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9月 9

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 部下たちの報告を聞いてほぼ残業もせず帰宅すると、暁斗は次々と湧く不安にさいなまれ始めた。2課がこじらせた取引先の件は、手島が行くと答えたので、谷口ではなく岸にねじ込んだ。岸はその会社のことをよく覚えていて、取り引きを切ることは許さんと言いながら、大胆な提案をして来た。自分が行くとしておいて、暁斗が実際は行けばいい。
 後でそんなことは絶対に谷口にも三木田にも知れるだろうから、営業部に禍根を残すかも知れない。そもそもそれ以前に、今朝起こったことの状況が今ひとつよく分からなかった。手島は、生意気な口を利いたとは思うが、三木田の言うような「説教」なんてできる訳がないし、社長がそんなに怒ったとは思えなかったと話したという。しかししばらく来ないでくれと電話があったのは確かだった。
 暁斗の晩酌は缶ビール4本目になっていた。酒が入れば眠れるようだと分かったから、軽い夕飯に過ぎたアルコールを摂取していた。もう一つの懸案は、帰宅途中に送ったLINEの返事が、晴夏から来ないことだった。既読スルーなんて、彼女からされたことが無いので、やはりもやもやする。対して母はすぐにメールをくれた。奏人の副業と、暁斗がそれを通じて彼と知り合ったことに驚かされたけれど、奏人にはそんな仕事をしなくてはならない事情があるのだろうし、暁斗が悩んだ末に風俗店を使ったのだろうから、どうこう言おうとは思わないと書いていた。
 とにかく一日一日をやり過ごすのが大儀だった。いつまで続くのだろう。そのうち少しはこんな状態にも慣れるのだろうか。そうでないのなら……性的少数者として生きるのは、ほぼ地獄ではないのか。
 弁当のパックとビールの缶を片づけてから、暁斗はもう1本缶チューハイを冷蔵庫から出して、リビングに戻る。新聞を開くと、いきなり眠くなって来た。チューハイをふた口飲んで、抗えずソファに足を上げてしまう。
 眠ってしまうほうがいいかも知れない。リモコンに手を伸ばし、テレビを消して明かりを一つ落とした。瞼が酷く重かった。



 また奏人の夢を見た。彼は足音を立てずに、寝転がっている暁斗のそばにやって来た。目を閉じていても、その気配が奏人のものだと何故か分かった。冷たい指先が頬に触れる。夢の中でも気持ちよかった。
 暁斗さん、と小さな声が聞こえて、暁斗は目を開き奏人の顔を見たいと思ったが、瞼が上がらない。今夜は奏人が傍に来てくれたのに、自分が身動き出来ないなんて。やがて脇の下に腕が差し入れられて、鎖骨の辺りに柔らかいものが触れた。甘い香りのする髪。わずかに奏人の身体の重みを感じた。抱きしめたいのに、やはり暁斗の身体は動かなかった。

「かな……」

 声が出た気がした。ひんやりした手が左の頬を包み、右の頬に柔らかく温かいものが押しつけられた。その生々しい感触に、身体の奥が熱くなる。こんな夢を見たら、絶対目覚めてから自慰しなくてはいけなくなる。そんなに欲求不満になっていたのだろうか。でも目を覚ましてしまったら、この愛おしい幻もかき消えてしまうだろう。

「暁斗さん、起きて……風邪ひくよ」

 暁斗は言われて目を開いた。視界に飛び込んできたのは、長い睫毛に縁取られた黒い瞳だった。驚いてえっ、と声が出ると、唇を塞がれた。これは奏人の姿をしたあやかしなのか。暁斗は混乱しているのに、その唇の感触に痺れてしまう。ああもう、何でもいい。奏人だと信じ込ませてくれるならば、妖でも悪鬼でも。

「駄目だよ、お酒飲んでふて寝なんて……眠れないの?」

 暁斗は唇を解放されて、ようやく自分の身体にのしかかっているのが、奏人その人だと認識した。彼は微笑し、暁斗は信じがたくてどうして、と小さく言った。

「きつい思いをしてるんじゃないかと思って」
「奏人さん……」

 身体が勝手に反応した。細い肩を力任せに抱きしめ、腕の中に取り込んだ。甘い匂いを胸いっぱいに吸い込む。まだぼんやりしていた頭の中が完全にホワイトアウトした。奏人はあ、と声を立てたが、抵抗しなかった。

