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ほつれた心が縫い留められる時

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 かつて鷺ノ宮店には、6時間契約のフリーターで、午前は鮮魚、午後はレジで勤務していた男性がいた。就職が決まり辞めてしまったが、本人が楽しいと話すのを、亜希は直接聞いたことがある。

「切り替えがしっかりできれば楽しいかもね、でもチーフやそれ以上に行けないんじゃないかな」

 亜希は言った。社員だから掛け持ちが難しい部分も、大いにある。阪口はそれを聞き、出世の野望は無いですよ、と笑った。
 楠本は亜希に言う。

「住野さんはレジ事務兼任の線が濃いのかな、華村さんと一緒に大帝国を作り上げてくれ」
「次長、それ意味がわかりません……たぶん私が転勤になりますよ」

 亜希の冷めた返答に、えーやだ、と阪口は眉をハの字にした。何故だかよくわからないが、亜希は結構阪口に懐かれている。

「住野さん配達もするんだから、管理職目指したらいいじゃん」

 和田が本当に意味のわからないことを口走った。つい嫌な目で彼を見てしまう。

「免許持ってたら管理職になれるってことですか?」
「持ってるだけじゃ駄目なんだ、配達の経験が無いと」
「そんなの誰でもできるじゃないですか」

 誰でもできる訳でもないんだけどな、と楠本が笑った。

「でもほら、住野さんは結婚もしないといけないし、連れ合いに理解が無いとここの管理職はなかなか厳しいかも」
「もう次長、軽くセクハラですよ」

 阪口は言ったが、楠本は何故か強気である。

「真実の場合はセクハラとは言わないだろう? なあ住野さん?」

 亜希は楠本の問いかけをスルーしたが、内心まずいと思った。おかしいな、千種さんとこの辺を歩いてるのを見られたかな。めちゃくちゃ気をつけてるつもりなのに。
 千種とのことは、できれば川口のように、ぎりぎりまで黙っておきたい(川口は9月に結婚することを、先週遂に自分の店の店長に話したらしかった)と亜希は思っている。みだりに騒がれるのを祝福と受け取るほど、おぼこくはない。大体、千種とこれからどうするかなんて、何一つ決まっていないのに。
 いろいろ懸案はあるけれど、仕事に関しては、とりあえず流されてみようと亜希は考えている。千種と話すうちに、何だかんだ言って自分はスーパーの仕事が好きなようだとわかったからである。
 天気が怪しくなってきたからか、こんな時間なのに店内がざわめいてきたのが、カメラの映像でもわかった。和田はバックヤードに急いで戻り、楠本は売り場の様子を見に行く。亜希は阪口に、本社に返す金庫内の万券を集めておくように指示して、いつでもレジの支援に行くことができるよう、先に消耗品の在庫チェックを始めた。
 千種から、今夜自分の部屋に来てほしいと頼まれていた。こんな週の真ん中に珍しかったし、明日亜希が休みで千種は出勤なのだから、亜希の家で会えばいいのにと思ったが、千種には何か目的があるようだった。亜希さんのサイズを測らせてほしい、みたいなことを言っていたが、理由をはっきり教えてくれなかった。ああ見えて千種は、亜希を驚かせたりいたずらじみたことをしたりするのが結構好きなので、何か企んでいるのだろう。
 よくわからないが、少し楽しみである。亜希は自分の気持ちが満たされているのを感じていた。
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