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緋崎辰也

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第四章 森ヲ噛零一

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    ずっと暮らしてきた家の窓が割られたとき、別の大切なものまで崩れ落ちたような感覚になった。
    それは思い出。家族の絆。良いことも悪いことも全部詰めこんだ宝箱が、壊れて元に戻せなくなった。

「姉さん······いま、どこにいるんですか」

    割れた窓から入ってくる風で、カーテンがゆれる。水斗はそのわずかな隙間から外を見て、忌々しげに言った。

    “レイイチさん”である姉を恨んではいない。たしかにこうなった原因は殺人を犯した澪にあるのだが、家を傷つけたのは澪ではなく外にいる人たちだ。

    もう四日。いつまで経ってもいなくなる様子がない。報道陣も、ここに澪がいないとわかっているなら、さっさと撤収すればいいのに。

    家に元々あった食料もだいぶ減った。
    スマホがないので出前をとることもできず、固定電話で頼めたのはいいが、いざ住所を伝えたら断られてしまったのだ。

    まともに眠れず、空腹の時間も長くなってきた。
    母も雫も自分も、三日前に風呂に入ったきりでそれからなにもしていない。
    時間が解決してくれると思っていたのだが、甘かった。もう限界だ。こんなに監視された生活、耐えられない。

    “レイイチさん”は、正体が判明してからなんの動きも見せていない。どこかで逃げて、危害を加えられる前に自首してほしい───せめて、そうしてほしいと水斗は願った。

    カタンと物音がして、そちらを見ると、母が一本しかない包丁をゆるく握っていた。

「······母さん」

    母はこの四日間で驚くほどげっそりしてしまった。目は虚ろで、包丁も落としてしまいそうだ。

「───死のう。みんなで」

     久しぶりに聞いた母の言葉がそんなことだった。

    テーブルに突っ伏していた雫が顔を上げ、ぼんやりと母を見る。水斗も雫も、ただ母の動向をながめる。
    みんな、同じことを考えていたのだ。

    しかし、包丁で刺す、切るといっても、力がない。家には練炭もないし、ロープらしいものは外の物置きだ。
    浴槽に顔を入れて溺れる?    包丁を胸に突き立てて床に倒れる?
    もう考えるのも億劫おっくうだった。

    母が自らの手首に包丁を押し当てた───
    そのとき。

    母の背後に、“レイイチさん”が現れた。

「死にたいなら、もっと楽に死なせてあげますよ」

    その声に母がバッと振り返る。
    どこにそんな気力があったのか、包丁をしっかり握り“レイイチさん”に飛びかかる。

    パァンっ!

    なにかが破裂したような音の直後、母が力無く倒れる。
    “レイイチさん”が、銃を持っていた。その先端が今度は水斗に向けられる。

「ま、待ってくれ!    本当にあなたは、澪姉さんなのか?」

「違います」

    即答だった。だが、声がなんとなく記憶にあるものと似ている。

    雫が立ち上がり、“レイイチさん”に近寄ろうとする。すると銃口が雫に向き、「近づかないでください」と凛とした声で言った。

    雫は言われた通りにし、そこで「顔を見せて」と言った。

「······カメラとか、ありませんよね」

「はい······ありません」

    水斗が言うと、“レイイチさん”は被っていた布を取った。

「───うそ」

    水斗も雫も、その顔を見て息を呑む。

「澪姉さんだ」

「だから、違います」

    否定する彼女は凛々しく、花のような笑顔を見せていた澪とは、ちがう雰囲気だ。しかしどこか面影がある。二人が憶えている澪は、十三歳だった。成長すればこんな感じになるのだろう。
    いまは三十六歳になるが、それよりもずっと若く、自分たちよりも幼く見える。

「たしかによく見ると、似てるけどちがう。姉さんにあったホクロがない」

「あ、そうだね。ほんとよく似てるけど」

    二人は無意識にじりじりと“レイイチさん”に近づいていた。彼女が鼻から息を吐く。

    ───と、玄関からガチャガチャと音がした。警察だ。鍵を開けようとしている。

「生きたいですか?    死にたいですか?」

    “レイイチさん”に言われて二人は顔を見合せた。ほんの数分前まで、自分たちは死ぬことを考えていたじゃないか。でも、“レイイチさん”が来てすっかり忘れてしまっていた。
    不思議なことに。澪ではないとわかってもなお、“レイイチさん”に会えてうれしいと思っている。

「俺······俺、いま死にたくない。母さんには悪いけど、あんまり悲しくないんだ。一緒に心中するなら、それしかないなら仕方ないかなって思ってたけど······」

「私も······お母さんが、ずっと怖かった。お姉ちゃんがいなくなってからずっと、お母さんは毒のはけ口を探してた。いつか爆発して、私やお兄ちゃんに暴力振るんじゃないかって」