「奏人さん……!」

 暁斗の視界が曇った。どうやってこらえたらいいのか分からないまま、涙腺が決壊して目から熱い水が溢れ出す。奏人が少し顔を上げて、泣かないで、と言ったが、もう抑えが効かなかった。こみ上げる激しい嗚咽に胸が苦しくなるくらいだった。
 奏人は何も言わずに、暁斗の背を優しく撫でていた。みっともないとか恥ずかしいとかいう気持ちが入り込む余地が無いほど、悔しさや悲しさに頭の中を支配されてしまった。それに、寂しかった。誰にも心からは分かってもらえないこと、奏人のために何も出来ないことが。

「……大丈夫、僕はいつでも傍にいるから……ちょっと連絡取りづらくてほんとにごめんなさい、一人で頑張ってたんだね」

 暁斗の気持ちの爆発が少し収まってくると、奏人は静かに言った。

「いろいろ目処めどが立ったから、これから毎日連絡するね、僕のせいなのに無責任な言い方だけど……頑張って乗り切ろうよ」

 暁斗はまだ涙が止まらなかったけれど、奏人から腕を解いた。自分を見上げる奏人の目許には疲れが浮かんでいて、いつもすべすべしている頬に小さな吹き出物が幾つかできていた。暁斗は白い頬の赤みを帯びた部分に指先で触れて、奏人も辛いのだと感じ、新しい涙が湧いてきてしまう。

「ああ、僕は大丈夫だから泣かないで……スケジュールがきついのとあの記事に対応しなくちゃいけないのとで少し疲れたけど、もう一段落ついたから」
「ごめん、俺自分のことばっかりで……」

 暁斗の脳内がようやく動き出した。奏人に確認しておかないといけないことが幾つかある。上半身を起こして時計を見ると、21時半だった。もう日付けが変わっていると思っていたので、驚いてしまう。

「今日は一人お客様にキャンセルされちゃって、僕が大変だろうからって連絡くれたんだけど……ほんとは僕にマスコミでも張りついてると思ったのかなって」

 奏人は少し寂しそうな表情になる。おそらく彼が12月に退職するまでに、客は一人一回ずつしか彼に会えない。それをキャンセルするということは、奏人もその人に直接挨拶が出来なくなるということだった。奏人の気持ちを思うと、暁斗はやるせなかった。

「相談室のニュースいろんなとこで読んだ、綾乃さんが会見の音声手に入れてくれたからそれも聴いた」

 奏人は笑顔になって、話した。暁斗はすっかり慣らされた疑問に意識を飛ばす。どうやってあの場の音声を手に入れたのだろうか。限られた人間しかあの場にいなかった――神崎綾乃はいずれかの新聞社と繋がっているということか。しかも奏人が続けた言葉は、神崎にオフレコの部分まで渡ったことを示していた。

「暁斗さんが西澤先生と僕のことをかばってくれてるのが嬉しくて」

 奏人は今初めて気づいたように、テーブルの上にあったティッシュの箱に手を伸ばした。数日前は暁斗が奏人にそうしたように、奏人はティッシュを数枚取り、暁斗の頬を拭く。

「結局僕は暁斗さんに守られてばっかりで……迷惑をかけるばかりだね」

 そんなこと、と暁斗はかぶりを振った。迷惑をかけられたなんて、思ったことも無い。全て自分が選び、決めたことだ。なのに奏人の顔を見た途端辛くなって泣き出すなんて、情けないのもいいところだ。暁斗は言葉も無く俯いた。

「何がきついか言ってみて、僕に出来ることがあるかも知れないから」

 奏人は暁斗に顔を近づけて、言った。長い睫毛が白い頬につくる影が神秘的で、天使のようだと暁斗は思ったが、羽を傷つけられているこの天使に、どれだけの重荷を背負わせることになるかと思うと、おいそれと愚痴も口にできない。

「言って、でないと僕は自分が何もできない役立たずだと認めなくちゃならなくなる、父がいつも僕に言ったように」

 奏人の瞳によぎった暗いものに暁斗は圧倒された。息子に向かってそんな暴言を吐くなど、親のすることか?

