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夜中のコンビニへの旅路
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「あ、パンが無い」
私が風呂から上がり、水を飲むべくキッチンに入ると、棚の前にいた三喜雄がひとりごちたのが聞こえた。私は咄嗟にしまった、と思った。
最近、私の会社の近くに美味しいベーカリーショップができた。買って帰ると三喜雄に言ったのに、失念していたのだ。
「ごめんなさい、すっかり忘れてました」
私は三喜雄に声をかけ、明日の朝は駅前でモーニングを食べようと提案しようとしたが、予想していなかった返事がくる。
「コンビニにひとっ走りしてきます」
しかしこの周辺にはコンビニが無い。つまり10分ほど歩いて、駅前に行かなくてはならない。時計を見ると、日付けが変わったばかりだった。
「今から?」
「はい、俺まだ風呂入ってないんで……ノアさんは休んでください」
私の責任なので、そういうわけにはいかない。私は水を飲んでから部屋に戻り、外を歩いても差し支えないものに手早く着替えた。
財布片手に、玄関で靴を履きかけていた三喜雄は、私が出てきたのを見て驚く。
「えっ、どうしても食べたいパンがあるなら教えてくれれば……」
「私が忘れてたんだから、行きます」
「また汗かいてしまいますよ」
戻ってシャワーを浴びればいい。私は苦笑する三喜雄と一緒に、熱気が籠る外に出た。
エレベーターを降りてマンションのエントランスを出ると、上階の共用廊下より気温が遥かに高い。まったく、もう今こんな暑さとは、8月になったらどうなるのか。
「あっつ……今ヨーロッパにも熱波来てるんですよね」
三喜雄はのんびりと足を運びながら、言った。私は相槌を打つ。
「大変みたいですよ、死ぬ人も出てますから」
「地球がおかしくなってるんですかね」
そう言って空を仰いだ三喜雄に倣うと、殺人的な暑さとはうらはらな、静かな夜空が目に映った。ほぼ丸の月と、その光に掻き消されてはいるが、少し星明かりが見える。コンビニひとつ無い住宅街ならではの空だ。
人も歩かず車も通らない道を、並んで歩く。
「こんなに静かだと、大声で歌いたくなります」
三喜雄の冗談に、私は笑った。互いに最近忙しく、家で雑談もしていなかったと気づく。
「みんな聴きに出てきたらびっくりするね」
「その前に通報されます、酔っ払いがうるさいって」
三喜雄は突然の夜の散歩を楽しんでいる様子だ。こういう時間がゆっくり持てるよう、できれば休暇に一度、旅行の計画を立ててもいいと思う。
緩く下る道を進み、ひとつ左折すると、賑やかな明かりが見えてきた。この辺から、駅前ゾーンに入る。暗い場所から出てきてほっとすると同時に、二人だけのひとときが途切れる寂しさもあった。
時間が時間だけに歩く人は少ないが、目指すコンビニに普通に出入りがあるのが見えた。
「みんな何を買いに来てるんですかね」
三喜雄は軽い呆れを滲ませた。明日の朝のパンでしょう? と私が答えると、彼はくすっと笑う。
「あと、お酒かも」
「お酒は要りませんよ、冷蔵庫にビールがたくさんあります」
私は三喜雄に釘を刺し、酒飲みの彼はぷっと頬を膨らませたが、こんな会話でさえ楽しい。
日本に来た頃、深夜まで営業しているコンビニエンスストアに対し、私は光熱費と人件費の無駄だと思った。しかし夜中に何かを求めて、大切な人とそこに向かう時、昼間とは違う気持ちが動くのは興味深いと感じる。
三喜雄について自動ドアの中に入った。涼しさに思わずひと息つくと、三喜雄が振り返ってちらっと笑った。だから先に寝ていればいいのにと言いたげだったが、これから買い物と帰路を楽しむのだから、これくらいの暑さは全く何ということもなかった。
*初出 2025.7.13 #創作BL版深夜の60分一本勝負 お題「コンビニ」「深夜」
三喜雄とノアが何をやっている人間なのか、属性がほぼわからない作品ですが、わざとそうしたのだと思います。この2人、こういうひとときがしっくり来始めましたね(勝手にしみじみ)。
