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第四章 森ヲ噛零一
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ずっと暮らしてきた家の窓が割られたとき、別の大切なものまで崩れ落ちたような感覚になった。
それは思い出。家族の絆。良いことも悪いことも全部詰めこんだ宝箱が、壊れて元に戻せなくなった。
「姉さん······いま、どこにいるんですか」
割れた窓から入ってくる風で、カーテンがゆれる。水斗はそのわずかな隙間から外を見て、忌々しげに言った。
“レイイチさん”である姉を恨んではいない。たしかにこうなった原因は殺人を犯した澪にあるのだが、家を傷つけたのは澪ではなく外にいる人たちだ。
もう四日。いつまで経ってもいなくなる様子がない。報道陣も、ここに澪がいないとわかっているなら、さっさと撤収すればいいのに。
家に元々あった食料もだいぶ減った。
スマホがないので出前をとることもできず、固定電話で頼めたのはいいが、いざ住所を伝えたら断られてしまったのだ。
まともに眠れず、空腹の時間も長くなってきた。
母も雫も自分も、三日前に風呂に入ったきりでそれからなにもしていない。
時間が解決してくれると思っていたのだが、甘かった。もう限界だ。こんなに監視された生活、耐えられない。
“レイイチさん”は、正体が判明してからなんの動きも見せていない。どこかで逃げて、危害を加えられる前に自首してほしい───せめて、そうしてほしいと水斗は願った。
カタンと物音がして、そちらを見ると、母が一本しかない包丁をゆるく握っていた。
「······母さん」
母はこの四日間で驚くほどげっそりしてしまった。目は虚ろで、包丁も落としてしまいそうだ。
「───死のう。みんなで」
久しぶりに聞いた母の言葉がそんなことだった。
テーブルに突っ伏していた雫が顔を上げ、ぼんやりと母を見る。水斗も雫も、ただ母の動向をながめる。
みんな、同じことを考えていたのだ。
しかし、包丁で刺す、切るといっても、力がない。家には練炭もないし、ロープらしいものは外の物置きだ。
浴槽に顔を入れて溺れる? 包丁を胸に突き立てて床に倒れる?
もう考えるのも億劫だった。
母が自らの手首に包丁を押し当てた───
そのとき。
母の背後に、“レイイチさん”が現れた。
「死にたいなら、もっと楽に死なせてあげますよ」
その声に母がバッと振り返る。
どこにそんな気力があったのか、包丁をしっかり握り“レイイチさん”に飛びかかる。
パァンっ!
なにかが破裂したような音の直後、母が力無く倒れる。
“レイイチさん”が、銃を持っていた。その先端が今度は水斗に向けられる。
「ま、待ってくれ! 本当にあなたは、澪姉さんなのか?」
「違います」
即答だった。だが、声がなんとなく記憶にあるものと似ている。
雫が立ち上がり、“レイイチさん”に近寄ろうとする。すると銃口が雫に向き、「近づかないでください」と凛とした声で言った。
雫は言われた通りにし、そこで「顔を見せて」と言った。
「······カメラとか、ありませんよね」
「はい······ありません」
水斗が言うと、“レイイチさん”は被っていた布を取った。
「───うそ」
水斗も雫も、その顔を見て息を呑む。
「澪姉さんだ」
「だから、違います」
否定する彼女は凛々しく、花のような笑顔を見せていた澪とは、ちがう雰囲気だ。しかしどこか面影がある。二人が憶えている澪は、十三歳だった。成長すればこんな感じになるのだろう。
いまは三十六歳になるが、それよりもずっと若く、自分たちよりも幼く見える。
「たしかによく見ると、似てるけどちがう。姉さんにあったホクロがない」
「あ、そうだね。ほんとよく似てるけど」
二人は無意識にじりじりと“レイイチさん”に近づいていた。彼女が鼻から息を吐く。
───と、玄関からガチャガチャと音がした。警察だ。鍵を開けようとしている。
「生きたいですか? 死にたいですか?」
