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目指せ寿退社?
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「そうだ、今日持って帰ってもらうあの子に名前が必要なんだけど、住野さんの好きな名をつけて」
話題を変えてくれた千種を見ると、彼はふわっと笑顔になった。
「住野さんの引き取りが無かったとしても、この子はずっとそう呼ぶことになるから、あまり攻めた名前は外してほしいな」
「そんな、責任重大な……」
「気負うようなことでもないと思うけど?」
亜希はティッシュを丸めると、床にお座りしている犬のぬいぐるみを見つめた。おっとりした顔は、女の子かなぁと思う。
「えっと、さくら……さくらちゃん」
千種は軽く頷く。
「女の子なんだ、桜も終わりそうだからいいね……春に来た子だってよくわかるし」
ももちゃんは、亜希の入院が3月の下旬だったから、そう名付けられたようなところがあった。あの年、桃の節句を家族で祝っていた頃は、まさかその後腹痛に悶え苦しみ、病院に担ぎ込まれることになるなんて、思いもしなかった。
「……写真撮ってアップしてもいい?」
さくらちゃんの愛らしい様子を見ていると、そんな気分になった。ももちゃんの過去写真の再掲は予想以上に好評だが、亜希自身が新しい写真を撮りたくなっていた。
「うん、うちの代ぬいだってことを書いてくれたら有り難いです」
「了解しました」
夕飯をきれいに平らげた亜希は、片づけは手伝わせてもらった。そして、千種が駅まで送ると言ってくれる。
「さくらが来たけど、俺も必要としてくれたら嬉しいなぁ」
だいぶ気分の晴れた亜希は、冗談めかす千種に、きちんと言いたいことを告げようと、ようやく勇気が湧いてきた。リビングを出る前に、心の中で勢いをつけ、口にする。
「あの、翌日休みが一緒の日の前の夜に、今度……泊まりに来てくれてもいいし、私がここに来てもいいし……」
千種は真顔になり、次の瞬間には、明らかに嬉しげな笑いを涼やかな目許に浮かべた。
「今月大阪に行く予定も無いし、週末は空いてる……住野さんが土曜か日曜に休みがあればってことだよね?」
「あ、私次第か」
亜希が思わず言うと、千種はくすっと笑った。
「難しければ住野さんのシフトに合わせるよ、この間住野さんの家から出勤して楽ちんで良かったから」
よく考えると、お互いが暮らす場所と勤務地との関係が、便利なのかもったいないのか微妙なところである。
「私たち、お互い逆の場所に住んでたら楽ちんなんだよね」
亜希の言葉に、今度は千種は軽く笑い声を立てた。
「こないだも言ったけど、疲れた日とか翌日早い時はここに泊まればいいじゃないか、ホテル代わりに」
「いやぁ、だからホテル代わりはいくら何でも……」
「いいよ、何なら鍵渡そうか?」
は? と亜希は声を裏返した。千種は意外にも、涼しい顔をしている。
「あ、これは性急な行動と見做されるのかな」
「一般的にはそうだよね」
「ああ……俺ちょっとこんなの珍しいんだけど、住野さんが喜んでくれそうなことなら何でもしたい欲が暴発気味かも」
千種は口許を右手で覆い、亜希の顔から視線を外した。彼の右の耳が赤くなっている。男性から世話を焼かれることがこれまで少なかった亜希も、やや戸惑う。
「あの、気持ちは有り難く受け取っておきます……ほんとにありがとう」
嬉しい思いに偽りは無かった。千種から差し出された、さくらちゃんが入ったトートバッグを受け取ろうとした亜希は、彼の手が自分の手を包み込んだことにどきりとする。
「少し冷たいね、まだ夜は冷えるから気をつけて」
千種の手もそう温かい訳ではなかったが、慈しまれていることを感じ、亜希の胸の中に満足感が広がった。
「……おかん体質」
亜希はふと頭に浮かんだ単語を口に出す。いつぞやの休憩中に、レジのベテランパートさんが、きょうだいの面倒見が良く家事も手伝う息子について評した言葉だった。
「大西さんはおかん体質なのね」
玄関で千種を見上げ、亜希はちょっと笑った。すると彼は僅かに口をへの字にした。
次の瞬間、千種がふっと顔を近づけたと思うと、唇に温かいものが押しつけられた。亜希が驚き肩をぴくりとさせると、その柔らかい感触はすぐに離れた。
「……おかんじゃない」
