わからないから、教えて ―恋知らずの天才魔術師は秀才教師に執着中

月灯

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わからない②

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 一日眠って体調は回復した。すっかり平常どおり、熱もなければ身体も軽い。
 そんなジルベルトは放課後、クッキー缶を手に学内を闊歩していた。

 アーサーに礼をしなければならない。

 受けた借りは返す。感性が多少世間とずれている自覚はあるが、かろうじてそれくらいの常識はあった。
 はたしてアーサーは教室にいた。どうやらまた「授業」をしているようだ。彼の周りは常に人がいる。相手の生徒が何事か言うと、アーサーが口を開けて笑った。その笑顔に、なぜか面白くない気分になる。
 ジルベルトは柱の陰にもたれ、会話が終わるのを待った。生徒が去ったのを見て教室に入る。アーサーはすぐジルベルトに気づいた。

「ああ、ジルベルト。体調はどう?」
「治った」
「そうか。よかった」
「礼だ」

 ほっと頬を緩めるアーサーの前にクッキー缶を置くと、アーサーは目を丸くした。わ、と漏れた声が妙に間抜けに聞こえる。

「えっ、わざわざありがとう。気にしなくていいのに」
「そうはいかない」
「そう? なら、ありがたくいただくよ」
「ああ」

 沈黙が落ちた。
 用は終わった。だから立ち去ればいい。なのにどうにも去りがたかった。棒立ちで沈黙するジルベルトにアーサーが首を傾げる。ジルベルトは視線をさまよわせた。

「それ」
「ん?」

 アーサーの手元の教科書を指した。生活応用魔術論だ。これまで習った魔術が実生活でどう活用されるか、という授業だった気がする。が、例によって出席したことはない。

「いま、どこだ」
「え? ……えっと、いまは生活用魔道具にどんな魔方陣が組まれているかって話。来週は小テストで、拡声機と空調装置が出るんだけど、回路部分の演算がつまずきやすくて――」
「ぼくにも教えろ」
「え?」

 アーサーが再び目を丸くした。若草色の瞳がぱちぱちと瞬く。

「教える? ジルベルトに?」

 ジルベルトは頷いた。アーサーはいっそう混乱した。

「ジルベルト、ええと……まさか、わからない、とか?」

 もちろんわかるに決まっている。しかしここでわかると言えば、なぜわざわざ聞くのかと訝しまれる。ジルベルトは胸を張って頷いた。

「ああ、わからない。教えろ」
「えぇ……?」

 アーサーの向かいに座り、足を組む。立ち去る様子を見せないジルベルトに、アーサーは首を捻りながら、教科書へ目を落とした。

「そうだな……まず、両方とも風魔術が主だよね」
「ああ」
「拡声機も空調装置も、風魔術の特性が共通しているのはわかる?」
「わからない」
「え? ……えーと、そっか。じゃあもう少し基礎的な話にしようか。風魔術には二つの特性があるよね。なにとなにだろう?」
「わからない」
「……拡散と収束だね。対象物をより広げるのが拡散。逆に対象物を一箇所にまとめ上げるのが収束。なんとなくわかる?」
「……ああ」
「じゃあ、拡声機と空調装置はどちらにあたるだろう?」
「わからない」

 ジルベルトは三たび繰り返した。アーサーがとっても困った顔をした。

「音をより遠く広く届けるのが拡声機、温度を均一に広げるのが空調装置。広げる、だからどちらも拡散が主体だね」
「うん」
「風の魔術は拡散と収束で呪文も陣も変わってくる。風の基礎方陣は覚えてる?」
「わからない」
「そう、か。ええと、そうだな……じゃあその導出からやろうか。じゃあ、試しにそこのカーテンを揺らしてみよう」
「どうやって?」
「うん? うーんと」

