389 / 474
暁斗のお留守番
11月1日 18:20①
しおりを挟む
片山三喜雄は18時20分に店の前にやってきて、人の良さげな笑顔を見せながら暁斗に向かって手を挙げた。
「こんばんは、お待たせしてすみません……先月はコンサートに来てくださってありがとうございました」
私も着いたところです、と暁斗は応じた。
「ご無沙汰ですね、その話なんかもしたいと思って……あ、この店、外観は垢抜けないですけど雰囲気悪くないですよ」
暁斗は言いながら、奏人の古い知り合いであるバリトン歌手のために、紺色の古い暖簾がかかった手動の引き戸を開けた。店内はカウンター席にまだ空きがあるものの、客で溢れて賑やかだった。
店の奥まった場所にある、がちゃがちゃした空間から少し切り離されたスペースに通してもらい、暁斗はほっと息をつく。
「予約を入れたら、この辺のちょっと落ち着くテーブルが使えるんですよ」
暁斗が言うと、片山は少し眉をハの字にした。
「あ、もしかして私の喉とか気遣ってくださいました?」
「ああ、あまり話すのにぎゃあぎゃあ言わなくていいようにとは、思いましたけど」
付き出しと温かいおしぼりがやってきて、すぐにビールを頼む。片山は手を丁寧に拭きながら微苦笑した。
「そうなんですよ、飲みながらくっちゃべり過ぎて次の日に後悔することは、たまにあって」
この歌手は酒に強くて、一緒に飲みに行った相手をしょっちゅう介抱する羽目に陥ることでも、ファンの間では有名だ。
「でも最近はちょっと酒量を減らしてるというか、本番が増えたのもあるんですけど……」
片山はこの春、全国チェーンのドーナツショップのCMで歌って以降、さりげなく露出が増えてきている。彼の大学院の同期であるイケメンテノール歌手が、一般人に人気が出ている煽りを受けているのもあるだろう。片山本人は自分のことを「しょぼいバリトン」などといつも言うが、クラシックファンの間ではじわじわとマニアックに知名度を上げている。
「お酒はやっぱり喉に良くないんですか」
「良くはないですね……私の家主は私が何か精神的なダメージを受けることがあったら、酒に逃げるんじゃないかと心配してます」
片山は微苦笑の表情を変えないが、公私共々充実しているようだった。彼が「家主」と呼ぶのは、件のドーナツショップと商品をコラボレーションした、ドイツのチョコレートメーカーのCOO、最高執行責任者である。
6月、片山の暮らす田町のマンションが住人の失火で大火事になった。片山はマンションから離れざるを得なくなり、ホテル住まいを強いられたが、7月にその偉いさんの家で間借りすることになった。
奏人は片山から、自分のスポンサーにあたるような人物の自宅に転がり込むことへの迷いを聞かされていた。とはいえ、片山には仕事も舞台もあるので、何よりも落ち着いて練習でき、休める環境が必要だった。そう判断した奏人は、先方が来いと言ってくれているのだから、しばらく世話になればいいとアドバイスしたのだ。
暁斗はもちろん奏人も、片山の家主がどんな人物なのかを聞いていない。ここら辺も、ちょっと突いておきたいところだった。
ビールのジョッキで乾杯すると、片山が暁斗のいきなりの誘いの理由を尋ねてきた。
「ああ、奏人さんが今日から3泊4日で関西なんですよ……今日は奈良で授業です、日曜に京都の大学での学会で発表するらしくて」
「へぇ、それはすごい……高崎の専攻は哲学でしたよね?」
片山は素直に感心した。暁斗は彼の様子に、奏人が意外と彼に対して、自分の情報を提供していないことを知る。
「はい、土曜日はドイツの学者の特別講演があるとか言ってましたね」
「それでその間、桂山さんがおひとりだということで?」
「そうです、おつき合いくださってすみません……部下を誘えば誰かつき合ってくれると思うんですけど、まああちらも上司との飲みは気を遣うでしょうから」
片山が年上の自分とサシ飲みするのに気を遣わない訳が無いので、これはちょっと失礼だったかなと暁斗は思ったが、片山はぱっと笑顔になった。
「ご指名くださってありがとうございます、私もほんと、音楽やってない人と音楽以外の話がしたい時が無性にあるんで」