私が風呂から上がり、水を飲むべくキッチンに入ると、棚の前にいた三喜雄がひとりごちたのが聞こえた。私は咄嗟にしまった、と思った。
最近、私の会社の近くに美味しいベーカリーショップができた。買って帰ると三喜雄に言ったのに、失念していたのだ。
「ごめんなさい、すっかり忘れてました」
私は三喜雄に声をかけ、明日の朝は駅前でモーニングを食べようと提案しようとしたが、予想していなかった返事がくる。
「コンビニにひとっ走りしてきます」
しかしこの周辺にはコンビニが無い。つまり10分ほど歩いて、駅前に行かなくてはならない。時計を見ると、日付けが変わったばかりだった。
「今から?」
「はい、俺まだ風呂入ってないんで……ノアさんは休んでください」
私の責任なので、そういうわけにはいかない。私は水を飲んでから部屋に戻り、外を歩いても差し支えないものに手早く着替えた。
財布片手に、玄関で靴を履きかけていた三喜雄は、私が出てきたのを見て驚く。
「えっ、どうしても食べたいパンがあるなら教えてくれれば……」
「私が忘れてたんだから、行きます」
「また汗かいてしまいますよ」
戻ってシャワーを浴びればいい。私は苦笑する三喜雄と一緒に、熱気が籠る外に出た。
エレベーターを降りてマンションのエントランスを出ると、上階の共用廊下より気温が遥かに高い。まったく、もう今こんな暑さとは、8月になったらどうなるのか。
「あっつ……今ヨーロッパにも熱波来てるんですよね」
三喜雄はのんびりと足を運びながら、言った。私は相槌を打つ。
「大変みたいですよ、死ぬ人も出てますから」
「地球がおかしくなってるんですかね」
そう言って空を仰いだ三喜雄に倣うと、殺人的な暑さとはうらはらな、静かな夜空が目に映った。ほぼ丸の月と、その光に掻き消されてはいるが、少し星明かりが見える。コンビニひとつ無い住宅街ならではの空だ。
人も歩かず車も通らない道を、並んで歩く。
「こんなに静かだと、大声で歌いたくなります」
三喜雄の冗談に、私は笑った。互いに最近忙しく、家で雑談もしていなかったと気づく。
「みんな聴きに出てきたらびっくりするね」
「その前に通報されます、酔っ払いがうるさいって」
三喜雄は突然の夜の散歩を楽しんでいる様子だ。こういう時間がゆっくり持てるよう、できれば休暇に一度、旅行の計画を立ててもいいと思う。
緩く下る道を進み、ひとつ左折すると、賑やかな明かりが見えてきた。この辺から、駅前ゾーンに入る。暗い場所から出てきてほっとすると同時に、二人だけのひとときが途切れる寂しさもあった。
時間が時間だけに歩く人は少ないが、目指すコンビニに普通に出入りがあるのが見えた。
「みんな何を買いに来てるんですかね」
三喜雄は軽い呆れを滲ませた。明日の朝のパンでしょう? と私が答えると、彼はくすっと笑う。
「あと、お酒かも」
「お酒は要りませんよ、冷蔵庫にビールがたくさんあります」
私は三喜雄に釘を刺し、酒飲みの彼はぷっと頬を膨らませたが、こんな会話でさえ楽しい。
日本に来た頃、深夜まで営業しているコンビニエンスストアに対し、私は光熱費と人件費の無駄だと思った。しかし夜中に何かを求めて、大切な人とそこに向かう時、昼間とは違う気持ちが動くのは興味深いと感じる。
三喜雄について自動ドアの中に入った。涼しさに思わずひと息つくと、三喜雄が振り返ってちらっと笑った。だから先に寝ていればいいのにと言いたげだったが、これから買い物と帰路を楽しむのだから、これくらいの暑さは全く何ということもなかった。
*初出 2025.7.13 #創作BL版深夜の60分一本勝負 お題「コンビニ」「深夜」
三喜雄とノアが何をやっている人間なのか、属性がほぼわからない作品ですが、わざとそうしたのだと思います。この2人、こういうひとときがしっくり来始めましたね(勝手にしみじみ)。
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