“レイイチさん”に言われて二人は顔を見合せた。ほんの数分前まで、自分たちは死ぬことを考えていたじゃないか。でも、“レイイチさん”が来てすっかり忘れてしまっていた。
不思議なことに。澪ではないとわかってもなお、“レイイチさん”に会えてうれしいと思っている。
「俺······俺、いま死にたくない。母さんには悪いけど、あんまり悲しくないんだ。一緒に心中するなら、それしかないなら仕方ないかなって思ってたけど······」
「私も······お母さんが、ずっと怖かった。お姉ちゃんがいなくなってからずっと、お母さんは毒のはけ口を探してた。いつか爆発して、私やお兄ちゃんに暴力振るんじゃないかって」
二人はもう動くことのない母を、そして“レイイチさん”を見て言った。
「生きたいです」
「身勝手と言われてもいい、生きたい───」
「······わかりました」
あっさりと“レイイチさん”は銃をおろす。
「······でも、俺たちこれからどうする? こんなことになったら、また家から出られない」
「私たちのこと、全国に広まっちゃってるもんね。どこに行っても同じかな」
「誰もいないところなんて、ないしな······」
この家に二人きりになって、それからどう生きていけばいいのだろう。
明日のことさえわからない二人に、“レイイチさん”が提案してきた。
「あなたたちを私のところで匿うことができます。そこは滅多に人が来ないところで、隠された場所です。そこでもいいなら、お連れしますが」
「で、でも、外は人がいっぱいで出られないですけど」
「その心配はありません、大丈夫です。───時間がないので、本当に大切なものだけを持ってきてください」
二人にとって本当に大切なもの───それはたったひとつしかなかった。雫はポケットから小袋を取り出し、しっかりと握りしめる。
そして二人は母に頭を下げた。
「······母さん、あなたのこと怖かったけど、いままで育ててくれてありがとう。それから、ひとりでここに残していくこと、許してください」
「お母さん、ごめんなさい······さようなら」
二人は“レイイチさん”にうなずく。彼女もうなずいて、それから空を見渡した。
「───かぁさん、頼むよ」
そう“レイイチさん”が言うと、闇の光が部屋いっぱいに広がり、三人は姿を消した。
自分が目を閉じたのかと思った瞬間には、もう景色が変わっていた。
どこか全くわからない、誰かの家だ。
縁側があって、窓が開け放たれている。そこには報道陣も野次馬もいない。ただひとり、黒い着物の何者かが、庭のようなところにいる。
「───え?」
水斗と雫は一瞬の出来事に頭がついていけず、きょろきょろと辺りを見渡す。
小上がりがあって、そこに“レイイチさん”がうずくまり、口を押さえている。
「ぅう、誰かに運んでもらうって、こんなに気持ち悪いのか······ぅむぅっ」
殺人犯が吐きそうになっていた。
* * *
「私はニュースでも取り上げられている“レイイチさん”で、何人もの人を殺してきた。だけど、あなたたちは殺さない。危害を加えることもしません。
だから、安心して過ごしてほしい」
姉さんそっくりな彼女───森ヲ噛零一は、なんのためらいもなく告白した。その表情が冴えないせいもあってか、自分も雫もすんなりと事実を受け入れることができた。
なにせ、まったく怖くないのだ。目の前で母が撃たれたのは、驚きはしたがそれだけだ。
圧倒的に、殺人犯としては足りないのだろう。
───殺意が。
風がよく入る縁側で、ひとまず落ち着くよう零一に言われ、水斗と雫はゆっくり話を聞いていた。
丁寧に説明してくれるので、混乱することも取り乱すこともなく、むしろホッとしている。
「実際に体験したからわかるように、私は普通の人間ではありません。かといって神様でもない······
ここは力のある森ですので、人間は外部から立ち入ることができない。神様の許しがなければ来れません」
だから、安心してください───と。
零一は神様───黒い着物の男性のリンドウを、かぁさんと呼んでいた。
「そういえば、零一はどうしてあの方のことを“かぁさん”というの?」
雫はずっと気になっていたことを訊いた。