 訊かれるたびにわからないと答え続けたせいで、気づけば初等科で学ぶような内容から説明させることになった。基礎も基礎である。だがアーサーは怒ることなく辛抱強く説明を続け、ジルベルトはその声に聞き入った。
 アーサーの声はフラットで、わからなくても叱らない。ときにヒントを与え、具体例を示し、理解したと見ると自分のことのように喜んでくれる。これは人が集まるはずだ。ジルベルトは、アーサーが「先生」と呼ばれるゆえんを理解した。そして普段からこうやって教えてもらえる同級生たちがふいに憎らしくなった。
 どうしたらもっと、もっと……なんだろう。ジルベルトは考えを巡らせた。
 こんな誰でも見られるようなものじゃなくて、もっと特別なものがいい。ジルベルトだけが知っているとっておきが欲しい。こうしてアーサーが親切にするのは自分だけだったらいいのに。自分だけが知っていればいいのに。
 突如沸き起こった感情に、ジルベルトは困惑した。胸のあたりがぞわぞわして、手で押さえる。アーサーが説明を止めて、心配そうに顔をのぞき込んできた。

「ジルベルト? どうした、まだ体調が悪い?」
「いや……」

 ジルベルトは困惑していた。いままでわからないことなんてほとんどなかったのに、このざわつきを言い表すことができない。不快なのか、そうでないかすらわからない。
 改めてジルベルトはアーサーを見つめた。藁色の髪はてっぺんがやや跳ねていて、若草色の目は丸く、まなじりが垂れている。その穏やかな眸を向けられると動悸がした。座っているのすらいたたまれなくて、けれど去りたいとは思わない。
 ――わからない。
 だから知りたいと思った、けれど。











「アーサー、……アーサー?」

 腕の中で男が突然意識を失った。呼びかけても目蓋は開かず、腕の中の身体はぐったりと重い。その顔色は普段よりも白く、四肢が微かに震えていた。息も浅く速い。危険な状態だ、そう理解するや頭が真っ白になる。足が竦んで動かない。どうする。どうすればいい。こんなふうに混乱するのは初めてだった。

「ちょ、なにがありました」

 ユージェフを担いで立ち去るところだったバジルが後戻りし、はっと息を呑む。

「ちょ、魔力枯渇じゃないですか! 医療魔術師のところに連れて行かないと、」
「……魔力枯渇」

 右から左に流れる声のなかで、唯一それが耳に残った。そうだ、この症状は魔力枯渇だ。なら正しい処置さえすればいい。過剰に恐れることではない。そう頭は理解しているのに、心はまったく落ち着かない。魔力枯渇状態の魔術師実験馬鹿なんて《塔》で見慣れているのに、目の前の光景が恐ろしくてたまらなかった。
 ドン、と遠くで大きな音がした。祭りの花火の音だったが、それすらジルベルトは恐れた。
 いますぐ安全なところに行かなければならない。誰も襲わせない、誰にも邪魔させない。
 ジルベルトは即座に術式を編み上げる。膨らんだ魔力に、通信機を手にしたバジルがぎょっと目を向いた。

「は? ちょ、あんたなにする気」

 その言葉は最後まで聞き取れない。次の瞬間には、ジルベルトは己の屋敷の一室にいた。

「アーサー……アーサー」

 呼びかけてもやはり返事はない。ジルベルトは寝台にその身体を横たえ、その手を握った。強引に境界を崩し、魔力を流し込む。ぐんぐん魔力を吸い取られる感覚に、唇を噛んだ。

 「アーサー」

 目を開けてほしい。ジルベルト、とあの穏やかな声で呼びかけて欲しい。身を伏せ、唇を重ねる。肌同士の接触よりも、粘膜接触のほうが遥かに効率がいいからだ。

「アーサー、アーサー」

 少しずつアーサーの体温が戻ってくる。だがそれでも恐怖は拭えず、ジルベルトは己より華奢な身体に必死に縋りつく。


 ――この男に題する感情を、ジルベルトは四年経ったいまも正しく名付けられずにいた。
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