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第1幕/甘く匂う蓮
第2場①
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芸術系学生としての生活に振り回されながら3ヶ月が経った。実技の授業が多く、実験室にいるかピアノの前にいるかの違いはあれ、前の大学の3回生の頃のようだと思う。少人数でのアンサンブルは楽しいし、少ない時間ではあるが、経験豊富な先生がたから個人指導を受けるのは、本当に勉強になる。
それにしても東京の夏は暑い。今日も恨めしいほど空が青く、ひたすら蝉の鳴き声が学内に響いていた。
音楽学部生用の食堂は、試験前のせいか、いつになく混雑していた。周囲から立ち昇る揚げ物の暴力的な匂いに耐えつつ、一樹はオムライスを食べていた。
同級生は、自分たちより4歳上である一樹に対して、皆フレンドリーだ。他大学の理系学部を卒業していることが知れ渡ると、尊敬混じりの眼差しを向けてくる子もいて、可愛らしいと思う。声楽科全体が一つのクラスのような扱いを受けているので、先生たちが歳上の一樹に、全員への伝達事項の確認を頼んでくることもままある。
しかしふと食事や喫茶をしようという時、やはり独りになることが多い。夏休みに声楽科有志で軽井沢に遊びに行く計画が立てられているようなのだが、彼らからは、今のところお誘いは無い。想定の範囲内で、どちらにせよ軽井沢に避暑に行くような金銭的余裕も無いので構わない。それが特別寂しいという訳でもない……のだが。
その時、例の甘い香りの彼が、空席を探しながらこちらに来るのが目に入った。向かいの席が空いているが、挨拶を交わす程度の関係のため、彼の注意を引くために手を挙げるのを、一樹は少し躊躇う。
イタリア語の授業以外で一緒にならないことと、先生が彼に接する様子などを見ていて、彼……片山三喜雄が声楽専攻の大学院生であるとわかった。つまり彼にとってイタリア語は必修科目ではなく、学部の授業に自主的に参加しているのだ。語学があまり好きでない一樹は、単位にもならない外国語を積極的に学び、歌に生かしているらしい片山に感心し、憧れのような感情すら抱いている。
学食で席を探すのに手間取るなど、時間の無駄である。思いきって一樹は片山に向かって手を振った。すると彼はすぐに気づいてくれた。ここ空いてます、と向かいの席を指差すと、こちらへやって来た片山はぱっと笑顔を見せる。
「ありがとう、助かります……それは? 今日の日替わり定食ですか?」
片山は一樹の盆の上を見ながら、椅子に鞄を置いた。そうだと答えると、彼は早速食券を買いに行った。今日は彼から甘い香りはしなかったが、初めて近くで話し声を聞き、オリエンタルな甘味を微かに鼻腔の奥に感じた。こんな風に、他人の話し声を聴いただけで匂いを感じることもたまにある。
何だったかな、この匂い。一樹はその香りを知っていたが、何のものかを思い出せなかった。片山が手にした盆の上のオムライスとサラダから漂うケチャップとドレッシングの匂いに、一樹の思索は断ち切られる。
「深田さんが食べてるのが美味しそうだったんで」
片山は笑いながら言う。思ったより人懐っこそうなので、もっと早くに声をかけたらよかったと一樹は思った。たぶん、年齢的にも親しくなれそうな気がする。
「あの、片山さんって、もしかして俺と同いか一つ上だったりしますか?」
一樹が意を決して訊くと、たぶん同いだと思います、と片山はあっさり答えた。
「俺は院の1年目です……杉本先生が、国立大の理系卒のバスが学部の1年にいて、知性を感じさせる歌を歌うって話してて、深田さんのことかなって」
その言葉を聞き、一樹は顔が熱くなるのを抑えられなかった。片山の言う杉本哥津彦教授は、今はもうほとんど舞台に立っていないが、ノーブルな声で知られる名バリトンである。個人指導の時間に、主に杉本ともう一人の先生が一樹を受け持ってくれているが、杉本はちょっとやそっとでは褒めてくれない。だから、そんな風に院生に話しているとは思いもしなかった。