呟いた千種はスニーカーに足を入れ始める。ああそうか、ごめんなさい。亜希は言葉にできないまま、自分もスニーカーを履いた。頬が熱かった。
話題を変えてくれた千種を見ると、彼はふわっと笑顔になった。
「住野さんの引き取りが無かったとしても、この子はずっとそう呼ぶことになるから、あまり攻めた名前は外してほしいな」
「そんな、責任重大な……」
「気負うようなことでもないと思うけど?」
亜希はティッシュを丸めると、床にお座りしている犬のぬいぐるみを見つめた。おっとりした顔は、女の子かなぁと思う。
「えっと、さくら……さくらちゃん」
千種は軽く頷く。
「女の子なんだ、桜も終わりそうだからいいね……春に来た子だってよくわかるし」
ももちゃんは、亜希の入院が3月の下旬だったから、そう名付けられたようなところがあった。あの年、桃の節句を家族で祝っていた頃は、まさかその後腹痛に悶え苦しみ、病院に担ぎ込まれることになるなんて、思いもしなかった。
「……写真撮ってアップしてもいい?」
さくらちゃんの愛らしい様子を見ていると、そんな気分になった。ももちゃんの過去写真の再掲は予想以上に好評だが、亜希自身が新しい写真を撮りたくなっていた。
「うん、うちの代ぬいだってことを書いてくれたら有り難いです」
「了解しました」
夕飯をきれいに平らげた亜希は、片づけは手伝わせてもらった。そして、千種が駅まで送ると言ってくれる。
「さくらが来たけど、俺も必要としてくれたら嬉しいなぁ」
だいぶ気分の晴れた亜希は、冗談めかす千種に、きちんと言いたいことを告げようと、ようやく勇気が湧いてきた。リビングを出る前に、心の中で勢いをつけ、口にする。
「あの、翌日休みが一緒の日の前の夜に、今度……泊まりに来てくれてもいいし、私がここに来てもいいし……」
千種は真顔になり、次の瞬間には、明らかに嬉しげな笑いを涼やかな目許に浮かべた。
「今月大阪に行く予定も無いし、週末は空いてる……住野さんが土曜か日曜に休みがあればってことだよね?」
「あ、私次第か」
亜希が思わず言うと、千種はくすっと笑った。
「難しければ住野さんのシフトに合わせるよ、この間住野さんの家から出勤して楽ちんで良かったから」
よく考えると、お互いが暮らす場所と勤務地との関係が、便利なのかもったいないのか微妙なところである。
「私たち、お互い逆の場所に住んでたら楽ちんなんだよね」
亜希の言葉に、今度は千種は軽く笑い声を立てた。
「こないだも言ったけど、疲れた日とか翌日早い時はここに泊まればいいじゃないか、ホテル代わりに」
「いやぁ、だからホテル代わりはいくら何でも……」
「いいよ、何なら鍵渡そうか?」
は? と亜希は声を裏返した。千種は意外にも、涼しい顔をしている。
「あ、これは性急な行動と見做されるのかな」
「一般的にはそうだよね」
「ああ……俺ちょっとこんなの珍しいんだけど、住野さんが喜んでくれそうなことなら何でもしたい欲が暴発気味かも」
千種は口許を右手で覆い、亜希の顔から視線を外した。彼の右の耳が赤くなっている。男性から世話を焼かれることがこれまで少なかった亜希も、やや戸惑う。
「あの、気持ちは有り難く受け取っておきます……ほんとにありがとう」
嬉しい思いに偽りは無かった。千種から差し出された、さくらちゃんが入ったトートバッグを受け取ろうとした亜希は、彼の手が自分の手を包み込んだことにどきりとする。
「少し冷たいね、まだ夜は冷えるから気をつけて」
千種の手もそう温かい訳ではなかったが、慈しまれていることを感じ、亜希の胸の中に満足感が広がった。
「……おかん体質」
亜希はふと頭に浮かんだ単語を口に出す。いつぞやの休憩中に、レジのベテランパートさんが、きょうだいの面倒見が良く家事も手伝う息子について評した言葉だった。
「大西さんはおかん体質なのね」
玄関で千種を見上げ、亜希はちょっと笑った。すると彼は僅かに口をへの字にした。
次の瞬間、千種がふっと顔を近づけたと思うと、唇に温かいものが押しつけられた。亜希が驚き肩をぴくりとさせると、その柔らかい感触はすぐに離れた。
「……おかんじゃない」
呟いた千種はスニーカーに足を入れ始める。ああそうか、ごめんなさい。亜希は言葉にできないまま、自分もスニーカーを履いた。頬が熱かった。
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