「あなたは役立たずなんかじゃない、今ここに居てくれるだけで十分だ」

 絞り出した暁斗の言葉に、奏人は少し目を見開き、表情を緩めた。

「でも吐き出したらきっと今夜よく眠れるよ……暁斗さんの荷物を少し分けて」

 迷ったが、暁斗は口を開いた。

「……会社に迷惑かけてるんだからと言われるのが辛い、確かに騒がせてることは迷惑なんだけど……俺当分外回り禁止なんだ」

 暁斗は子どものようにぽつぽつと話した。

「迷惑をかけてるって暁斗さん自身は思うの?」
「思いたくない、でもそう言われると反論できない……ああ、奏人さんの会社の総務部長さんから親切なメールをいただいたよ、あれにも会社として返事ができないんだ」

 奏人は小さく頷きながら、腰が重いんだね、と言った。

「相談室の代表として人事部長が返事をしてる、相談室のメンバーは俺のために動いてくれるけど」

 暁斗は話していて、今までにないくらい自分の会社が嫌になっていた。こんな会社で、困っている社員のために相談室なんて、無駄ではないのか。

「暁斗さん、確かにあなたの会社は社員と社員の人権を守るというか、そういうことに疎い人が上層部に多いのかも知れない……」

 奏人は暁斗の髪に触れながら、ゆっくり話した。

「でもどの団体だって初めはそうじゃないのかな、暁斗さんは営業だから古い考えのお客様ともぶつかるかも知れないけど、その人たちも分からない、知らないだけのことが圧倒的に多いと思うよ」

 奏人の優しい手が心地良かった。暁斗は子どもみたいに頷く。

「人間は自分と違うところを持つ同類を警戒する動物だから、知らないものを遠巻きにしたり攻撃したりするんだよね、本能だよ」

 暁斗だって知らなかった。まだ知らなくて、苦しめる側に加担していることも、きっとある。奏人はずっとこの無知の無慈悲と闘いながら生きてきたのだ。その上で、自分を攻撃する相手を客観視し、許そうとしている。

「……こんなことがずっと続くんだろうか」

 暁斗は奏人の肩に額をつけた。奏人の腕が身体を包む。

「続かないよ、『違い』を持っていなくても想像力豊かな人や……他人の痛みを自分のものとして感じることができる人が気づいてくれるから、それに同じ種類の『違い』を持つ人との出会いもある」

 奏人はゆっくりと話し続ける。

「きっとこれは暁斗さんのミッションなんだよ、人にはそれぞれ使命があって、それを果たすために時に試練に立ち向かわなきゃいけないんだ」
「……俺でなきゃいけないのかな」

 暁斗の呟きに、奏人は小さく笑ってそうだよ、と答えた。

「その人が耐えられないような試練は与えられないんだから、暁斗さんここ数日、ほんとに嫌なことしか無かった? きっとそんなことないよね」

 ああ、そうだった。暁斗は奏人に抱かれながら思う。1課の部下たちは前に出られない自分の分まで頑張ってくれているし、相談室の面々は皆応援してくれる。両親はなじったり責めたりしなかった。そして奏人が来てくれた――。

「僕もそうだよ、僕も外回りを控えてるんだけど、それでも僕に来て欲しいと呼んでくれるお客様がいて……外に出ないことで今までほとんど話したことなかった人と話すようになったよ、それに綾乃さんやディレット・マルティールのお客様も……」
「……うん、そうだね」

