと失礼」と浴衣をなおしてくれた。

「そこにお茶置いておいたから、飲んでいいよ」

    そう言い零一も風呂場へ向かった。

    ひとりになった東井は、すぐに並んでいた布団を離す。なんというか、零一はこういうところ無頓着なのかな、と心配になる。
    きっと『君』のことや“死望者”のことで頭がいっぱいで、ちゃんとした恋愛なんてしてこなかったのだろう。
    意図して並べたとはとても思えない。

「俺ばっか意識してないか?」

    零一にそんな素振りは見られない。彼女が俺のことをどう思っているのか聞いたところで、返事なんて容易に想像できる。
    ───しつこく付きまとってくる、うるさいやつ。

「ありえるな」

    苦笑いし、東井は布団に座ってお茶を飲んだ。ほどよくぬるく、ほっとする。

    縁側は開け放たれていて、たまに吹く夜風が心地よい。静かで、星もよく見える。
    深呼吸すると草いきれの瑞々しい香りが鼻に来る。ここはいいところだ。

    あたりをぐるりと見渡すと、立派な梁や味のある飴色の箪笥が目につく。

「───ん?」

    零一の布団の枕元に、ウォークマンとドライヤーがあった。

「これ······」

    手に取るとすこし温かい。電源を入れようとするが、画面は真っ暗のままでうんともすんとも言わない。

「あ、そうか。これポケットに入れてたから、水に浸かっちゃったんだ」

    これではもう壊れてしまっただろう。零一にとってはとても大切なものなのに······。

「───なにしてるんだ?」

    零一が戻ってきた。彼女も浴衣姿だが、普段から風呂上がりはそうしているのか、着慣れている。

「これ、壊れちゃったんだね」

「うん······自業自得だ」

    東井からウォークマンを受け取ると、零一はそっとそれを指先で撫で、枕元に置いた。

「あ、ドライヤー使っていいから」

「そうだな、風邪ひいたらまずいし、借りるよ」

    零一とゆっくり話ができるようになったのは、布団に入ってからだった。

    なにから話そうか悩み、あまり零一に負担が掛からないであろうものにする。

「零一は、人間じゃないって言っていたけど······リンドウさんとはどういう関係なんだ?」

「うーん······わかりやすく言うと、かぁさんも人間じゃなくて神様で、私はかぁさんに造られて生まれた存在なんだ。母胎から誕生したわけじゃない」

「アダムとイヴのような感じ?」

「なんだそれ」

「土や骨から生まれた人たちだよ」

「土······私は土じゃなくて、ひとりの女性とかぁさんの体の一部を寄せ集めてできてる。
    血管や筋肉、神経、内臓、そして心臓······よくできてるだろ?」

    零一がくうに手をかざす。青い血管が透ける、きれいな華奢な手。赤みの引いた手首。
    そういえば、なぜ血管が青く見えるのか、解明されていないと聞いたことがある。

「きれいだよ。零一は、その女性に似てるのかな」

「さぁ······かぁさんから話を聞いただけで、写真もなにも残ってないから、どんな姿をしていたのかわからない。ただ、かぁさん曰く、とても可愛らしい人だったって」

「その人は、普通の人間だったんだよね?」

「うん。特別な力は持っていなかったよ。······母親から虐待されていて、ある日逃げてきたんだ。この森にたどり着いとき、かぁさんが助けた。
    それから長い間、ここで一緒に暮らしていたみたい」

    零一が「ふぁ」とあくびをした。
    そうだ、今日は散々な目に遭って彼女は疲れているんだった。

「ごめん、色々聞いて。もう寝ようか」

「うん。まだ聞きたいことがあるなら、明日にしよう。おやすみ」

「おやすみ」

    彼女はすぐに目を閉じ、浅い呼吸をしている。その寝姿は青白く、ちゃんと生きているか心配になるほど静かだった。
    ふいに触れたくなる衝動が起きるが、したら怪訝な顔をされるだろうからぐっと我慢する。

    まだあまり眠くないので、東井はスマホをいじろうと鞄から取り出すが、

「あれ、圏外」

    これではろくに使えないので電源を切って鞄にしまい、縁側の方へ寝返る。

    リンドウはどこまで行ったのか、帰ってくる気配もない。
    名前のわからない虫の声に、庭の片隅でゆれる百合の花。近くに小川でもあるのか、かすかに水の流れる音がする。

    ここで零一は育ったのか······。小さい頃の零一は、どんな子だったのだろう。活発な性格だったのか、もしくは大人しい子だったのか。

    まだ、知らないことがある。
    ───俺が知らなくて、『君』は知っていた零一。
    俺が知らなくて、零一は知っている『君』。
    二人はずっとつながっているのだ。記憶のなかに生きる『君』を糧にして。

    まるで、『君』の存在は呪いのようだ───東井は目を閉じた。
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