    二人はもう動くことのない母を、そして“レイイチさん”を見て言った。

「生きたいです」

「身勝手と言われてもいい、生きたい───」

「······わかりました」

    あっさりと“レイイチさん”は銃をおろす。

「······でも、俺たちこれからどうする?    こんなことになったら、また家から出られない」

「私たちのこと、全国に広まっちゃってるもんね。どこに行っても同じかな」

「誰もいないところなんて、ないしな······」

    この家に二人きりになって、それからどう生きていけばいいのだろう。
    明日のことさえわからない二人に、“レイイチさん”が提案してきた。

「あなたたちを私のところで匿うことができます。そこは滅多に人が来ないところで、隠された場所です。そこでもいいなら、お連れしますが」

「で、でも、外は人がいっぱいで出られないですけど」

「その心配はありません、大丈夫です。───時間がないので、本当に大切なものだけを持ってきてください」

    二人にとって本当に大切なもの───それはたったひとつしかなかった。雫はポケットから小袋を取り出し、しっかりと握りしめる。
    そして二人は母に頭を下げた。

「······母さん、あなたのこと怖かったけど、いままで育ててくれてありがとう。それから、ひとりでここに残していくこと、許してください」

「お母さん、ごめんなさい······さようなら」

    二人は“レイイチさん”にうなずく。彼女もうなずいて、それからくうを見渡した。

「───かぁさん、頼むよ」

    そう“レイイチさん”が言うと、闇の光が部屋いっぱいに広がり、三人は姿を消した。

    自分が目を閉じたのかと思った瞬間には、もう景色が変わっていた。

    どこか全くわからない、誰かの家だ。
    縁側があって、窓が開け放たれている。そこには報道陣も野次馬もいない。ただひとり、黒い着物の何者かが、庭のようなところにいる。

「───え?」

    水斗と雫は一瞬の出来事に頭がついていけず、きょろきょろと辺りを見渡す。
    小上がりがあって、そこに“レイイチさん”がうずくまり、口を押さえている。

「ぅう、誰かに運んでもらうって、こんなに気持ち悪いのか······ぅむぅっ」

    殺人犯が吐きそうになっていた。




    *    *    *




「私はニュースでも取り上げられている“レイイチさん”で、何人もの人を殺してきた。だけど、あなたたちは殺さない。危害を加えることもしません。
    だから、安心して過ごしてほしい」

    姉さんそっくりな彼女───森ヲ噛零一は、なんのためらいもなく告白した。その表情が冴えないせいもあってか、自分も雫もすんなりと事実を受け入れることができた。
    なにせ、まったく怖くないのだ。目の前で母が撃たれたのは、驚きはしたがそれだけだ。

    圧倒的に、殺人犯としては足りないのだろう。
    ───殺意が。

    風がよく入る縁側で、ひとまず落ち着くよう零一に言われ、水斗と雫はゆっくり話を聞いていた。
    丁寧に説明してくれるので、混乱することも取り乱すこともなく、むしろホッとしている。

「実際に体験したからわかるように、私は普通の人間ではありません。かといって神様でもない······
    ここは力のある森ですので、人間は外部から立ち入ることができない。神様の許しがなければ来れません」

    だから、安心してください───と。

    零一は神様───黒い着物の男性のリンドウを、かぁさんと呼んでいた。

「そういえば、零一はどうしてあの方のことを“かぁさん”というの?」

    雫はずっと気になっていたことを訊いた。

「······幼い頃の私は、「かみさま」と発音するのが苦手で、かぁさんと呼んでいたんです。
    それ以来ずっとそう呼んでいるだけで、深い意味とかはないんですよ」

    零一がふっと笑う。
    あ、澪姉さんだ。ふとした時に表情が似て、水斗はこそばゆい気持ちになる。

    廊下の方からリンドウが歩いてきて、二人に声を掛けた。

「お風呂、沸きましたよ。ゆっくり入ってきてらっしゃい」

    本格的な話になったのは、二人が風呂を済ませ、零一が入れてくれたお茶を飲みはじめた頃だった。

    リンドウも加わり、みんなで縁側に並ぶ。
    太陽の位置は真上で、庭の草花が鮮やかに輝いている。
    リンドウが最初に口を開いた。

「きっと一番疑問に思っていることは、なぜ二人の姉、士草澪と、ここにいる“レイイチさん”が同じ人物だとされたのか。その点じゃないかな」

「はい」

    水斗が言い、雫もうなずく。

「私は二十三年前、家から逃げてきたという澪をこの森で助けた。行く場所も無いようだったから、この家に住むよう言い、澪が二十歳を迎えた頃まで一緒に暮らしていた」

「澪お姉ちゃんが、ここに······」

    雫は澪を探すように部屋を見渡す。

「一度だけ、澪は元々暮らしていた家に帰った。成人し、落ち着いたので、それで決心したのだろう。
    なにより、君たち二人のことを気にしていたから」

「あっ───やっぱりお姉ちゃんだったんだ!」

    雫はずっと持っていた小袋を、リンドウと零一に見せる。手作りの、お守り程度の大きさのそれには、大切なものが入っている。

「この中には、もうしおれちゃってるけど、お花が入っているんです。
    あるとき母が、お客さんが置いていったこの花を踏んづけていて······呪われるからそのままにしておけって言われたんですが、こっそり拾い集めておいたんです。
    私もお兄ちゃんも、そのときのお客さんは澪お姉ちゃんだったんじゃないかって、ずっと思っていたんです」