「······幼い頃の私は、「かみさま」と発音するのが苦手で、かぁさんと呼んでいたんです。
それ以来ずっとそう呼んでいるだけで、深い意味とかはないんですよ」
零一がふっと笑う。
あ、澪姉さんだ。ふとした時に表情が似て、水斗はこそばゆい気持ちになる。
廊下の方からリンドウが歩いてきて、二人に声を掛けた。
「お風呂、沸きましたよ。ゆっくり入ってきてらっしゃい」
本格的な話になったのは、二人が風呂を済ませ、零一が入れてくれたお茶を飲みはじめた頃だった。
リンドウも加わり、みんなで縁側に並ぶ。
太陽の位置は真上で、庭の草花が鮮やかに輝いている。
リンドウが最初に口を開いた。
「きっと一番疑問に思っていることは、なぜ二人の姉、士草澪と、ここにいる“レイイチさん”が同じ人物だとされたのか。その点じゃないかな」
「はい」
水斗が言い、雫もうなずく。
「私は二十三年前、家から逃げてきたという澪をこの森で助けた。行く場所も無いようだったから、この家に住むよう言い、澪が二十歳を迎えた頃まで一緒に暮らしていた」
「澪お姉ちゃんが、ここに······」
雫は澪を探すように部屋を見渡す。
「一度だけ、澪は元々暮らしていた家に帰った。成人し、落ち着いたので、それで決心したのだろう。
なにより、君たち二人のことを気にしていたから」
「あっ───やっぱりお姉ちゃんだったんだ!」
雫はずっと持っていた小袋を、リンドウと零一に見せる。手作りの、お守り程度の大きさのそれには、大切なものが入っている。
「この中には、もうしおれちゃってるけど、お花が入っているんです。
あるとき母が、お客さんが置いていったこの花を踏んづけていて······呪われるからそのままにしておけって言われたんですが、こっそり拾い集めておいたんです。
私もお兄ちゃんも、そのときのお客さんは澪お姉ちゃんだったんじゃないかって、ずっと思っていたんです」
「······そうだよ。その人は澪だ」
リンドウが懐かしむように目を細めた。視線の先には、手入れされた花壇がある。
「澪は家に帰ったとき、つらい思いをした。それで気を病んでしまい······───十六年前に、ここで自らの命を絶った」
「ね、姉さん、死んでたの───?」
「そんな······」
“レイイチさん”が澪姉さんだと警察から言われたとき、ああ、生きていたんだとうれしくなった。
けれど、そんなことなかったのだ。
自分たちの知らないところで、知らないうちに死んでしまっていたなんて───。
どれほど悲しくて、さみしい思いをしていたのだろう······。あのとき、姉さんが来たとき、玄関に出ていったのは母だった。きっとひどいことを言われたにちがいない。
もし、もしも俺や雫が出ていたら? 姉さんに会っていたら、死なずにすんだのかな───。
「うっ······」
雫が泣き出して、それを見た水斗の視界も涙でゆがむ。零一が席を離れ、すぐに戻ってきて二人分のハンカチを渡してくれた。
「あ、ありがとう」
心配そうな顔をしている零一が、死んだと言われた澪に似ているので、それでまた涙があふれる。
本当によく似ているのだ。
二人の呼吸が落ち着きを取り戻すのを待って、リンドウが続けた。
「私は力を使い、澪の亡骸と私の一部で零一を作り上げた。澪のすべてを使ったわけではないから、似ていないところもある。
しかし、血液や骨髄は澪のものなので、それで“レイイチさん”と澪が同一人物だとされたのだろう」
「───はあ?」
雫が驚きすぎてすっとんきょうな声を上げる。水斗も同じ気持ちである。
「え、じゃあ、零一と澪お姉ちゃんは、ほとんど一緒の人ってこと? というか、作るって、え?」
超現実と非現実がいっぺんに来て、頭がおかしくなりそうだ。
「澪の心臓はいまも、零一のなかで動いているよ」
零一と二人は顔を合わせ、そして零一を抱きしめた。
「姉さん、零一───っ」
「お姉ちゃん······ごめん、ごめんね」
零一はどうすればいいのか戸惑ったが、やがて二人の背中に手を回し、ぽんぽんとした。
やさしく、もう大丈夫だよと言うように。
* * *
士草澪の母親が“レイイチさん”によって殺害されたと知った東井が、森の家まで来た。