こういう顔をすると無邪気で可愛らしい、奏人と同世代の育ちの良い男性という感じがするのだが、2000人の前で2時間ソリストとして歌う人種なので、片山を甘く見てはいけない。奏人の言葉を借りれば、「片山さんは常識人だけど、たぶん体内に音楽の怪物を飼ってる」のだそうだ。
「こんばんは、お待たせしてすみません……先月はコンサートに来てくださってありがとうございました」
私も着いたところです、と暁斗は応じた。
「ご無沙汰ですね、その話なんかもしたいと思って……あ、この店、外観は垢抜けないですけど雰囲気悪くないですよ」
暁斗は言いながら、奏人の古い知り合いであるバリトン歌手のために、紺色の古い暖簾がかかった手動の引き戸を開けた。店内はカウンター席にまだ空きがあるものの、客で溢れて賑やかだった。
店の奥まった場所にある、がちゃがちゃした空間から少し切り離されたスペースに通してもらい、暁斗はほっと息をつく。
「予約を入れたら、この辺のちょっと落ち着くテーブルが使えるんですよ」
暁斗が言うと、片山は少し眉をハの字にした。
「あ、もしかして私の喉とか気遣ってくださいました?」
「ああ、あまり話すのにぎゃあぎゃあ言わなくていいようにとは、思いましたけど」
付き出しと温かいおしぼりがやってきて、すぐにビールを頼む。片山は手を丁寧に拭きながら微苦笑した。
「そうなんですよ、飲みながらくっちゃべり過ぎて次の日に後悔することは、たまにあって」
この歌手は酒に強くて、一緒に飲みに行った相手をしょっちゅう介抱する羽目に陥ることでも、ファンの間では有名だ。
「でも最近はちょっと酒量を減らしてるというか、本番が増えたのもあるんですけど……」
片山はこの春、全国チェーンのドーナツショップのCMで歌って以降、さりげなく露出が増えてきている。彼の大学院の同期であるイケメンテノール歌手が、一般人に人気が出ている煽りを受けているのもあるだろう。片山本人は自分のことを「しょぼいバリトン」などといつも言うが、クラシックファンの間ではじわじわとマニアックに知名度を上げている。
「お酒はやっぱり喉に良くないんですか」
「良くはないですね……私の家主は私が何か精神的なダメージを受けることがあったら、酒に逃げるんじゃないかと心配してます」
片山は微苦笑の表情を変えないが、公私共々充実しているようだった。彼が「家主」と呼ぶのは、件のドーナツショップと商品をコラボレーションした、ドイツのチョコレートメーカーのCOO、最高執行責任者である。
6月、片山の暮らす田町のマンションが住人の失火で大火事になった。片山はマンションから離れざるを得なくなり、ホテル住まいを強いられたが、7月にその偉いさんの家で間借りすることになった。
奏人は片山から、自分のスポンサーにあたるような人物の自宅に転がり込むことへの迷いを聞かされていた。とはいえ、片山には仕事も舞台もあるので、何よりも落ち着いて練習でき、休める環境が必要だった。そう判断した奏人は、先方が来いと言ってくれているのだから、しばらく世話になればいいとアドバイスしたのだ。
暁斗はもちろん奏人も、片山の家主がどんな人物なのかを聞いていない。ここら辺も、ちょっと突いておきたいところだった。
ビールのジョッキで乾杯すると、片山が暁斗のいきなりの誘いの理由を尋ねてきた。
「ああ、奏人さんが今日から3泊4日で関西なんですよ……今日は奈良で授業です、日曜に京都の大学での学会で発表するらしくて」
「へぇ、それはすごい……高崎の専攻は哲学でしたよね?」
片山は素直に感心した。暁斗は彼の様子に、奏人が意外と彼に対して、自分の情報を提供していないことを知る。
「はい、土曜日はドイツの学者の特別講演があるとか言ってましたね」
「それでその間、桂山さんがおひとりだということで?」
「そうです、おつき合いくださってすみません……部下を誘えば誰かつき合ってくれると思うんですけど、まああちらも上司との飲みは気を遣うでしょうから」
片山が年上の自分とサシ飲みするのに気を遣わない訳が無いので、これはちょっと失礼だったかなと暁斗は思ったが、片山はぱっと笑顔になった。
