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8月 3

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「暑いねぇー」

 晴夏が六本木に到着した時と同じ台詞を口にする。暁斗は何故こんなことになったのだろうと首をかしげながら、ドアを閉めてエアコンのスイッチを入れた。
 すっかりテンションの上がった晴夏と乃里子は、暁斗のマンションに来たがった。帰途が遠くなるし、今日ゴルフに行っているらしい父が、帰宅して誰も居ないと不機嫌になるだろうとさとしたのだが、乃里子は夕ご飯食べて来るって言ってたからいいわ、とあっさり返してきた。

「あら、綺麗にしてるのね」

 部屋を見回して出た母の言葉に、暁斗は苦笑で応じた。

「汚かったら掃除してくれたの?」
「程度によってはね」

 乃里子はハンカチで額の汗を拭き終わると、家で食べるつもりだったというクッキーをデパートの紙袋から出した。暁斗は呆れる。

「まだ食べるのかよ」
「いいじゃない、コーヒー淹れなさい、さっきアイスだったからホットがいいわねぇ」

 乃里子の横暴に、晴夏まで私も! と乗っかってくる。暁斗ははいはい、とため息混じりでキッチンに向かい、やかんに水を入れる。
 よく考えてみると、この部屋に家族が来るのは引っ越しの日以来だった。友人を呼ぶこともまず無いし、何だかんだで一番ここを訪れている他人が奏人だという事実に、軽い驚きを覚える。

「ここ誰か来るの?」
「誰が来るんだよ、こんなとこに」

 リビングから晴夏が訊いてきたが、暁斗は軽く嘘をつく。妹は何を訊きたいのかとちょっともやっとした。

「蓉子ねえさん、再婚するかもって」

 やはりそういう流れになるか。暁斗は胸のうちで納得した。

「ああ、品川で会った時本人から聞いた」

 晴夏にも再婚話をしていると知り、自分とは縁が切れたのに妹とは繋がっている蓉子の存在そのものを、不思議に思う。晴夏は暁斗一人に茶の支度を任せておけないと思ったのか、ダイニングにやってきた。そして訊く。

「何とも思わないの?」
「よかったと思ってるよ」

 本心から答えたが、晴夏は何となく物足りなさそうな顔をした。

「品川で話したのってそれがメイン?」

 晴夏はテーブルに出された暁斗のマグカップと、柄も大きさもばらばらの粗品のマグカップの縁に、簡易ドリップのコーヒーを引っ掛けた。

「それを含む近況報告ってとこかな」
「池袋でお兄さんを見かけて懐かしく思ったのかしらね」

 晴夏はその話にこだわる。

「俺に訊くな、おまえから蓉子に訊けばいいじゃないか」
「……復縁したいって言うのかなって思ったの」

 暁斗はガスを止めて、やかんの湯を3つのドリップに少しずつ注ぐ。良い香りがダイニングに満ちていく。晴夏はそんなことを期待していたのかと、複雑な気持ちになる。

「もし蓉子にそう言われたとしても俺は断ったと思う」

 だって、と続けそうになったが、暁斗は言葉を切った。そう? と晴夏は口を尖らせた。兄二人の下で一人だけ女の子であることは、彼女に女きょうだいへの美化と憧れを植えつけた。星斗の妻はあまり桂山の家に寄りつかないので、蓉子は理想の姉だったのだろうと暁斗は考える。

「義姉としてじゃなく友人として蓉子とこれからもつき合えばいいじゃないか」

 そうなんだけどね、と晴夏は小さく言いながら、暁斗の指差した棚からコーヒーフレッシュと砂糖の入った瓶を出した。3つのマグカップと3本のスプーンと一緒に、それらを盆に乗せる。
 その時、玄関のチャイムが鳴った。暁斗は基本的に、心当たりの無い訪問者は無視している。晴夏が出ないのかという顔でこちらを見るので、暁斗はいい、と応じた。
 ところが、鍵を開ける音がして、玄関のドアがゆっくりと開いた。晴夏はえっ! と小さく叫び、手にした盆を揺らした。暁斗も驚いてそちらを見る。