「お邪魔します」
そう声が玄関から聞こえ、すぐに東井が入ってくる。······わかってはいたが、来るのが早い。
「零一!」
零一が小上がりでなにをするでもなくゴロゴロしているところに、まっすぐ向かってくる。
東常家に一緒に行った日以来の再会だ。あれから期間を空けず“レイイチさん”の正体が世に知れ渡ったので、東井に言われたのに大学に行くにも気が引け、結果として会えずにいたのだ。
彼の方はまだ眼帯をしているが、眼鏡は新調したようだ。
「ニュースの速報を見て、急いで来たけど······ケガとかしてないか?」
「うん、それは平気······」
上体を起こし、零一は雑に髪を整える。
「よかったぁ」
はああと長く息を吐き、東井が畳に崩れ落ちた。
「大学にいたんじゃないのか?」
「ああ、うん。いたよ。泰希にニュースのこと教えてもらって、すぐに出てきたんだ」
東井はあぐらをかき、持ってきていたペットボトルのお茶を仰いだ。
にこにこする東井に、零一は不服そうな顔をする。
「······怒らないの? また殺してしまったんだよ。しかも、私の······士草澪の母親を······」
「え、だってそれは───零一がそんな顔しているから、怒れないよ」
「───」
予想外のことを言われ、零一は口をつぐんだ。
───顔に出ていたのか。いつもと変わらないように振る舞おうとしたが、できていなかったようだ。
「無理に隠そうとしなくていい。······俺に言って」
東井がやさしく頭を撫でてきた。子供扱いされている気がするが、嫌な気分ではない。
「······いままでで、一番殺してよかったと思ってる。だけど······この心臓が───痛くて、苦しい。
私と澪の感情がぐちゃぐちゃに交ざって、落ち着かないんだ」
───ずっと愛されたかった。······もう殺したからなにも怖くない。
───ずっと怖かった。······ひどいことをしたのは自分も同じ。
───本当は愛してなんかいなかった。······殺したから、もう愛もなにもない。
東井が手を伸ばしてきて、ほほを拭った。
いつのまにか零一は泣いていたのだ。
庭に見知らぬ男女がいることに東井が気づいたのは、それから少ししてからである。
それは思い出。家族の絆。良いことも悪いことも全部詰めこんだ宝箱が、壊れて元に戻せなくなった。
「姉さん······いま、どこにいるんですか」
割れた窓から入ってくる風で、カーテンがゆれる。水斗はそのわずかな隙間から外を見て、忌々しげに言った。
“レイイチさん”である姉を恨んではいない。たしかにこうなった原因は殺人を犯した澪にあるのだが、家を傷つけたのは澪ではなく外にいる人たちだ。
もう四日。いつまで経ってもいなくなる様子がない。報道陣も、ここに澪がいないとわかっているなら、さっさと撤収すればいいのに。
家に元々あった食料もだいぶ減った。
スマホがないので出前をとることもできず、固定電話で頼めたのはいいが、いざ住所を伝えたら断られてしまったのだ。
まともに眠れず、空腹の時間も長くなってきた。
母も雫も自分も、三日前に風呂に入ったきりでそれからなにもしていない。
時間が解決してくれると思っていたのだが、甘かった。もう限界だ。こんなに監視された生活、耐えられない。
“レイイチさん”は、正体が判明してからなんの動きも見せていない。どこかで逃げて、危害を加えられる前に自首してほしい───せめて、そうしてほしいと水斗は願った。
カタンと物音がして、そちらを見ると、母が一本しかない包丁をゆるく握っていた。
「······母さん」
母はこの四日間で驚くほどげっそりしてしまった。目は虚ろで、包丁も落としてしまいそうだ。
「───死のう。みんなで」
久しぶりに聞いた母の言葉がそんなことだった。
テーブルに突っ伏していた雫が顔を上げ、ぼんやりと母を見る。水斗も雫も、ただ母の動向をながめる。
みんな、同じことを考えていたのだ。
しかし、包丁で刺す、切るといっても、力がない。家には練炭もないし、ロープらしいものは外の物置きだ。
浴槽に顔を入れて溺れる? 包丁を胸に突き立てて床に倒れる?
