インフレーション・プロトコル

咲花楓

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タキオン

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 量子論的に、世界は僕の目の前で変容して見せる。もはや形も保てない不可思議なアノマリーと化していた。これでも世界はまだ廻り続けているらしい。
 あれから体感として何十年、いや、もしかしたら既に数百年が経っているのかもしれない。
 僕はこの終らない螺旋状の夢の中で、熱量の勾配に身を任せていた。何もわからないけど、わからないなりに世界に従いたかったからだ。
 戻ろうとはした。けど、どうやら不可逆的なもののようだった。覆水盆に返らず。溢れ出たエントロピーはきっと元には戻れない。それは、彼女を探して夢の「外側」へと漕ぎ出した僕も同じなようだった。
 ふと見上げた空は、まるで僕を囲むように同じところを廻り続ける。無限に広がる空なんて、これを見てしまったら信じられそうにない。まるで、いつか見たドーナツのようだ。
 ドーナツ。そうだ、思い出した。
 円環の中心から遠ざかるたびに蘇る記憶は、いつかの僕たちを鮮明に映し出す。
「ドーナツってさ、終らないじゃん。」
 いつものカフェ、いつもの温度。そこに隠れていた差異に、僕は気付くことができなかった。
 コーヒー代を置いて出て行ったそのあとから、何故だか返ってこない彼女からの返信を疑うことができなかった。
 突然知らされた彼女の死を、

「……そう、だ」

 受け入れることが、できなかった。
 「いつも」に偽装した円環に囚われる前の、最後の記憶。私は、静かにいなくなる彼女の気配を否定したはずだった。

「もう、あいつは」

 足を止める。これ以上、進む気にはなれなかった。
 そんな僕を、不可逆的流動体が遮る。世界は既に溶けていた。きっともうここは「外側」。
 時間も空間も因果も、何もかもが意味を為さない次元。真っ逆さまに落ちた僕が引き籠るのに最適な異次元。
「もういっそのこと、ここで久遠の時を過ごそうか。」
 円環も螺旋も熵も特異点も全て捨てて、世界ではないここに閉じこもってしまおうかとさえ思った。つくづく、僕はダメな人間だと感じる。

「あなたは、夢を見ているの?」
 突然、そんな声が痛いくらいにフラッシュバックした。いや、ずっと前から鳴り響いていたのかもしれない。
 そう、これは夢。深くて浅くて淡くて、終らない夢。
 その中心にいるのは君。この世界は、君でできている。

「この世の理に、逆らえる?」
「できるさ。」
 なんて、自分で答えたんじゃないか。
 そもそもどうして僕はエントロピー遊泳を始めた?共に増大すれば、高次にいる彼女と再会できるかもしれないと思ったから。
 「だったら、その手を握ってあげればいいだろ。」
 ずっと前から解っていたそんな言葉を、気付けば口にしていた。
 そう、そうだよな。
 僕は、彼女を助けるためにここへ来たんだ。
 そうして僕は一気に外側へと向かう。光の速度も、時間も超えて。

 そして僕は、終わりを見届けた。
 終わりの次に来るのは何?そう、始まり。

 この円環の始まり。

「そう、君に逢いに来たんだ。」

 手を伸ばした先には、雫を零す彼女がいた。

「やっぱり、ここにいた。」

 握った手を手繰り寄せる。
 離さないように強く握って。

「一緒に、このドーナツから出よう。」
「うん……!」

 そうして僕はまた、光を超える。
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