 奏人の言葉に、素直に頷くことが出来た。

「良かった、浮上してくれそうかな……今夜は帰るね、万が一僕に誰かくっついてきてたらいけないから……終電で」

 奏人に朝までいて欲しかったが、仕方がなかった。もう少しこの温もりに溺れてから、奏人のためにタクシーを呼ぼうと暁斗は思う。

「ありがとう、奏人さん」

 暁斗は心からの感謝を伝える。本当に、奏人の顔が見られなかったら、潰れてしまったかも知れない。

「ううん、お礼を言われるようなことじゃないよ、僕も暁斗さんに会いたかったんだから」

 奏人は暁斗を抱く腕に力を込めて、こめかみに唇をつけた。

「……あなたが大好きだ、あなたはきっとこれを乗り越えたらもっと強く優しくなれる」

 奏人の声が近い。暁斗の胸が高鳴る。

「でも疲れたらいつでも僕を呼んで、お酒に逃げたりしちゃ駄目だよ」

 ああ、いつでも奏人に会えるように早くなって欲しい。顔を上げると、黒い瞳がすぐ傍にあった。少し顔を傾けると、すぐに唇が奏人の頬に触れた。
 奏人はお返しをするように唇を重ねてきた。暁斗の胸が暖かいもので満たされる。奏人は唇を割って、舌を入れてくる。それを迎え入れること自体が幸せで、夢中で彼を味わう。そのうち熱い唇が頬をなぞり、耳たぶを捕らえると、思わず声が出た。アルコールのせいか、一瞬で優しい快感が全身を巡ってしまう。暁斗は火照り始めた身体を持て余しながら、首に吸いついてくる可愛い魔物をさとしてみる。

「奏人さん、あ……だめだ、帰れなくなるよ」
「ん……こないだ寝ちゃったから……暁斗さん溜まってるでしょ? すっきりさせてあげる」

 奏人は暁斗に再度のしかかって、ソファの上に押し倒そうとする。そうして欲しい気持ちと、こんなことをしている場合じゃないという気持ちがせめぎ合ったが、奏人の手がTシャツの中に入ってきて脇腹を撫でた途端、理性にぱきんと大きくひびが入った。
 酔って泣き疲れた暁斗は、奏人のなすがままになってしまった。こんな場所で、シャワーも浴びていないのに。そう言いたかったが、体温が上がり敏感になった乳首をいきなり舌と指先でもてあそばれると、かすれた喘ぎしか出なくなってしまう。

「……あ、はっ……やめ……」
「遠慮しないで、我慢しなくていいよ」

 奏人は優しく言い、舌先での愛撫を再開しながら、ズボンの中に迷わず手を入れて来た。もうすっかりその気になっていたそれに触れられて、勝手に腰が跳ねた。恥ずかしくて顔が熱くなるのに、もっと、という言葉が意識に昇って止まらない。自分に覆いかぶさって愛撫を続ける奏人が愛おしくて、小さな頭をそっと腕に抱く。
 奏人は暁斗の好きな力加減で巧みに擦り上げてきた。初めは先だけ、やがて全てに刺激が加わる。暁斗は目を閉じて、突き上げて来る快感に意識を集めた。早く昇り詰めてしまいたい。頭の中が白く霞んできて、奏人が満足げな顔になりティッシュを用意したことにも気づかなかった。

「奏人さん……あ、もうっ……」
「大丈夫、いっていいから……」

 奏人の声に応じるように、身体の中で膨らんだ熱が、全身の毛穴から一気に噴き出したような気がした。腰が浮き、視界が白くなった。
 暁斗は下半身の甘い痺れに飲み込まれそうになりながら、何度も口で息を吸う。

「……僕の大切なひと」

 奏人は囁くように言い、右手で暁斗の零したものを受け止め、左腕で力の抜けた身体を抱いた。全てが夢なのではないかと暁斗は思った。思いきり夢精してしまったかも。
 ぼんやり目を開けると、手早く後始末をしてくれた奏人が、暁斗を見上げてにっこり笑った。……ああ、夢じゃなかった。彼は嬉し気に暁斗の首根っこに腕を回して来た。ズボンを下げられたままなのが少し落ち着かなかったが、華奢な背中を抱きしめる。その温もりが、さっきまで全身を支配していた熱い快感とは違う心地良さをもたらしてくれる。

「暁斗さん、ちょっと元気出そう?」
「うん、十分……」
「ごめんね、ここまでするつもりじゃなかったんだけど、暁斗さんが可愛いからつい」
「……嬉しい、かも」

 ふと暁斗は、自分たちの関係が、ひとつ先に進んだような気がした。相手が自分のことをどう思っているのかを確かめ合う段階から、相手を自分と切り離せないものとして認識し合う段階へ。蓉子と進むことが出来なかった場所へ、奏人となら行くことが出来る。一緒に先へ進む相手を、生涯見つけられない人もきっといると暁斗は思う。だから自分は恵まれている。
 だから……暁斗は思った。この幸せを手放さないために、戦う。完勝出来なかったとしても、負けっ放しでは絶対に終わらない。暁斗は腕の中の奏人と何も言わずに見つめ合い、そう誓った。
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