「こんにちは、早く終わったから来ちゃった」

 顔を覗かせたのは、笑顔の奏人だった。暁斗は驚愕きょうがくのあまり失語する。あわてて見た壁の時計は16時半を指していた。……早過ぎるだろう! 奏人は玄関に足を踏み入れ、見たことのない女の姿に目を見開き、足元を見て来客が2名あることを確認した。彼は動揺する風もなく言った。

「お客様? じゃ出直しますね」
「いや、ちょ、……おい晴夏、コーヒー、それ母さんとこに持ってけ、冷める」

 暁斗は動揺のあまりどもりながら晴夏に指示する。奏人は来客が暁斗の肉親だと理解して、さすがに顔から笑いを消した。
 晴夏は合鍵を持ち、主婦のようにスーパーの袋片手に入って来た若い美形の男子にあ然として、盆を持ったまま立ち尽くしていた。乃里子が異変を察したのか、リビングから出てきて、奏人の姿にあら、こんにちは、と驚き混じりに言う。奏人は買い物袋を手に提げたまま、折り目正しくこんにちは、と頭を下げて挨拶した。その声には困惑が滲んでいる。

「もう、お客様の予定があるなら先に言いなさいよ」

 乃里子は暁斗に苦笑を向けて言った。奏人はいえ、僕が早く来過ぎたんです、と思わずという風に応じた。
 暁斗はやはり焦っていた。さっき晴夏に、自分は男しか愛せないから蓉子との復縁は無いと言おうとした勇気が、一瞬で霧散した。隠す気はない、でもまだ早い、今じゃない。

「ああそう、彼が、あの絵の……」

 暁斗は苦し紛れに2人の女にひきつり笑いを向けた。乃里子がそうなの? と先に反応し、笑顔になった。

「あらあら、早く上がって貰いなさいな、今ちょうどお茶にしようとしていたんですよ、お話がしたいわ」

 誰の家だかわからない対応をしながら、乃里子が奏人に部屋に入るように促す。奏人は戸惑い気味に、ようやく靴を脱ぎながら、暁斗に言った。

「六本木に観に来てくださったの?」
「今日3人で行ってきたんだ」

 奏人もぱっと笑顔になった。暁斗はつい見惚みとれてしまう。晴夏は解せないという顔をしたまま、母親に続いてリビングに向かった。奏人から買い物を受け取り、暁斗が要冷蔵品を冷蔵庫に入れていると、リビングからこちらを伺う晴夏の不審げな視線が痛い。2人と奏人だけにしておくのは危険なので、暁斗もリビングに向かった。3人は自己紹介を始めていた。

「あきちゃん、高崎さんのコーヒーが無いわよ、気が利かないわねぇ……これで営業の課長が勤まるんだから、この人の会社もどうなのかしらね」
「桂山さんは会社でたくさんの人から信頼されてらっしゃいますよ、取引先にも本社にこもってないで顔を見せろって言われてるようですし」

 乃里子は奏人が暁斗の仕事上の知り合いであると思い、そのように話しているようだった。それに対し奏人は、覚悟を決めたのか、平静に母の相手をし始めた。その肝の太さが、やはり暁斗には恐ろしい。晴夏が口を挟む。

「でも高崎さん、わざわざ兄の部屋までいらっしゃるなんて、随分……親しいというか」
「ええ、その……実は春に桂山さんが僕の前で体調を崩してしまったことがあって……お送りしたので」

 まあ! と乃里子が小さく叫ぶ。暁斗は麻疹で倒れたことを、実家には報告していなかったので、焦りが増す。大急ぎであと一杯コーヒーを作り、リビングに戻る。

「はしかで寝込んだんだ、言ってなかったけど」
「それで合鍵を渡してるの? ……ちょっとよく分からないんだけど……」

 晴夏は明らかに不審を表情に出し、奏人にマグカップを渡す暁斗に尋ねた。乃里子もえ? と言い、二人を見比べる。
 場を支配した変な空気に、奏人が先に諦めた。小さく息をついて、暁斗を見上げる。3秒の沈黙の後、静かだがはっきりと言った。