「······そうだよ。その人は澪だ」

    リンドウが懐かしむように目を細めた。視線の先には、手入れされた花壇がある。

「澪は家に帰ったとき、つらい思いをした。それで気を病んでしまい······───十六年前に、ここで自らの命を絶った」

「ね、姉さん、死んでたの───?」

「そんな······」

    “レイイチさん”が澪姉さんだと警察から言われたとき、ああ、生きていたんだとうれしくなった。
    けれど、そんなことなかったのだ。
    自分たちの知らないところで、知らないうちに死んでしまっていたなんて───。

    どれほど悲しくて、さみしい思いをしていたのだろう······。あのとき、姉さんが来たとき、玄関に出ていったのは母だった。きっとひどいことを言われたにちがいない。

    もし、もしも俺や雫が出ていたら?    姉さんに会っていたら、死なずにすんだのかな───。

「うっ······」

    雫が泣き出して、それを見た水斗の視界も涙でゆがむ。零一が席を離れ、すぐに戻ってきて二人分のハンカチを渡してくれた。

「あ、ありがとう」

    心配そうな顔をしている零一が、死んだと言われた澪に似ているので、それでまた涙があふれる。
    本当によく似ているのだ。

    二人の呼吸が落ち着きを取り戻すのを待って、リンドウが続けた。

「私は力を使い、澪の亡骸と私の一部で零一を作り上げた。澪のすべてを使ったわけではないから、似ていないところもある。
    しかし、血液や骨髄は澪のものなので、それで“レイイチさん”と澪が同一人物だとされたのだろう」

「───はあ?」

    雫が驚きすぎてすっとんきょうな声を上げる。水斗も同じ気持ちである。

「え、じゃあ、零一と澪お姉ちゃんは、ほとんど一緒の人ってこと?    というか、作るって、え?」

    超現実と非現実がいっぺんに来て、頭がおかしくなりそうだ。

「澪の心臓はいまも、零一のなかで動いているよ」

    零一と二人は顔を合わせ、そして零一を抱きしめた。

「姉さん、零一───っ」

「お姉ちゃん······ごめん、ごめんね」

    零一はどうすればいいのか戸惑ったが、やがて二人の背中に手を回し、ぽんぽんとした。
    やさしく、もう大丈夫だよと言うように。




    *    *    *




    士草澪の母親が“レイイチさん”によって殺害されたと知った東井が、森の家まで来た。

「お邪魔します」

    そう声が玄関から聞こえ、すぐに東井が入ってくる。······わかってはいたが、来るのが早い。

「零一!」

    零一が小上がりでなにをするでもなくゴロゴロしているところに、まっすぐ向かってくる。
    東常家に一緒に行った日以来の再会だ。あれから期間を空けず“レイイチさん”の正体が世に知れ渡ったので、東井に言われたのに大学に行くにも気が引け、結果として会えずにいたのだ。

    彼の方はまだ眼帯をしているが、眼鏡は新調したようだ。

「ニュースの速報を見て、急いで来たけど······ケガとかしてないか?」

「うん、それは平気······」

    上体を起こし、零一は雑に髪を整える。

「よかったぁ」

    はああと長く息を吐き、東井が畳に崩れ落ちた。

「大学にいたんじゃないのか?」

「ああ、うん。いたよ。泰希にニュースのこと教えてもらって、すぐに出てきたんだ」

    東井はあぐらをかき、持ってきていたペットボトルのお茶を仰いだ。
    にこにこする東井に、零一は不服そうな顔をする。

「······怒らないの?    また殺してしまったんだよ。しかも、私の······士草澪の母親を······」

「え、だってそれは───零一がそんな顔しているから、怒れないよ」

「───」

    予想外のことを言われ、零一は口をつぐんだ。
    ───顔に出ていたのか。いつもと変わらないように振る舞おうとしたが、できていなかったようだ。

「無理に隠そうとしなくていい。······俺に言って」

    東井がやさしく頭を撫でてきた。子供扱いされている気がするが、嫌な気分ではない。

「······いままでで、一番殺してよかったと思ってる。だけど······この心臓が───痛くて、苦しい。
    私と澪の感情がぐちゃぐちゃに交ざって、落ち着かないんだ」

    ───ずっと愛されたかった。······もう殺したからなにも怖くない。
    ───ずっと怖かった。······ひどいことをしたのは自分も同じ。
    ───本当は愛してなんかいなかった。······殺したから、もう愛もなにもない。

    東井が手を伸ばしてきて、ほほを拭った。
    いつのまにか零一は泣いていたのだ。

    庭に見知らぬ男女がいることに東井が気づいたのは、それから少ししてからである。
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