恋する鳥刺し

穂祥 舞

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4 受難

6月 14

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 「菩提樹」の前奏が微かに聴こえた気がしたが、その後嫌な夢を見たような不快感が残っていた。ぼんやり目覚めた三喜雄は、まだカーテンの向こうが暗いので、寝直そうと思った。時計を見ると6時過ぎなので、天気が悪いのかと思い直す。
 北海道に無い、この梅雨という季節は、どうも慣れない。ケルンにも長雨の季節は無かった。カレンバウアーは日本が好きだと言うが、この湿度の高い夏は嫌ではないのだろうか。
 昨夜は寝るのが早かったので、身体は寝直すことを望んでいない様子だ。三喜雄はベッドの上で伸びをして、トイレに行った。
 顔を洗ってもそもそと着替えていると、窓の外がやや明るくなってきたようだった。それにしても、何となく焦げ臭いような気がするのは何なのだろう。少なくとも三喜雄は、まだガスを使っていないし、昨夜は暑さがましだったのでエアコンもつけていない。
 コンセント周辺に埃が溜まって引火、という話を思い出した三喜雄は、掃除を手抜きしがちな寝室を点検すべく、明かりをつけた。そしてその異臭が、少しだけ開けていた窓から入ってきていることに気づく。
 よく見ると、窓の外の明るさも何か不自然で、光がちらちら揺れている感じだ。三喜雄がベランダ側のカーテンを開けようとした時、けたたましい音が鳴り響いた。マンションの廊下で尖った音を撒き散らしているのは、火災報知のベルだった。
 えっ! 何なんだ! 三喜雄はカーテンを開けて、窓の外の明るさが階下から伸びているらしい炎のものだと知る。火事なのか。心臓が一気に動きを早めた。
 ベランダに面した窓を思わず開けると、空はどんよりとしているのに、下のほうから夕焼けのような色とどす黒さが湧き出していた。三喜雄は一気に咳き込み、その瞬間に嗅覚を焦げた臭いに蹂躙された。咄嗟に鼻と口を腕で覆ったが吐き気に襲われる。斜め下の部屋のベランダから真っ黒な煙が吐き出され、ぱりん、とガラスが割れる音がする度に、炎がちらついていた。その光がやけに強く、目を刺すようだ。
 あまりに近い場所で起こっている惨事に、三喜雄の頭の中が真っ白になった。
 ぱちぱちという音が鼓膜を叩く。逃げなくてはいけない。しかしその前に、火元の真上である隣のヴァイオリニストの存在に思いが至った。起きているだろうか。三喜雄はベランダの隔て板の隙間から、隣に呼びかけた。

「逢坂さん! 火事だ、起きて! 逃げて!」

 煙にまかれて三喜雄は再び咳き込んだ。すると隣から、きゃあっと女の悲鳴が小さく聞こえた。

「逢坂さん、片山です! 下の部屋から火が出てる、すぐに逃げて!」

 あああ、と悲鳴のような声がして、三喜雄はどうすればいいかわからなくなったが、おそらくベランダ側にいるほうが危ない。

「逢坂さん、玄関に行って!」

 その時、反対側の隔て板から太い声がした。
 
「片山さん、逃げよう! これ結構やばいよ!」

 振りかえっても姿は見えなかったが、その声は反対側の隣に住む、パーカッショニストだった。

「はい、お隣り確認して逃げます!」

 消防車が複数やってきたらしく、辺りが一気に騒々しくなった。三喜雄は部屋に飛び込み、窓を閉めた。もう部屋中が煙臭くなっていて、思わず鼻と口を手で押さえる。
 どうしよう、どうしようという言葉が脳内でぐるぐる回る中、まず流しの傍らにぶら下げているタオルを取り、震える手で吐水ハンドルを上げた。水は少し温かったが、目を覚ますには十分だった。
 何とか濡らしたタオルを絞り、ベランダを振り返ると、外は煙幕を張られて真っ暗になっている。今日持って出るために用意していた鞄が目に入り、迷わず手に取った。財布の中に、免許証や保険証、キャッシュカードも入っている。
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