「すみません、僕ここに時々泊まってます」
「そう、ルームシェア? とは言わないか」

 乃里子は呑気に応じたが、晴夏は奏人の言いたいことを察して、口をあんぐりと開けた。暁斗がそんな晴夏を見たのは彼女が高校生の時以来で、その顔に普段の彼女から想像出来ない可愛らしさがあったので、場にふさわしくない笑いが込み上げそうになった。

「お兄ちゃん……っ、それどういうことなのよっ‼」

 晴夏は顔を真っ赤にして叫んだ。乃里子はびっくりして、奏人にクッキーを勧めようとした手を止める。暁斗は笑いを引っ込め、修羅場になってしまったことを悟った。

「晴夏何なの、何を大声出してるの」
「お母さん分かんないの、この人お兄ちゃんと……」

 晴夏は奏人を見つめてますます顔を赤くした。そして叫んだ。

「お兄ちゃんが変態になっちゃったあっ!」

 暁斗はその言葉が看過かんか出来なかった。

「変態って何だよ、撤回しろ!」
「変態じゃない、あり得ない!」

 晴夏は母親の腕を掴んで揺すった。

「いつからお兄ちゃんこんなことになったの、お母さん知ってたの⁉」

 乃里子は流石さすがに意味を理解したらしく、暁斗と奏人の顔を順に見た。そして呆然とした。

「あきちゃん……だから蓉子さんとうまく行かなかったの?」

 この質問を受けるのは何度目だろう。これからも何度となく、同じことを答えなくてはいけないのだろうか。暁斗はひとつ深呼吸をしてから答えた。

「結果的にそうだ、蓉子と別れる時には俺まだ気づいてなかったんだけど」

 母は暁斗が見たことのない、緊張した顔をしていた。

「そう……高崎さんはずっと……男の人が好きな人なの?」

 奏人は訊かれて、はい、とはっきり答えた。

「僕が暁斗さんを変態の道に目覚めさせました」
「奏人さんまで変態って言うなよ!」

 暁斗は言う。乃里子は思案顔になり、晴夏は泣き出しそうである。山中穂積もこんな場面を経験したのかと、絶望混じりに思い至る。家族に変態扱いされるのは、本当にショックだ。
 しかしこうなった以上、二人には全てをきちんと話さねばならない。

「とにかく奏人さんと俺はそういう関係なんだ、黙ってて悪かった……蓉子にも話した、本心はどうかわからないが理解を示してはくれたと思う」
「蓉子ねえさんが可哀想じゃない!」

 暁斗は晴夏の言葉に胸が痛んだ。動揺のせいもあり、いつになく早く頭に血が昇る。

「そんなことおまえに言われなくても分かってるよ!」

 言葉が尖った。晴夏が顔を歪めたので、奏人が暁斗をたしなめるように、腕に手を触れた。

「気づかなかったのは暁斗さんの罪じゃないです、僕は暁斗さんが蓉子さんと幸せな家庭を築きたいと考えていたのにそう出来なくて、自分を責めていたのを知っています」

 奏人の言葉に、晴夏は俯いた。乃里子は突然の息子のカミングアウトに動揺しつつも、何とか自分の気持ちを静めようとしているように、暁斗には見えた。

「……そうなのよねえ、考えてみればそうだったわ」

 乃里子はしみじみと、奏人に向かって話した。

「暁斗と晴夏の間にもう1人男子がいるの、その子……弟は年頃になると、ほらね、エッチな本をベッドの下に隠したり、部屋に勝手に入るなって怒ったりしたの、……暁斗はそれが無かったから下の子が心配になって主人に話したのね、そしたら主人は暁斗のほうがおかしいんじゃないかって」

 奏人は黙って頷く。暁斗は父からおかしい子呼ばわりされていたと初めて知り、それにもショックを受ける。それに何故その時、父も母も自分に何か言ってくれなかったのか。

「せい兄ちゃんはスケベだよね、割と彼女も取っ替え引っ替えしてたもん」

 晴夏は怒ったように言う。星斗がそんなにいろんな女性とつき合っていたことも、暁斗は良く知らなかった。兄弟仲は良いと思うが、そんな話をあまりしなかった……もしかしたら、星斗は自分に話したいこともあったかも知れないのに、自分が男女交際に興味が無くて、スルーした可能性もある。家族に言われて、奏人はああ言ったものの、暁斗は気づかなかった自分にやはり罪があるような気がした。