もう考えるのも億劫だった。
母が自らの手首に包丁を押し当てた───
そのとき。
母の背後に、“レイイチさん”が現れた。
「死にたいなら、もっと楽に死なせてあげますよ」
その声に母がバッと振り返る。
どこにそんな気力があったのか、包丁をしっかり握り“レイイチさん”に飛びかかる。
パァンっ!
なにかが破裂したような音の直後、母が力無く倒れる。
“レイイチさん”が、銃を持っていた。その先端が今度は水斗に向けられる。
「ま、待ってくれ! 本当にあなたは、澪姉さんなのか?」
「違います」
即答だった。だが、声がなんとなく記憶にあるものと似ている。
雫が立ち上がり、“レイイチさん”に近寄ろうとする。すると銃口が雫に向き、「近づかないでください」と凛とした声で言った。
雫は言われた通りにし、そこで「顔を見せて」と言った。
「······カメラとか、ありませんよね」
「はい······ありません」
水斗が言うと、“レイイチさん”は被っていた布を取った。
「───うそ」
水斗も雫も、その顔を見て息を呑む。
「澪姉さんだ」
「だから、違います」
否定する彼女は凛々しく、花のような笑顔を見せていた澪とは、ちがう雰囲気だ。しかしどこか面影がある。二人が憶えている澪は、十三歳だった。成長すればこんな感じになるのだろう。
いまは三十六歳になるが、それよりもずっと若く、自分たちよりも幼く見える。
「たしかによく見ると、似てるけどちがう。姉さんにあったホクロがない」
「あ、そうだね。ほんとよく似てるけど」
二人は無意識にじりじりと“レイイチさん”に近づいていた。彼女が鼻から息を吐く。
───と、玄関からガチャガチャと音がした。警察だ。鍵を開けようとしている。
「生きたいですか? 死にたいですか?」
“レイイチさん”に言われて二人は顔を見合せた。ほんの数分前まで、自分たちは死ぬことを考えていたじゃないか。でも、“レイイチさん”が来てすっかり忘れてしまっていた。
不思議なことに。澪ではないとわかってもなお、“レイイチさん”に会えてうれしいと思っている。
「俺······俺、いま死にたくない。母さんには悪いけど、あんまり悲しくないんだ。一緒に心中するなら、それしかないなら仕方ないかなって思ってたけど······」
「私も······お母さんが、ずっと怖かった。お姉ちゃんがいなくなってからずっと、お母さんは毒のはけ口を探してた。いつか爆発して、私やお兄ちゃんに暴力振るんじゃないかって」
二人はもう動くことのない母を、そして“レイイチさん”を見て言った。
「生きたいです」
「身勝手と言われてもいい、生きたい───」
「······わかりました」
あっさりと“レイイチさん”は銃をおろす。
「······でも、俺たちこれからどうする? こんなことになったら、また家から出られない」
「私たちのこと、全国に広まっちゃってるもんね。どこに行っても同じかな」
「誰もいないところなんて、ないしな······」
この家に二人きりになって、それからどう生きていけばいいのだろう。
明日のことさえわからない二人に、“レイイチさん”が提案してきた。
「あなたたちを私のところで匿うことができます。そこは滅多に人が来ないところで、隠された場所です。そこでもいいなら、お連れしますが」
「で、でも、外は人がいっぱいで出られないですけど」
「その心配はありません、大丈夫です。───時間がないので、本当に大切なものだけを持ってきてください」
二人にとって本当に大切なもの───それはたったひとつしかなかった。雫はポケットから小袋を取り出し、しっかりと握りしめる。
そして二人は母に頭を下げた。
「······母さん、あなたのこと怖かったけど、いままで育ててくれてありがとう。それから、ひとりでここに残していくこと、許してください」
