あいみるのときはなかろう

穂祥 舞

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立夏の頃

5月

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 平日は部活動と音楽の個人レッスン、土日は喫茶店でアルバイトに勤しんでいる三喜雄は、長期休暇に塾の集中講座に行けという両親の命令にノーと言えなかった。高校の職員室に誰か先生が居れば、鍵を開けてもらい音楽室を使ってもいいと小山から聞いていたので、本当は歌とピアノの練習をしたかったのだが。
 普段三喜雄は自宅で、近所迷惑になってはいけないので、歌はほとんど歌わない。ピアノの練習は、姉がかつて気紛れで親に買わせたキーボードの音量を落として、何とかできなくもない。しかし鍵盤の数と重さが全く違うので、たまにはピアノに触らないと駄目だと、藤巻からもピアノの指導者からも言われている。
 春期集中講座の最終日、前日の総仕上げテストを返してもらい、5教科の点数が何とか許されるラインを超えたのを見て、三喜雄は気分を良くしていた。これから学校に行けば、2時間くらいは練習できるかもしれないと思い、三喜雄は急いで自宅に戻った。テストの解答の束を鞄から放り出し、代わりに楽譜を詰め込む。
 陽射しが降り注ぐグラウンドでは、野球部とサッカー部が各々基礎トレーニングに励んでいた。半分くらい花が落ちた桜並木を見ながら校舎に向かう。窓から職員室を覗きこむと、意外と沢山の教員が座っていたので、三喜雄はほっとして校舎に入り、自分の下駄箱を目指す。

「こんにちは、グリークラブの片山ですけど、音楽室とピアノの鍵貸してください」

 三喜雄が声をかけると、近くに座っていた古典の教諭が、あいよ、と言いながら立ち上がった。そして奥の壁に掛かる沢山の鍵の中から2個を選び、三喜雄の顔の前にぶら下げる。

「春期講習どうだった? テストあったんだろ、見せろ」
「あー、今手元に無いです、そんな悪くなかったすよ」

 少なくとも嘘ではない。三喜雄があまり古典が得意でないのを知っていて、教諭が気にしてくれているのは察しがついた。

「穴はできるだけ塞いどけよ、実技第一なのはわかるけど、一応国公立狙ってる身なんだからな」

 ふと気になり、三喜雄は古典教諭に訊いてみる。

「……実技合格点だったのに試験で落ちる人って、結構いるんですかね」
「当たり前だろ、特に国立は実技で下駄履かせてくれるほど甘くないぞ」

 教諭はやや呆れ顔になっていた。やっぱそうですよね、と半ば独り言にしながら、三喜雄は職員室を辞した。こんな話を聞かされると、やはり勉強の時間ももう少し取るべきなのかと考え込んでしまう。
 とぼとぼと3階まで階段を昇り、辿り着いた音楽室の扉を開ける。グリークラブの名前で鍵を借りたが、誰も来なければ、ここは三喜雄の個人練習室である。何となくそのことにさえも罪悪感を覚えつつ、部屋の全ての窓を開け放つ。
 三喜雄は雑念を払い、ピアノの前に座って指慣らしを始めた。ハノンはおそらく実技試験の副科ピアノ曲の課題になる確率が高いので、丁寧に弾く。この間の高崎の均一なタッチも、きっとこういった練習の賜物に違いないと思う。
 あいつ、指長かったな。三喜雄はふと高崎の白い手を思い出す。一見女の手のように綺麗なのに、鍵盤を叩くと節くれ立った男の手になったのが印象的だった。
 淡々と引き続けていると、さすがに飽きてきた。ああ、何か歌おう。三喜雄はコンコーネ50番を譜面台に広げて、ハミングから発声を始める。少しずつ声を出しながら、連休前に1年生に伝えたやり方を、自分だってできてないのにと今更思った。全ての母音を同じように響かせるなんて、プロでも生涯訓練して体得することだ(と藤巻は言う)。
 三喜雄は、今の季節だからと、藤巻がコピーしてくれた楽譜を思い出し、ファイルから出した。中田喜直の「さくら横ちょう」だった。
 今の三喜雄に歌える歌じゃないとばっさり斬っておきながら、もう高校生なんだから、「さくらさくら」や「早春賦」以外の曲も知っておこうと、藤巻は言ったのだった。

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