「ソロ試験が楽しみだとも言ってましたよ」
試験はこちらにとっては全く楽しくないが、そう言われるなら頑張ろうと一樹は思った。
それにしても東京の夏は暑い。今日も恨めしいほど空が青く、ひたすら蝉の鳴き声が学内に響いていた。
音楽学部生用の食堂は、試験前のせいか、いつになく混雑していた。周囲から立ち昇る揚げ物の暴力的な匂いに耐えつつ、一樹はオムライスを食べていた。
同級生は、自分たちより4歳上である一樹に対して、皆フレンドリーだ。他大学の理系学部を卒業していることが知れ渡ると、尊敬混じりの眼差しを向けてくる子もいて、可愛らしいと思う。声楽科全体が一つのクラスのような扱いを受けているので、先生たちが歳上の一樹に、全員への伝達事項の確認を頼んでくることもままある。
しかしふと食事や喫茶をしようという時、やはり独りになることが多い。夏休みに声楽科有志で軽井沢に遊びに行く計画が立てられているようなのだが、彼らからは、今のところお誘いは無い。想定の範囲内で、どちらにせよ軽井沢に避暑に行くような金銭的余裕も無いので構わない。それが特別寂しいという訳でもない……のだが。
その時、例の甘い香りの彼が、空席を探しながらこちらに来るのが目に入った。向かいの席が空いているが、挨拶を交わす程度の関係のため、彼の注意を引くために手を挙げるのを、一樹は少し躊躇う。
イタリア語の授業以外で一緒にならないことと、先生が彼に接する様子などを見ていて、彼……片山三喜雄が声楽専攻の大学院生であるとわかった。つまり彼にとってイタリア語は必修科目ではなく、学部の授業に自主的に参加しているのだ。語学があまり好きでない一樹は、単位にもならない外国語を積極的に学び、歌に生かしているらしい片山に感心し、憧れのような感情すら抱いている。
学食で席を探すのに手間取るなど、時間の無駄である。思いきって一樹は片山に向かって手を振った。すると彼はすぐに気づいてくれた。ここ空いてます、と向かいの席を指差すと、こちらへやって来た片山はぱっと笑顔を見せる。
「ありがとう、助かります……それは? 今日の日替わり定食ですか?」
片山は一樹の盆の上を見ながら、椅子に鞄を置いた。そうだと答えると、彼は早速食券を買いに行った。今日は彼から甘い香りはしなかったが、初めて近くで話し声を聞き、オリエンタルな甘味を微かに鼻腔の奥に感じた。こんな風に、他人の話し声を聴いただけで匂いを感じることもたまにある。
何だったかな、この匂い。一樹はその香りを知っていたが、何のものかを思い出せなかった。片山が手にした盆の上のオムライスとサラダから漂うケチャップとドレッシングの匂いに、一樹の思索は断ち切られる。
「深田さんが食べてるのが美味しそうだったんで」
片山は笑いながら言う。思ったより人懐っこそうなので、もっと早くに声をかけたらよかったと一樹は思った。たぶん、年齢的にも親しくなれそうな気がする。
「あの、片山さんって、もしかして俺と同いか一つ上だったりしますか?」
一樹が意を決して訊くと、たぶん同いだと思います、と片山はあっさり答えた。
「俺は院の1年目です……杉本先生が、国立大の理系卒のバスが学部の1年にいて、知性を感じさせる歌を歌うって話してて、深田さんのことかなって」
その言葉を聞き、一樹は顔が熱くなるのを抑えられなかった。片山の言う杉本哥津彦教授は、今はもうほとんど舞台に立っていないが、ノーブルな声で知られる名バリトンである。個人指導の時間に、主に杉本ともう一人の先生が一樹を受け持ってくれているが、杉本はちょっとやそっとでは褒めてくれない。だから、そんな風に院生に話しているとは思いもしなかった。
「ソロ試験が楽しみだとも言ってましたよ」
試験はこちらにとっては全く楽しくないが、そう言われるなら頑張ろうと一樹は思った。
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