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ただ歌が聴こえている
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俺の会社は上野にある、しょぼくれた広告代理店だ。主に大会社の下請けをしていて、親会社の担当者にいつも居丈高な態度を取られ憤懣やるかたないことも多いが、こちらの中は社員が比較的仲が良いのが救いである。
会社周辺には飲食店が多く飲み会の場所には困らない。またこの周辺での飲み会で特徴的なことは、駅の反対側にある芸大の音楽学部の学生が飲んでいることがあり、同じ店にいるとたまに酔っ払って演奏してくれる。特に声楽科の学生たちのノリが突き抜けていて、手拍子をするといくらでも歌ってくれるのだ。
俺はこの会社に10年勤めているから、これまで歌ってくれた彼ら彼女らのうち何人かは、きっと歌手として活躍しているのだろうと思う。でもクラシックに興味が無いので、あの時の子だ、と会社で話題になったことはない。まあ、こちらも馬鹿ほど飲んでいるので、学生たちの顔を覚えていないのだが。
その年の社の暑気払いでは、2次会でカラオケボックスに繰り出した。取引先への鬱憤を晴らすべく、ビールをがぶがぶ飲みながら大騒ぎしていると、歌の切れ目でいきなり部屋のドアが開いた。フライドポテトを持って来た店員だとばかり思っていた俺たちは、そこに見知らぬ若い男性が立っていたので、一斉に固まった。
しんとする中、彼は明らかに躊躇ったが、後ろに立つ女性に背中を突かれて話し出す。
「お楽しみのところすみません、私そこの芸大の声楽専攻の学生なんですけど、1曲歌わせてもらえませんか?」
俺たちは互いに顔を見合わせて、いいよ! おっけ! いらっしゃい! とすぐに彼を歓迎した。声楽専攻と言ったので、もしかすると院生かもしれない。上手いことはわかっているので、皆異存は無く、むしろ楽しみだった。
中肉中背のやや可愛らしい顔立ちの男性は、ぺこりと頭を下げて部屋に入ってきた。連れの女性が、これは彼が前期試験での賭けに負けた罰ゲームで、これから証拠のために撮影するが、皆さんの顔は映らないようにすると律儀に説明した。
「え、別に映ってもいいし、俺たちも撮影していい?」
俺の後輩が訊くと、2人はあっさりと承諾した。さすが肝が据わっている。
「私が知ってる曲でしたら、リクエストにお応えします」
彼の言葉に、おおっ、と俺たちは感嘆の声を上げて曲を探す。彼がゆったりした曲のほうが得意かも、と言うので、バラードをリサーチする。1年先輩の女性が、こともあろうに女性ヴォーカルの名曲をリクエストしたが、彼は歌えると言った。
「ありがとうございます、ではお耳汚しではございますが」
言い回しが可笑しい。彼も飲んでいるのだろう。くすくす笑いが起こる中、三線の前奏が始まり、彼はすっと立ち姿を整えて歌い始めた。
「『何故に陽炎はゆらめいて……黄泉へと誘う澪標か」』
彼はマイクをかなり離していたが、クラシックらしくない少し息混じりの声は、部屋の中を優しく満たした。え、めちゃいい声、とリクエストした先輩がスマホ片手に身を乗り出す。
彼の顔に似合わない、しっとりした美声に俺も驚いた。間奏の後、彼は沖縄風のあのしゃくりまで巧みに入れ始める。
実のところ、俺はこの曲をあまり聴きたくなかった。社会人になって知り合い交際していた、奄美出身の恋人を思い出すからだ。
その人はたまに三線やギターで弾き語りをしてくれ、俺は彼の部屋でいつも歌をせがみ、この曲も何度か聴かせてくれたのだった。しかし、故郷で家業を継がなくてはならなくなった恋人に俺がついて行くことは叶わず、別れるしかなかった。
「『だけどずっと、ああずっと、此処にいてあげる……ただ風が吹いている』」
俺の古傷を、若い歌手の声がそっと撫でていく。不思議だったが、不愉快ではなかった。声が似ているわけではないのに、優しく包み込まれる感じが懐かしかった。
後奏の三線の音が消えると、部屋の中は拍手喝采になり、泣いている者もいた。俺も、涙を堪えるのが大変だった。
平凡な容姿の美声の歌手は、何度も頭を下げて、ありがとうございます、と笑顔で言った。
10年後。あの歌手は、300人が入るコンサートホールでソロコンサートをするまでになっていた。俺たちの酒の席で歌ってくれた若者たちの中で、俺が唯一、その後のことを調べた歌い手だ。
俺はこれから彼の歌を、奄美から出てきてくれる恋人と聴きに行く。あの時このバリトン歌手が歌った歌が、俺の背中を押した。もう一度会いたいという俺の言葉に、恋人が応えてくれた。若い頃よりもお互いを思いやる気持ちが増したようで、そうしばしば会えないけれど、8年間遠距離恋愛中だ。
だからこの歌手が、恋人と俺とを再び繋いでくれたと、俺は勝手に感謝している。
