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立夏の頃
5月②
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弾き語りができない三喜雄は、音の確認のために右手で鍵盤を叩きながら、コンコーネをさらう。メロディの美しい練習曲集で好きだが、たまにとんでもなく声をコントロールできなくなる音形が出てきて、自分が何を苦手とするのかが炙り出される。
最近は歌っていて、藤巻に歌うのを止められる「駄目な瞬間」がわかるようになってきた。しかしそれは、決して楽しいものではない。またピアノのように、繰り返し練習するうちに自然と、より良い歌い方が体得できるものでもなかった。歌は、頭を使って歌わないといけないのである。
メトロノームに合わせて、何とか最後まで通すことができたので、良しとする(していいのか甚だ疑問ではあるが)。本当はベッリーニの歌曲を練習しないといけなかったが、どうもイタリア語を見る気になれず、「さくら横ちょう」のコピー譜を広げてみた。
日本語の歌詞の下にローマ字が振ってある。こういう楽譜は、合唱曲でもたまに見かける。いつだったか深井は、そういう意味なんだよ、と部活中に説明した。
「日本語を勉強する外国人になったと思って、歌詞をローマ字で読め……はっきり話して聴き手に言葉をまず伝えろ」
そして、悲しかったり嬉しかったりする歌詞に誰かが色をつけて歌おうものなら、速攻突っ込んだ。
「きちんと読めたら感情が入るんだ、順番が違うだろ、だいたい感情入れるなんて君らには50年早い」
それでも三喜雄は、何を歌っているのかは知りたいので、歌詞を追ってみた。桜の季節に、昔の恋人に再開したということなのか。いや、出会ってはいない……? ちょっとよくわからない。
ゆっくりと4分の3拍子の伴奏を弾いてみた。譜面面は難しくない。ああ、流れるような曲なんだ。しかし調号が多くて嫌だな。
歌のリズムはシンプルで、これなら歌えそうだった。
「春の宵、さくらが咲くと……」
上昇する先の音が、少し高い。楽譜の指示はpなので、あまり大きくなってはいけないようだ。
「花ばかり、さくら横ちょう……」
伴奏のピアノの右手にメロディが入ってくる。三喜雄は、誰かに弾いてほしいなと思った。
「思い出す、恋の昨日……」
音が増えたので右手が躓いた。三喜雄は自分にがっかりしてしまったが、とりあえず歌を追うことにした。
「君はもう、ここにいないと」
その時、教室の前の扉から人の顔が覗いた。誰もいないと思っていたので、動くものが視界に入ったことに驚いて、椅子の上で三喜雄の尻が跳ねそうになった。
「あっ、邪魔してすみません」
耳に流れこんできた快い声に、三喜雄はもう一度驚いた。黒い髪に小さな白い顔、華奢な肩。扉から上半身をこちらに傾ける高崎は、中学生のように見えた。
「僕美術室に居たんですけど、ピアノの音が聴こえるから誰が来たのかなと思って」
高崎の言葉に、扉も窓も全開放のまま音を出していたことに思い至って、三喜雄は焦った。下手くそなピアノが、廊下の反対側の端の美術室に聴こえたということは、グラウンドにいる連中の耳にも届いたに違いなかった。これは大恥晒しである。椅子から腰を上げかけて、三喜雄はまたどっかり座りこんでしまった。高崎がぱたぱたと教室に入ってくる。
「片山先輩、大丈夫ですか? 何か飲み物買ってきます」
「いや、大丈夫……」
三喜雄は高崎を押し留めて、ピアノから離れ、窓を閉めた。彼が心配そうな顔をしているので、申し訳なくなる。
「勝手にダメージを受けただけだから」
はぁ、と高崎はわからないと言わんばかりに首を傾げる。妙に可愛らしい仕草だった。
「えっと……高崎って自宅生なの?」
この高校には、道内各地から生徒が集まっているため、大きな寮がある。部活動などの用がある者以外は、大型連休は帰省することが多い。
高崎は何の躊躇いもなく答える。多少気を許してくれているらしかった。
「僕は祖父母の家でお世話になってます」
「ということは、札幌民じゃないんだ」
「はい、実家は帯広です」
へぇ、と思わず三喜雄は言った。遠いところから来てるんだな。高崎の独特な佇まいが、釧路湿原に近い寒さの厳しい土地によく似合うような気がした。
「あの、さっきちょっと変わった歌歌ってらっしゃいましたよね」
高崎の言葉に、三喜雄はああ、と返す。
「変わったというか、難しい曲かも」
「楽譜見ていいですか?」
三喜雄が頷くと、高崎はピアノの椅子にちょこんと座り、楽譜をじっと見つめた。何となくその様子が、家の居間に置かれているビスクドールを思い起こさせた。
