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11 その関係性
11月 33
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指揮の谷川と2人のソリストが2度のアンコールに応えて袖に引くと、ようやく拍手が収まった。コンサートマスターの合図でオーケストラが解散し、上手と下手に分かれて袖に入っていく。
「2人ともいい声でしたね、さすがオーケストラも素晴らしい」
左手からノアに話しかけられて、三喜雄は我に返った。
「あ、はい、そうですね」
自分たちが座るのが列の真ん中なので、周りが立ち上がるまで待たなくてはいけない。しかしそのほうが、ゆっくり余韻に浸れてよかった。
「三喜雄、ちょっと音に当てられましたか?」
微笑するノアに覗きこまれて、あ、はいと再度答えた。たぶんその通りだ。
こんないいホールの、1階前方のど真ん中に座るのは初めてなので、オケの音圧がもの凄い。2人の歌い手は海外での仕事のほうが多いようで、個人的に全く知らない人たちだが、大きなホールでオケと歌い慣れていることがわかる、堂々とした声だった。特にアルトは、ワーグナーのオペラをレパートリーに入れているだけあり、ドイツ語も美しい。
「全部の音が耳に入ってくるから、酔いそうです」
「マーラーだから余計にそうかもしれませんね……何か飲みますか?」
ノアに促されて三喜雄は立ち上がり、ゆっくりと席から離れる。同じように休憩に向かう周囲に座る人たちもゆったりと移動を始めた。彼らにはやや上流感があり、客としてのマナーも良いので快適だ。
コンサートは満席なので、ホワイエのドリンクコーナーも混雑していた。三喜雄はノアに場所取りを頼み、飲み物を注文しに行く。ワインに目が行ったが、コーヒーを頼んだ。
背が高いノアは目立つので、三喜雄はすぐ彼のところに戻ることができた。すると、小さなテーブルの傍にはもう1人、初老の日本人男性が立っていて、ノアと親しげに話していた。
「ああ、あなたが歌手の片山さんですか」
男性はコーヒーを運んできた三喜雄に気づき、言った。一瞬対応に迷った三喜雄に、ノアが男性を紹介してくれる。
「こちらはシントリーホールディングスの山鳥さんです、芸術振興の部門を引っ張っている人ですよ」
このホールを運営するシントリーは、バブル時代に音楽や美術へのメセナに力を入れ始めたが、現在も芸術に金を出し続けている、数少ない日本企業の一つだ。山鳥氏は名前から察するに、シントリーの創業者の一族でおそらくかなりの大物だが、メセナ繋がりでノアと親しいのかと、三喜雄は納得した。
「初めまして、片山三喜雄です」
三喜雄はテーブルにコーヒーを置き、髪に白いものが混じる男性に一礼した。厳格そうな人だが、すぐに笑顔になる。
「山鳥です、ネットでしか姿が見られないと噂のバリトンにお会いできるとは、嬉しいですね」
彼がワイングラスをテーブルに置き、ジャケットから名刺入れを出したので、三喜雄も慌てて鞄を開けた。
「あ、恐縮です……」
山鳥大樹は三喜雄とノアにコーヒーを飲むよう勧めて、自分も赤ワインに口をつける。
「片山さんはフォーゲルベッカーが後ろ楯になる、アジアの歌手第一号ということですね」
「言われてみればそうなるでしょうか……歌手は個性が強いので、個別の支援を決めるのが難しくて」
ノアは山鳥に遠慮や距離感を見せずに、さばさばと話した。山鳥は同意する。
「歌い手は年齢で変化もしますからね、片山さんはまだ30になったばかりくらいですか?」
三喜雄は話を振られてぎょっとした。やや気後れしつつ答える。
「いえ、もうすぐ34です」
「えっ! ああ失礼、若く見えられるので……お声は年齢より上に聴こえるくらい落ち着いてらっしゃるのに」
山鳥は結構本気で驚いているようである。ノアが小さく笑った。
「メゾン・ミューズによると、そのギャップがこの人の売りなんだそうですよ」
「なるほど、ネット発信もそれを際立たせる戦略なんですかね」
山鳥は言いながらノアと笑ったが、たぶん事務所はそこまで考えてくれてはいない。所詮三喜雄はレパートリーも少ない、しょぼいバリトンである。
「片山さんは来月、谷川さんの指揮でお歌いになるんですよね? 合唱は学生さんでしたか?」
シントリーの芸術振興セクションが「カルミナ」をチェックしているとは。三喜雄はまたぎょっとする。アマチュアの、本来なら内輪の演奏会みたいなものなので(もちろん学生たちはチケット拡大の努力はしているが)、こんな場所で話題になるとは思えない。谷川の知名度恐るべし、である。
「はい、学生さんたちも、谷川さんがこんなに評価されるかたになるとは思わず、依頼したそうです」
三喜雄が答えると、山鳥は詠嘆の溜め息を洩らした。