挿入歌「ただ風が吹いている」 元ちとせ(2004)/岡本定義(詞・曲)
*初出 2024.7.14 #創作BL版深夜の60分一本勝負 お題「カラオケ」「イケボ」
会社周辺には飲食店が多く飲み会の場所には困らない。またこの周辺での飲み会で特徴的なことは、駅の反対側にある芸大の音楽学部の学生が飲んでいることがあり、同じ店にいるとたまに酔っ払って演奏してくれる。特に声楽科の学生たちのノリが突き抜けていて、手拍子をするといくらでも歌ってくれるのだ。
俺はこの会社に10年勤めているから、これまで歌ってくれた彼ら彼女らのうち何人かは、きっと歌手として活躍しているのだろうと思う。でもクラシックに興味が無いので、あの時の子だ、と会社で話題になったことはない。まあ、こちらも馬鹿ほど飲んでいるので、学生たちの顔を覚えていないのだが。
その年の社の暑気払いでは、2次会でカラオケボックスに繰り出した。取引先への鬱憤を晴らすべく、ビールをがぶがぶ飲みながら大騒ぎしていると、歌の切れ目でいきなり部屋のドアが開いた。フライドポテトを持って来た店員だとばかり思っていた俺たちは、そこに見知らぬ若い男性が立っていたので、一斉に固まった。
しんとする中、彼は明らかに躊躇ったが、後ろに立つ女性に背中を突かれて話し出す。
「お楽しみのところすみません、私そこの芸大の声楽専攻の学生なんですけど、1曲歌わせてもらえませんか?」
俺たちは互いに顔を見合わせて、いいよ! おっけ! いらっしゃい! とすぐに彼を歓迎した。声楽専攻と言ったので、もしかすると院生かもしれない。上手いことはわかっているので、皆異存は無く、むしろ楽しみだった。
中肉中背のやや可愛らしい顔立ちの男性は、ぺこりと頭を下げて部屋に入ってきた。連れの女性が、これは彼が前期試験での賭けに負けた罰ゲームで、これから証拠のために撮影するが、皆さんの顔は映らないようにすると律儀に説明した。
「え、別に映ってもいいし、俺たちも撮影していい?」
俺の後輩が訊くと、2人はあっさりと承諾した。さすが肝が据わっている。
「私が知ってる曲でしたら、リクエストにお応えします」
彼の言葉に、おおっ、と俺たちは感嘆の声を上げて曲を探す。彼がゆったりした曲のほうが得意かも、と言うので、バラードをリサーチする。1年先輩の女性が、こともあろうに女性ヴォーカルの名曲をリクエストしたが、彼は歌えると言った。
「ありがとうございます、ではお耳汚しではございますが」
言い回しが可笑しい。彼も飲んでいるのだろう。くすくす笑いが起こる中、三線の前奏が始まり、彼はすっと立ち姿を整えて歌い始めた。
「『何故に陽炎はゆらめいて……黄泉へと誘う澪標か」』
彼はマイクをかなり離していたが、クラシックらしくない少し息混じりの声は、部屋の中を優しく満たした。え、めちゃいい声、とリクエストした先輩がスマホ片手に身を乗り出す。
彼の顔に似合わない、しっとりした美声に俺も驚いた。間奏の後、彼は沖縄風のあのしゃくりまで巧みに入れ始める。
実のところ、俺はこの曲をあまり聴きたくなかった。社会人になって知り合い交際していた、奄美出身の恋人を思い出すからだ。
その人はたまに三線やギターで弾き語りをしてくれ、俺は彼の部屋でいつも歌をせがみ、この曲も何度か聴かせてくれたのだった。しかし、故郷で家業を継がなくてはならなくなった恋人に俺がついて行くことは叶わず、別れるしかなかった。
「『だけどずっと、ああずっと、此処にいてあげる……ただ風が吹いている』」
俺の古傷を、若い歌手の声がそっと撫でていく。不思議だったが、不愉快ではなかった。声が似ているわけではないのに、優しく包み込まれる感じが懐かしかった。
後奏の三線の音が消えると、部屋の中は拍手喝采になり、泣いている者もいた。俺も、涙を堪えるのが大変だった。
平凡な容姿の美声の歌手は、何度も頭を下げて、ありがとうございます、と笑顔で言った。
10年後。あの歌手は、300人が入るコンサートホールでソロコンサートをするまでになっていた。俺たちの酒の席で歌ってくれた若者たちの中で、俺が唯一、その後のことを調べた歌い手だ。
俺はこれから彼の歌を、奄美から出てきてくれる恋人と聴きに行く。あの時このバリトン歌手が歌った歌が、俺の背中を押した。もう一度会いたいという俺の言葉に、恋人が応えてくれた。若い頃よりもお互いを思いやる気持ちが増したようで、そうしばしば会えないけれど、8年間遠距離恋愛中だ。
だからこの歌手が、恋人と俺とを再び繋いでくれたと、俺は勝手に感謝している。
挿入歌「ただ風が吹いている」 元ちとせ(2004)/岡本定義(詞・曲)
*初出 2024.7.14 #創作BL版深夜の60分一本勝負 お題「カラオケ」「イケボ」
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