☆「さくら横ちょう」加藤周一(詩)
『中田喜直歌曲集』(カワイ出版、2023)掲載を現代仮名遣いに書き換え
最近は歌っていて、藤巻に歌うのを止められる「駄目な瞬間」がわかるようになってきた。しかしそれは、決して楽しいものではない。またピアノのように、繰り返し練習するうちに自然と、より良い歌い方が体得できるものでもなかった。歌は、頭を使って歌わないといけないのである。
メトロノームに合わせて、何とか最後まで通すことができたので、良しとする(していいのか甚だ疑問ではあるが)。本当はベッリーニの歌曲を練習しないといけなかったが、どうもイタリア語を見る気になれず、「さくら横ちょう」のコピー譜を広げてみた。
日本語の歌詞の下にローマ字が振ってある。こういう楽譜は、合唱曲でもたまに見かける。いつだったか深井は、そういう意味なんだよ、と部活中に説明した。
「日本語を勉強する外国人になったと思って、歌詞をローマ字で読め……はっきり話して聴き手に言葉をまず伝えろ」
そして、悲しかったり嬉しかったりする歌詞に誰かが色をつけて歌おうものなら、速攻突っ込んだ。
「きちんと読めたら感情が入るんだ、順番が違うだろ、だいたい感情入れるなんて君らには50年早い」
それでも三喜雄は、何を歌っているのかは知りたいので、歌詞を追ってみた。桜の季節に、昔の恋人に再開したということなのか。いや、出会ってはいない……? ちょっとよくわからない。
ゆっくりと4分の3拍子の伴奏を弾いてみた。譜面面は難しくない。ああ、流れるような曲なんだ。しかし調号が多くて嫌だな。
歌のリズムはシンプルで、これなら歌えそうだった。
「春の宵、さくらが咲くと……」
上昇する先の音が、少し高い。楽譜の指示はpなので、あまり大きくなってはいけないようだ。
「花ばかり、さくら横ちょう……」
伴奏のピアノの右手にメロディが入ってくる。三喜雄は、誰かに弾いてほしいなと思った。
「思い出す、恋の昨日……」
音が増えたので右手が躓いた。三喜雄は自分にがっかりしてしまったが、とりあえず歌を追うことにした。
「君はもう、ここにいないと」
その時、教室の前の扉から人の顔が覗いた。誰もいないと思っていたので、動くものが視界に入ったことに驚いて、椅子の上で三喜雄の尻が跳ねそうになった。
「あっ、邪魔してすみません」
耳に流れこんできた快い声に、三喜雄はもう一度驚いた。黒い髪に小さな白い顔、華奢な肩。扉から上半身をこちらに傾ける高崎は、中学生のように見えた。
「僕美術室に居たんですけど、ピアノの音が聴こえるから誰が来たのかなと思って」
高崎の言葉に、扉も窓も全開放のまま音を出していたことに思い至って、三喜雄は焦った。下手くそなピアノが、廊下の反対側の端の美術室に聴こえたということは、グラウンドにいる連中の耳にも届いたに違いなかった。これは大恥晒しである。椅子から腰を上げかけて、三喜雄はまたどっかり座りこんでしまった。高崎がぱたぱたと教室に入ってくる。
「片山先輩、大丈夫ですか? 何か飲み物買ってきます」
「いや、大丈夫……」
三喜雄は高崎を押し留めて、ピアノから離れ、窓を閉めた。彼が心配そうな顔をしているので、申し訳なくなる。
「勝手にダメージを受けただけだから」
はぁ、と高崎はわからないと言わんばかりに首を傾げる。妙に可愛らしい仕草だった。
「えっと……高崎って自宅生なの?」
この高校には、道内各地から生徒が集まっているため、大きな寮がある。部活動などの用がある者以外は、大型連休は帰省することが多い。
高崎は何の躊躇いもなく答える。多少気を許してくれているらしかった。
「僕は祖父母の家でお世話になってます」
「ということは、札幌民じゃないんだ」
「はい、実家は帯広です」
へぇ、と思わず三喜雄は言った。遠いところから来てるんだな。高崎の独特な佇まいが、釧路湿原に近い寒さの厳しい土地によく似合うような気がした。
「あの、さっきちょっと変わった歌歌ってらっしゃいましたよね」
高崎の言葉に、三喜雄はああ、と返す。
「変わったというか、難しい曲かも」
「楽譜見ていいですか?」
三喜雄が頷くと、高崎はピアノの椅子にちょこんと座り、楽譜をじっと見つめた。何となくその様子が、家の居間に置かれているビスクドールを思い起こさせた。
☆「さくら横ちょう」加藤周一(詩)
『中田喜直歌曲集』(カワイ出版、2023)掲載を現代仮名遣いに書き換え
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