「ご指名くださってありがとうございます、私もほんと、音楽やってない人と音楽以外の話がしたい時が無性にあるんで」
こういう顔をすると無邪気で可愛らしい、奏人と同世代の育ちの良い男性という感じがするのだが、2000人の前で2時間ソリストとして歌う人種なので、片山を甘く見てはいけない。奏人の言葉を借りれば、「片山さんは常識人だけど、たぶん体内に音楽の怪物を飼ってる」のだそうだ。
24
あなたにおすすめの小説
BL 男達の性事情
蔵屋
BL
漁師の仕事は、海や川で魚介類を獲ることである。
漁獲だけでなく、養殖業に携わる漁師もいる。
漁師の仕事は多岐にわたる。
例えば漁船の操縦や漁具の準備や漁獲物の処理等。
陸上での魚の選別や船や漁具の手入れなど、
多彩だ。
漁師の日常は毎日漁に出て魚介類を獲るのが主な業務だ。
漁獲とは海や川で魚介類を獲ること。
養殖の場合は魚介類を育ててから出荷する養殖業もある。
陸上作業の場合は獲った魚の選別、船や漁具の手入れを行うことだ。
漁業の種類と言われる仕事がある。
漁師の仕事だ。
仕事の内容は漁を行う場所や方法によって多様である。
沿岸漁業と言われる比較的に浜から近い漁場で行われ、日帰りが基本。
日本の漁師の多くがこの形態なのだ。
沖合(近海)漁業という仕事もある。
沿岸漁業よりも遠い漁場で行われる。
遠洋漁業は数ヶ月以上漁船で生活することになる。
内水面漁業というのは川や湖で行われる漁業のことだ。
漁師の働き方は、さまざま。
漁業の種類や狙う魚によって異なるのだ。
出漁時間は早朝や深夜に出漁し、市場が開くまでに港に戻り魚の選別を終えるという仕事が日常である。
休日でも釣りをしたり、漁具の手入れをしたりと、海を愛する男達が多い。
個人事業主になれば漁船や漁具を自分で用意し、漁業権などの資格も必要になってくる。
漁師には、豊富な知識と経験が必要だ。
専門知識は魚類の生態や漁場に関する知識、漁法の技術と言えるだろう。
資格は小型船舶操縦士免許、海上特殊無線技士免許、潜水士免許などの資格があれば役に立つ。
漁師の仕事は、自然を相手にする厳しさもあるが大きなやりがいがある。
食の提供は人々の毎日の食卓に新鮮な海の幸を届ける重要な役割を担っているのだ。
地域との連携も必要である。
沿岸漁業では地域社会との結びつきが強く、地元のイベントにも関わってくる。
この物語の主人公は極楽翔太。18歳。
翔太は来年4月から地元で漁師となり働くことが決まっている。
もう一人の主人公は木下英二。28歳。
地元で料理旅館を経営するオーナー。
翔太がアルバイトしている地元のガソリンスタンドで英二と偶然あったのだ。
この物語の始まりである。
この物語はフィクションです。
この物語に出てくる団体名や個人名など同じであってもまったく関係ありません。
壁乳
リリーブルー
BL
ご来店ありがとうございます。ここは、壁越しに、触れ合える店。
最初は乳首から。指名を繰り返すと、徐々に、エリアが拡大していきます。
俺は後輩に「壁乳」に行こうと誘われた。
じれじれラブコメディー。
4年ぶりに続きを書きました!更新していくのでよろしくお願いします。
(挿絵byリリーブルー)
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
邪神の祭壇へ無垢な筋肉を生贄として捧ぐ
零
BL
鍛えられた肉体、高潔な魂――
それは選ばれし“供物”の条件。
山奥の男子校「平坂学園」で、新任教師・高尾雄一は静かに歪み始める。
見えない視線、執着する生徒、触れられる肉体。
誇り高き男は、何に屈し、何に縋るのか。
心と肉体が削がれていく“儀式”が、いま始まる。
【完結】 男達の性宴
蔵屋
BL
僕が通う高校の学校医望月先生に
今夜8時に来るよう、青山のホテルに
誘われた。
ホテルに来れば会場に案内すると
言われ、会場案内図を渡された。
高三最後の夏休み。家業を継ぐ僕を
早くも社会人扱いする両親。
僕は嬉しくて夕食後、バイクに乗り、
東京へ飛ばして行った。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる