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8月 2

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 夜明けからうるさい蝉の鳴き声が、少し変わった気がした。とは言え今日も暑そうだ。暁斗は窓を閉めて、熱帯の昼間をやり過ごすべくエアコンをつける。一緒に過ごすべき相手がいない者にとっては、お盆休みなどあっても無くてもいいなと、独りになってから感じる。実家に戻り、墓参りに行っておきたい気もするが、少し面倒くさい。
 仕事のデータを自宅に持ち帰るのは基本的に禁止されているので、暁斗は手持ち無沙汰な連休を強いられていた。暑いし、いっそ会社で過ごしたいくらいだ。奏人は本業が連休ではなく、副業も忙しいようで、お盆中に2泊くらいしに来て欲しいという暁斗の淡い希望を叩き壊してくれている。
 新聞を読み終わると、タイミングを見計らったようにスマートフォンが震えた。奏人からかと期待したが、LINEは妹の晴夏からだった。

「あきにい暇? 昼から都会に出るから茶につき合ってとお母様がリクエストなさってます」

 確かに暇だが、母親と妹の買い物と喫茶につき合うとは、なかなかわびしい盆休みである。
 晴夏は母親の乃里子のりこと仲が良い。兄二人が家から出て行き、家が広くなって二人で自由に息をしているかのようだ。父も定年して2年を過ぎ、学生時代の同級生と飲み食いしたり会社の定年組とゴルフをしたりして、悠々自適だ。
 ふと暁斗は思いついた。急いで会場のホームページを確認し、晴夏に返信する。

「知人が六本木のギャラリーに絵を出してるんだけど、観る気無い?」

 暁斗は奏人から受け取った白いチケットをファイルから出した。開催は3日前からだった。お盆期間もギャラリーが開館しているあたり、動員を期待しているのだろう。

「どんな絵? わけわからない系は私もお母さんも遠慮したいけど笑」
「大学の美術部の展覧会だから訳わからない絵ばかりとかではないと思う」

 暁斗はチケットの写真を撮って、そのまま送付した。晴夏からおお、という文字と驚くペンギンのスタンプが送られてきた。

「あきにいこんなステキな大学に知人いた?」
「アーメン系がステキだって意味なら俺の大学もそうだけど」
「いやあ偏差値加味しましょうや笑笑」

 暁斗は一人で憮然ぶぜんとした。暁斗の母校だって歴史あるミッション系で、悪くない学校である。晴夏は暁斗の大学と、レベル的にひとまとめにされる大学の中の一つを、本人いわく結構良い成績を修めて卒業している。
 くだらないやり取りをしながら、13時に六本木で待ち合わせることを決めた。



「暑いねえー」

 晴夏と乃里子は、時間ちょうどに指定したメトロの出口にやって来て、口を揃えた。昼前に出て来て買い物をしていたとかで、服の入っている紙袋を一つずつ持っている。
 晴夏とのやり取りが一段落したあと、移動中だという奏人からLINEがあった。暁斗の都合が悪くなければ、今夜仕事が済んでから大森に来てくれるという。二つ返事で了承して、暁斗はすこぶる上機嫌だった。ケーキでもパフェでもパンケーキでも、妹と母に好きなものを食べさせてやろうと思う。

「ギャラリーの入ってるビルの1階におしゃれなカフェがあるみたいだ」
「早く行きましょ、楽しみ」

 絵かケーキかどちらに向けられた言葉なのかはよく分からなかったが、乃里子は楽しげだった。彼女は博物館や美術館が好きな人なので、半分素人たちの絵だとは言っても、そこそこ喜んでくれるだろう。
 この辺りは店があるので閑散としている訳ではないが、オフィスは休みのところも多いので、普段ほどの賑わいは無い。歩きやすくていいね、などと言いながら、3人でギャラリーのあるビルに入って行く。涼しい風にほっとする。大きなエレベーターには他にも客がいて、同じく7階で降りる。展覧会は盛況のようだ。

「たぶんローカルニュースで紹介してた」

 晴夏は案内に従って歩きながら言った。暁斗は素直に驚いた。

「へぇ、プレスリリースするんだ、凄いな」

 広々とした入り口の会場に着くと、乃里子がまあ、と感嘆の声を上げた。想像していたより大規模な展覧会である。客もそこそこ入っている様子だ。暁斗は奏人から預かったチケットを学生らしき女性に渡し、半券を受け取って芳名録に名前を書いた。晴夏と乃里子もそれに続く。
 晴夏と乃里子は慣れた様子で入り口に掲げられた複数の挨拶文を見上げ、順路に従い進む。卒業生と現役生合わせて60余名が計83点の作品を出しているという。作品は世代別に並べてある。暁斗は白い壁に均等なスペースを取りながら並んだ、色とりどりで様々なタッチの絵が並ぶ光景に見惚みとれる。

「すごいわね、プロになった人もいるのね」

 中には卒業後に絵を学び直し、画家として活躍しているOBもいる。乃里子は感心しっ放しである。暁斗が大学生の頃、彼女はテニスの試合に一度しか来てくれなかったが、文化系のクラブに入っていれば、もっと楽しんで貰えたのだろうかと苦笑した。
 コーナーの隅に座り、作品に手を触れるような者がいないか見ている男子学生と目が合った。暁斗はすぐに並ぶ絵に視線を戻したが、その学生が巡回している別の学生に声をかけ、その子も暁斗のほうをちらりと見た。何なのだろうと、暁斗は思った。

「お兄さんの知り合いはどの辺の学年な訳?」

 晴夏に訊かれて、自分の10歳下ということは……と、奏人の卒業年を数える。

「もっと先じゃないかな」
「あら、随分若い人なのね」

 乃里子は奏人の絵を見たがった。先に何処に展示されているのか、確認しておくことにした。

「この辺になるのかな」

 会場の角を曲がると、学生らしき若者たちが3人固まって、小声で話していた。暁斗たちが足を進めると、そのうちの一人の女の子が、明らかに暁斗を見てあ、と声を立てた。

「……あの子何でお兄さんを見て驚いてるの?」

 晴夏が不審げに呟いた。乃里子が笑いながら続ける。

「あら、こっちに来るわよ、あきちゃん何か悪いことしたんじゃないの?」
「何でそうなるんだよ」

 久しぶりに母からあきちゃんなどと呼ばれたこともあり、暁斗は戸惑った。

「失礼します、いきなりすみません、あの……高崎さんのお客様でいらっしゃいますよね?」

 こちらに来た女子学生は丁寧に話しかけてきた。さすがこの大学の学生だと暁斗は思った。しかし何故分かったのだろう。

「はい、そうですが……」

 暁斗を見上げていた女子学生はやっぱり、と目を輝かせて、後ろの仲間を振り返った。

「高崎さんの絵のモデルがいらっしゃいました!」

 彼女は美術ギャラリーの中にしては大きな声で言った。後ろの2人は感嘆のような声を上げて、何処かへぱっと散って行った。

「ちょっとお兄さん、これ何なの?」

 晴夏は目をぱちくりさせている。女子学生は再度失礼しました、と言い、こちらです、と暁斗たちを導く。彼女はもうひとつ部屋の角を曲がって、笑顔で壁を示した。
 そこに飾られていたのは、3枚の大きさの違う絵だった。しかも3枚ともタッチが違う、人物画だった。一番大きな、しっかりとした油絵に描かれた青いセーターの女性を暁斗は知っていた――神崎綾乃。パステルのような小さな水彩画には、ベッドに横たわる痩せた老人が描かれていた。暁斗はそれが西澤遥一だとすぐに分かった。暁斗の買った本に、少し若い西澤の顔写真が載っており、その面影がある。そして中くらいの、正方形のビビッドな絵の中に、暁斗は微笑するスーツ姿の自分を見た。

「うっそ、お兄さんだ」

 晴夏は右手の指先を口許にやった。続けて乃里子が興奮した声を上げる。

「まあ、あなたモデルになったなんて一言も言わずに私たちを連れてきたりして、いやあねぇ」

 暁斗は思わず二人に聞いてないから、と言った。

「聞いてらっしゃらなかったんですか?」

 女子学生までが声のトーンを上げて訊いてくる。遠巻きに若い子たちがこちらを伺っていた。美術部の部員たちなのだろう。

「いや、観に来てくれとしか言われてなくて」

 暁斗は気恥ずかしくてこの場から逃げ出したい思いにさいなまれながら、彼女に話した。部屋に足早に男子学生が入ってきて、女子学生の横に来た。彼は暁斗に頭を下げて、美術部の部長だと自己紹介した。

「お騒がせして申し訳ありません、高崎先輩の絵があまりに我々の間でセンセーショナルだったものですから……絵に似た方が来られたと皆浮き足立ちまして」
「あ、そうでしたか……」

 確かに奏人の絵には引力のようなものがあった。作者の名前と卒業年が書かれたキャプションには、現役時代に賞などを受けた場合、それが記載されているようだったが、奏人の名前の下には2度の受賞が記されていた。

「高崎さんはうちの部のレジェンドのうちのおひとりなので」
「今はほとんど描いてないと聞きましたが」
「ええ、今回も最初お断りされたんです、でもOKしてくださって……それでこれだけのものを出して来られました」

 暁斗は奏人の化け物ぶりをまた目の当たりにして、改めて空恐ろしくなる。

「これ……背景は何処ですか?」

 女子学生が尋ねてきた。暁斗は絵の中の自分の左手に、古い木の棚と、その中に飾られたマグカップなどが描かれているのに気づいた。あの店か。

「渋谷の喫茶店です、偶然奏……高崎さんと会って、お互い外回りの途中で時間があったから一緒にコーヒーを飲んだんです」

 女子学生は、その時スケッチした訳じゃないですよね? と続ける。

「ええ、話をしただけでしたよ」
「行きつけてらっしゃる?」
「私は気に入っている店ですが、たぶん高崎さんは初めてだったと思います」

 既に懐かしささえ覚える思い出だった。あの日暁斗は初めて、奏人の本名と、普段何をしている人物なのかを知った。

「凄いね、瞬間記憶能力とかあるのかな」

 部長が女子学生に言い、暁斗に向き直る。

「複数枚描いてくださった方は他にもいらっしゃるんですが、全て違う作画をされたのは高崎さんだけです……しかもこれ、イラストレータ使ってると思うんです」

 部長は暁斗が描かれた絵を見ながら言った。暁斗は、自分には一生縁が無さそうなソフトの名を聞いて、SEの奏人なら使いこなすだろうと思った。

「現役時代にこういう絵は見たことがないって、高崎さんの一年上の方がおっしゃってました……賞を取ったのも風景画だったと」
「まあ、久しぶりに描いたのがこの方には珍しい人物画で……油彩と水彩とパソコンってことなのね?」

 乃里子が横から言った。部長が我が意を得たりという表情で頷く。彼女には奏人が現役部員をうならせることをしたと理解できるようだった。

「高崎先輩とはどういうお知り合いなのですか?」

 女子学生に訊かれて、暁斗は定番になった嘘を語る。相手が学生だと、少し罪悪感があった。

「これほんとに素敵だと思うんです、3枚ともモデルの画家への好意みたいなのが感じられて……私の主観ですけれど」

 3枚全ての絵が、こちらに――つまり奏人に視線を向けていた。神崎綾乃は事務室のような部屋でティーカップを手にしていて、ありふれた光景なのに、まるでヨーロッパの王族の肖像画のような威厳と慈悲深さのようなものがある。西澤遥一は病室の窓を背にして、痩せ衰えているにも関わらず表情に知性が伺え、今にも何か話し出しそうだった。この現役生たちは、あとの2枚の絵のモデルに会ったとしたら、きっともっと驚くに違いない。そしてこの女子学生が感じ取ったものは、真実だった。3枚の絵のモデルは、いずれも画家に深い愛情を抱いている。
 暁斗は結局、芳名録にサインするだけでなく、名刺まで置いて帰る羽目になった。晴夏もついでのように名刺を学生たちに渡し、母は息子と娘の、休日にまで名刺を持ち歩いている社畜ぶりを嘆いた。
 80枚あまりの絵を観るのに2時間近くかかり、歩き疲れた晴夏と乃里子は、ビルの1階の小洒落たカフェで大きなシフォンケーキをそれぞれ注文し、非常に満足した様子だった。暁斗は今夜奏人が来たら、まず勝手に絵のモデルにして肖像権を侵害した件で苦情を申し立てようと、胸のうちで笑いながら考えた。

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