「お母さん、ごめんなさい······さようなら」
二人は“レイイチさん”にうなずく。彼女もうなずいて、それから空を見渡した。
「───かぁさん、頼むよ」
そう“レイイチさん”が言うと、闇の光が部屋いっぱいに広がり、三人は姿を消した。
自分が目を閉じたのかと思った瞬間には、もう景色が変わっていた。
どこか全くわからない、誰かの家だ。
縁側があって、窓が開け放たれている。そこには報道陣も野次馬もいない。ただひとり、黒い着物の何者かが、庭のようなところにいる。
「───え?」
水斗と雫は一瞬の出来事に頭がついていけず、きょろきょろと辺りを見渡す。
小上がりがあって、そこに“レイイチさん”がうずくまり、口を押さえている。
「ぅう、誰かに運んでもらうって、こんなに気持ち悪いのか······ぅむぅっ」
殺人犯が吐きそうになっていた。
* * *
「私はニュースでも取り上げられている“レイイチさん”で、何人もの人を殺してきた。だけど、あなたたちは殺さない。危害を加えることもしません。
だから、安心して過ごしてほしい」
姉さんそっくりな彼女───森ヲ噛零一は、なんのためらいもなく告白した。その表情が冴えないせいもあってか、自分も雫もすんなりと事実を受け入れることができた。
なにせ、まったく怖くないのだ。目の前で母が撃たれたのは、驚きはしたがそれだけだ。
圧倒的に、殺人犯としては足りないのだろう。
───殺意が。
風がよく入る縁側で、ひとまず落ち着くよう零一に言われ、水斗と雫はゆっくり話を聞いていた。
丁寧に説明してくれるので、混乱することも取り乱すこともなく、むしろホッとしている。
「実際に体験したからわかるように、私は普通の人間ではありません。かといって神様でもない······
ここは力のある森ですので、人間は外部から立ち入ることができない。神様の許しがなければ来れません」
だから、安心してください───と。
零一は神様───黒い着物の男性のリンドウを、かぁさんと呼んでいた。
「そういえば、零一はどうしてあの方のことを“かぁさん”というの?」
雫はずっと気になっていたことを訊いた。
「······幼い頃の私は、「かみさま」と発音するのが苦手で、かぁさんと呼んでいたんです。
それ以来ずっとそう呼んでいるだけで、深い意味とかはないんですよ」
零一がふっと笑う。
あ、澪姉さんだ。ふとした時に表情が似て、水斗はこそばゆい気持ちになる。
廊下の方からリンドウが歩いてきて、二人に声を掛けた。
「お風呂、沸きましたよ。ゆっくり入ってきてらっしゃい」
本格的な話になったのは、二人が風呂を済ませ、零一が入れてくれたお茶を飲みはじめた頃だった。
リンドウも加わり、みんなで縁側に並ぶ。
太陽の位置は真上で、庭の草花が鮮やかに輝いている。
リンドウが最初に口を開いた。
「きっと一番疑問に思っていることは、なぜ二人の姉、士草澪と、ここにいる“レイイチさん”が同じ人物だとされたのか。その点じゃないかな」
「はい」
水斗が言い、雫もうなずく。
「私は二十三年前、家から逃げてきたという澪をこの森で助けた。行く場所も無いようだったから、この家に住むよう言い、澪が二十歳を迎えた頃まで一緒に暮らしていた」
「澪お姉ちゃんが、ここに······」
雫は澪を探すように部屋を見渡す。
「一度だけ、澪は元々暮らしていた家に帰った。成人し、落ち着いたので、それで決心したのだろう。
なにより、君たち二人のことを気にしていたから」
「あっ───やっぱりお姉ちゃんだったんだ!」
雫はずっと持っていた小袋を、リンドウと零一に見せる。手作りの、お守り程度の大きさのそれには、大切なものが入っている。
「この中には、もうしおれちゃってるけど、お花が入っているんです。