「私はだからあき兄ちゃんのほうが好きだったのに……そもそも女に興味が無かっただなんて」

 晴夏の言葉に暁斗は複雑な気持ちになる。晴夏は蓉子のみならず、自分にも理想の兄の姿を見ていたようだ。それに応えてやれなくなったことが申し訳ないと感じる一方で、奏人を好きなことが何故彼女の理想とたがうのかが分からず、腹立たしい。

「僕が言っても説得力が無いでしょうけど……晴夏さんの好きなお兄さんと今のお兄さんに何一つぶれは無いですよ」

 暁斗の気持ちを察したかのように、奏人は静かに言った。晴夏は少し冷静になってきたようで、乃里子に至っては奏人の言葉に感動したような表情になった。暁斗は、自分が奏人に魅了されるアンテナの種類のようなものが、この母親譲りであることに、こんな場面で気づかされた。

「そうよはるちゃん、高崎さんのおっしゃる通りだわ、ほんとにあなたも何も知らない小娘じゃあるまいし……」

 乃里子はまだ沈んだ表情を消さない娘に構うのをやめて、奏人に出展した絵のことをこまこまと尋ね始めた。彼女がそれを目的にそんな行動に出た訳ではなかっただろうが、場が少し和み、みんなが冷めたコーヒーに口をつけ始めた。暁斗は母と奏人のやり取りを聞いて、ほっと身体の緊張を緩め、修羅場の殺伐感とは打って変わった温かな気持ちになるのを感じた。

「じゃああと2人のモデルのかたも、高崎さんにとって大切な人なのね?」
「はい、水彩の男性は故人ですけれど」
「そうなの……私も絵を見てぴんと来るべきだったわね、暁斗は私たちにあんな顔見せないのよ、うふふ」
「偶然渋谷で会って、ちょっと困りごとを手伝ってもらった時の絵なんです、お茶に誘われて……何だか嬉しそうな顔してるなあって印象的で」

 奏人の言葉に乃里子がにやにやしながらこちらを見た。暁斗は反射的に目をらす。

「そうね、この人そういう可愛いところがあるのよ、よく食べるし割と寂しがりだから世話がかかるけどよろしくね」

 乃里子の言葉に奏人は否定もせず笑う。暁斗は自分が犬で、譲渡会に出されているような気分になってきた。
 晴夏はちらちらと奏人の様子を伺い、黙ってクッキーを食べていた。暁斗はふと、蓉子を初めて実家に連れて行き、家族に紹介した時のことを思い出す。11年前、あの日も晴夏は、こんな風に蓉子を観察していた。兄がパートナーとして選んだ人。自分のそばから兄を連れて行ってしまう人――。暁斗は5歳下の妹を可愛がった。星斗がどちらかというと、妹につきまとわれるのを面倒がったので、余計だったかもしれない。それが晴夏に、彼女自身が感じている以上に、暁斗への愛着を植えつけた……今更ながらそんな気がする。

「びっくりさせたのは悪いと思ってる」

 暁斗は母と奏人を横目で見ながら妹に小さく言った。

「でも変態とかマジでへこむからやめて」
「ごめん、だってまさかのことでめちゃくちゃ取り乱したから」

 晴夏は疲れたように言う。そして、乃里子の話ににこやかに相槌を打つ奏人に視線をやりながら、訊いてきた。

「……高崎さんって私より5つ下ってことよね」
「うん」
「しっかりしてるよね」
「……俺なんかよりずっと苦労してるからな」

 暁斗は奏人のきれいな横顔を見ながら答えた。

「お兄ちゃんがいつも甘えてるの?」
「そんなことないぞ、あっちが甘えてくることもある」
「ふうん……そういう時可愛いとか思う訳?」

 暁斗は黙って頷く。変態なんだから、当たり前だ。晴夏は苦笑した。

「すぐに理解してくれとは言わない、とりあえず慣れて」

 晴夏は兄の言葉に、少し間を置いてから、小さく頷いた。心臓が打つ速さはまだ戻らないものの、暁斗は胸を撫で下ろす。家族の理解を得るには、悪くない滑り出しなのだろうと思った……そう思いたかった。
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