彼はオタサーの姫

穂祥 舞

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第2幕/ふたつ隣の部屋

第1場

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 夜になると、少し肌寒くなった。3月も半ばとはいえ、本格的な春はまだ少し先のようである。
 ベッドに寝転びながら音楽……クラシックではなく、流行りのJ-POPを聴いていると、インターホンが鳴った気がした。配達が来る心当たりも無いし、放置しておこうと思ったが、チンコン、と呼び出し音がヘッドホン越しにもう一度鳴った。
 亮太りょうたはもそもそと身体を起こして、そのまま玄関に向かう。インターホンに出るよりも、そのほうが近いからだった。キーチェーンを外さないまま、重い扉をそっと開ける。

「はい?」

 亮太が面倒くささ全開で応じると、まろやかな声がした。

「こんばんは、2つ隣に引っ越して来た片山かたやまです、ご挨拶に伺いました」

 少し緩い話し方をする男の声は、そう自己紹介した。訛っていないので、自分と同様、関東圏出身かなと思った。亮太はキーチェーンを外す。
 ドアを開けると、蛍光灯の白い光の中に立っていたのは、平凡な容姿、という言葉がぴったりの男だった。このマンションは完全防音ではないものの、入居しているのは全員、芸大の音楽学部の人間である。家賃お安めのマンションではあるが、皆何処となく、音楽に携わる者独特の華やかさを醸し出している。しかし暗い色の髪と瞳の彼は、柔和な顔をしているが地味で、音楽家には見えない。
 片山と名乗った男は、細長い包みと菓子の小箱を亮太に差し出した。

「ご迷惑をかけることもあるかと思いますが、よろしくお願いします」

 菓子の箱は、北海道の有名な菓子店のものだった。白地に花々の絵が散った素朴な包装紙をつい見つめると、彼は言った。

「札幌から来ました、大学院の声楽専攻に入学予定です」

 容姿から彼が学部生だと決めつけていた亮太は、軽く驚いた。

「え、院生なんだ」
「はい」
「院生なのにこんな半防音の部屋でいいのか?」

 自分のことを棚に上げて言う。亮太は芸大に入学して横浜から出てきた時以来、ずっとここを根城にしている。来月から器楽専攻の院生となるが、ピアノ専攻の連中が暮らすような、しっかり防音されている部屋を探す気は無い。家賃が高過ぎるからだ。

「あ、家賃が限界で……」

 片山の声が小さくなったので、亮太は彼に恥をかかせてしまったような気がして、申し訳なくなった。

「ごめん、俺も新年度に院生になるんだけど、どこも家賃高いからここに住み続けるつもり」

 言うと片山は、きれいな形の目をぱっと見開いた。亮太が同級生だとわかり、安心したようである。

「ここで音出しできないのが夜の9時以降朝の8時までだから、常識の範囲だし、十分練習できるよ」
「はい、大家さんからもそう聞きました、大学も近いしそっちでも練習はできるので……」

 北海道から初めて単身東京に出てきたのだろう、微かに不安げな空気が、片山から滲み出ていた。こういう人物を見ると、亮太の父性だか母性だかわからないが、世話焼き本能みたいなものが疼き出す。

「俺この辺に4年住んでるし、学部から芸大だからさ、わからないことがあったら何でも訊いて……あ、俺器楽専攻の小田おだ、よろしく」

 亮太はそう言ってから、片山の差し出していた引っ越しの挨拶を受け取った。片山はほっとした笑顔になる。それを見た亮太は、こいつ可愛いなと思った。
 片山は礼儀正しく再度挨拶して、2つ向こうの角部屋に戻って行った。彼の部屋は昨年の秋に前の住人が留学を決め、それ以来空いていた。亮太の部屋のすぐ隣は、卒業した作曲科の同期が、故郷の愛知県に戻るべく、一昨日出て行ったばかりだ。
 隣室に新しい住人が来るまでは、片山がお隣さんということになる。気が良さそうだし、わざわざ引っ越しの挨拶をしに来る辺り律儀で常識的だ。亮太は軽く安心した。音楽家には迷惑系変人も散見され、もし近所にいると割に苦痛だからである。
 片山から渡された、菓子でないほうの包みを開けると、22センチのラップと食器洗剤が出てきた。亮太はそれを見て、おおっ、と思わず喜びの声を上げてしまう。自炊男子である亮太にとって、必須アイテムばかりだった。気が利くなあいつ。亮太の中で、15分前に初めて出会った北海道出身の歌手の評価が、ずれたポイントで急上昇した。
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