あるとき母が、お客さんが置いていったこの花を踏んづけていて······呪われるからそのままにしておけって言われたんですが、こっそり拾い集めておいたんです。
私もお兄ちゃんも、そのときのお客さんは澪お姉ちゃんだったんじゃないかって、ずっと思っていたんです」
「······そうだよ。その人は澪だ」
リンドウが懐かしむように目を細めた。視線の先には、手入れされた花壇がある。
「澪は家に帰ったとき、つらい思いをした。それで気を病んでしまい······───十六年前に、ここで自らの命を絶った」
「ね、姉さん、死んでたの───?」
「そんな······」
“レイイチさん”が澪姉さんだと警察から言われたとき、ああ、生きていたんだとうれしくなった。
けれど、そんなことなかったのだ。
自分たちの知らないところで、知らないうちに死んでしまっていたなんて───。
どれほど悲しくて、さみしい思いをしていたのだろう······。あのとき、姉さんが来たとき、玄関に出ていったのは母だった。きっとひどいことを言われたにちがいない。
もし、もしも俺や雫が出ていたら? 姉さんに会っていたら、死なずにすんだのかな───。
「うっ······」
雫が泣き出して、それを見た水斗の視界も涙でゆがむ。零一が席を離れ、すぐに戻ってきて二人分のハンカチを渡してくれた。
「あ、ありがとう」
心配そうな顔をしている零一が、死んだと言われた澪に似ているので、それでまた涙があふれる。
本当によく似ているのだ。
二人の呼吸が落ち着きを取り戻すのを待って、リンドウが続けた。
「私は力を使い、澪の亡骸と私の一部で零一を作り上げた。澪のすべてを使ったわけではないから、似ていないところもある。
しかし、血液や骨髄は澪のものなので、それで“レイイチさん”と澪が同一人物だとされたのだろう」
「───はあ?」
雫が驚きすぎてすっとんきょうな声を上げる。水斗も同じ気持ちである。
「え、じゃあ、零一と澪お姉ちゃんは、ほとんど一緒の人ってこと? というか、作るって、え?」
超現実と非現実がいっぺんに来て、頭がおかしくなりそうだ。
「澪の心臓はいまも、零一のなかで動いているよ」
零一と二人は顔を合わせ、そして零一を抱きしめた。
「姉さん、零一───っ」
「お姉ちゃん······ごめん、ごめんね」
零一はどうすればいいのか戸惑ったが、やがて二人の背中に手を回し、ぽんぽんとした。
やさしく、もう大丈夫だよと言うように。
* * *
士草澪の母親が“レイイチさん”によって殺害されたと知った東井が、森の家まで来た。
「お邪魔します」
そう声が玄関から聞こえ、すぐに東井が入ってくる。······わかってはいたが、来るのが早い。
「零一!」
零一が小上がりでなにをするでもなくゴロゴロしているところに、まっすぐ向かってくる。
東常家に一緒に行った日以来の再会だ。あれから期間を空けず“レイイチさん”の正体が世に知れ渡ったので、東井に言われたのに大学に行くにも気が引け、結果として会えずにいたのだ。
彼の方はまだ眼帯をしているが、眼鏡は新調したようだ。
「ニュースの速報を見て、急いで来たけど······ケガとかしてないか?」
「うん、それは平気······」
上体を起こし、零一は雑に髪を整える。
「よかったぁ」
はああと長く息を吐き、東井が畳に崩れ落ちた。
「大学にいたんじゃないのか?」
「ああ、うん。いたよ。泰希にニュースのこと教えてもらって、すぐに出てきたんだ」
東井はあぐらをかき、持ってきていたペットボトルのお茶を仰いだ。
にこにこする東井に、零一は不服そうな顔をする。
「······怒らないの? また殺してしまったんだよ。しかも、私の······士草澪の母親を······」
「え、だってそれは───零一がそんな顔しているから、怒れないよ」
「───」