「いやぁ、谷川さんが如何に勢いがあるかということですねぇ……彼はアマチュアの指導も好きで、もっと力を入れたいみたいだけど、方々のオーケストラが許してくれないから」
「2人ともいい声でしたね、さすがオーケストラも素晴らしい」
左手からノアに話しかけられて、三喜雄は我に返った。
「あ、はい、そうですね」
自分たちが座るのが列の真ん中なので、周りが立ち上がるまで待たなくてはいけない。しかしそのほうが、ゆっくり余韻に浸れてよかった。
「三喜雄、ちょっと音に当てられましたか?」
微笑するノアに覗きこまれて、あ、はいと再度答えた。たぶんその通りだ。
こんないいホールの、1階前方のど真ん中に座るのは初めてなので、オケの音圧がもの凄い。2人の歌い手は海外での仕事のほうが多いようで、個人的に全く知らない人たちだが、大きなホールでオケと歌い慣れていることがわかる、堂々とした声だった。特にアルトは、ワーグナーのオペラをレパートリーに入れているだけあり、ドイツ語も美しい。
「全部の音が耳に入ってくるから、酔いそうです」
「マーラーだから余計にそうかもしれませんね……何か飲みますか?」
ノアに促されて三喜雄は立ち上がり、ゆっくりと席から離れる。同じように休憩に向かう周囲に座る人たちもゆったりと移動を始めた。彼らにはやや上流感があり、客としてのマナーも良いので快適だ。
コンサートは満席なので、ホワイエのドリンクコーナーも混雑していた。三喜雄はノアに場所取りを頼み、飲み物を注文しに行く。ワインに目が行ったが、コーヒーを頼んだ。
背が高いノアは目立つので、三喜雄はすぐ彼のところに戻ることができた。すると、小さなテーブルの傍にはもう1人、初老の日本人男性が立っていて、ノアと親しげに話していた。
「ああ、あなたが歌手の片山さんですか」
男性はコーヒーを運んできた三喜雄に気づき、言った。一瞬対応に迷った三喜雄に、ノアが男性を紹介してくれる。
「こちらはシントリーホールディングスの山鳥さんです、芸術振興の部門を引っ張っている人ですよ」
このホールを運営するシントリーは、バブル時代に音楽や美術へのメセナに力を入れ始めたが、現在も芸術に金を出し続けている、数少ない日本企業の一つだ。山鳥氏は名前から察するに、シントリーの創業者の一族でおそらくかなりの大物だが、メセナ繋がりでノアと親しいのかと、三喜雄は納得した。
「初めまして、片山三喜雄です」
三喜雄はテーブルにコーヒーを置き、髪に白いものが混じる男性に一礼した。厳格そうな人だが、すぐに笑顔になる。
「山鳥です、ネットでしか姿が見られないと噂のバリトンにお会いできるとは、嬉しいですね」
彼がワイングラスをテーブルに置き、ジャケットから名刺入れを出したので、三喜雄も慌てて鞄を開けた。
「あ、恐縮です……」
山鳥大樹は三喜雄とノアにコーヒーを飲むよう勧めて、自分も赤ワインに口をつける。
「片山さんはフォーゲルベッカーが後ろ楯になる、アジアの歌手第一号ということですね」
「言われてみればそうなるでしょうか……歌手は個性が強いので、個別の支援を決めるのが難しくて」
ノアは山鳥に遠慮や距離感を見せずに、さばさばと話した。山鳥は同意する。
「歌い手は年齢で変化もしますからね、片山さんはまだ30になったばかりくらいですか?」
三喜雄は話を振られてぎょっとした。やや気後れしつつ答える。
「いえ、もうすぐ34です」
「えっ! ああ失礼、若く見えられるので……お声は年齢より上に聴こえるくらい落ち着いてらっしゃるのに」
山鳥は結構本気で驚いているようである。ノアが小さく笑った。
「メゾン・ミューズによると、そのギャップがこの人の売りなんだそうですよ」
「なるほど、ネット発信もそれを際立たせる戦略なんですかね」
山鳥は言いながらノアと笑ったが、たぶん事務所はそこまで考えてくれてはいない。所詮三喜雄はレパートリーも少ない、しょぼいバリトンである。
「片山さんは来月、谷川さんの指揮でお歌いになるんですよね? 合唱は学生さんでしたか?」
シントリーの芸術振興セクションが「カルミナ」をチェックしているとは。三喜雄はまたぎょっとする。アマチュアの、本来なら内輪の演奏会みたいなものなので(もちろん学生たちはチケット拡大の努力はしているが)、こんな場所で話題になるとは思えない。谷川の知名度恐るべし、である。
「はい、学生さんたちも、谷川さんがこんなに評価されるかたになるとは思わず、依頼したそうです」
三喜雄が答えると、山鳥は詠嘆の溜め息を洩らした。
「いやぁ、谷川さんが如何に勢いがあるかということですねぇ……彼はアマチュアの指導も好きで、もっと力を入れたいみたいだけど、方々のオーケストラが許してくれないから」
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