予想外のことを言われ、零一は口をつぐんだ。
───顔に出ていたのか。いつもと変わらないように振る舞おうとしたが、できていなかったようだ。
「無理に隠そうとしなくていい。······俺に言って」
東井がやさしく頭を撫でてきた。子供扱いされている気がするが、嫌な気分ではない。
「······いままでで、一番殺してよかったと思ってる。だけど······この心臓が───痛くて、苦しい。
私と澪の感情がぐちゃぐちゃに交ざって、落ち着かないんだ」
───ずっと愛されたかった。······もう殺したからなにも怖くない。
───ずっと怖かった。······ひどいことをしたのは自分も同じ。
───本当は愛してなんかいなかった。······殺したから、もう愛もなにもない。
東井が手を伸ばしてきて、ほほを拭った。
いつのまにか零一は泣いていたのだ。
庭に見知らぬ男女がいることに東井が気づいたのは、それから少ししてからである。
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✿ 私は彼のことが好きなのに、彼は私なんかよりずっと若くてきれいでスタイルの良い女が好きらしい
設楽理沙
ライト文芸
累計ポイント110万ポイント超えました。皆さま、ありがとうございます。❀
結婚後、2か月足らずで夫の心変わりを知ることに。
結婚前から他の女性と付き合っていたんだって。
それならそうと、ちゃんと話してくれていれば、結婚なんて
しなかった。
呆れた私はすぐに家を出て自立の道を探すことにした。
それなのに、私と別れたくないなんて信じられない
世迷言を言ってくる夫。
だめだめ、信用できないからね~。
さようなら。
*******.✿..✿.*******
◇|日比野滉星《ひびのこうせい》32才 会社員
◇ 日比野ひまり 32才
◇ 石田唯 29才 滉星の同僚
◇新堂冬也 25才 ひまりの転職先の先輩(鉄道会社)
2025.4.11 完結 25649字
🥕おしどり夫婦として12年間の結婚生活を過ごしてきたが一波乱あり、妻は夫を誰かに譲りたくなるのだった。
設楽理沙
ライト文芸
☘ 累計ポイント/ 190万pt 超えました。ありがとうございます。
―― 備忘録 ――
第8回ライト文芸大賞では大賞2位ではじまり2位で終了。 最高 57,392 pt
〃 24h/pt-1位ではじまり2位で終了。 最高 89,034 pt
◇ ◇ ◇ ◇
紳士的でいつだって私や私の両親にやさしくしてくれる
素敵な旦那さま・・だと思ってきたのに。
隠された夫の一面を知った日から、眞奈の苦悩が
始まる。
苦しくて、悲しくてもののすごく惨めで・・
消えてしまいたいと思う眞奈は小さな子供のように
大きな声で泣いた。
泣きながらも、よろけながらも、気がつけば
大地をしっかりと踏みしめていた。
そう、立ち止まってなんていられない。
☆-★-☆-★+☆-★-☆-★+☆-★-☆-★
2025.4.19☑~
つまらなかった乙女ゲームに転生しちゃったので、サクッと終わらすことにしました
蒼羽咲
ファンタジー
つまらなかった乙女ゲームに転生⁈
絵に惚れ込み、一目惚れキャラのためにハードまで買ったが内容が超つまらなかった残念な乙女ゲームに転生してしまった。
絵は超好みだ。内容はご都合主義の聖女なお花畑主人公。攻略イケメンも顔は良いがちょろい対象ばかり。てこたぁ逆にめちゃくちゃ住み心地のいい場所になるのでは⁈と気づき、テンションが一気に上がる!!
聖女など面倒な事はする気はない!サクッと攻略終わらせてぐーたら生活をGETするぞ!
ご都合主義ならチョロい!と、野望を胸に動き出す!!
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