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鍵にはリボン
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奏人がアメリカから戻った時、海外からの帰国者はホテルに強制隔離されていた。暁斗は奏人のため差し入れをホテルに持ってきて、隔離期間をじっと待ち、大きなスーツケースごと新居に迎え入れてくれた。今となっては、懐かしい思い出だ。
留学に行く前に、それまで暮らしていた場所を一切合切引き払い、実家に帰る選択も無かった奏人にとって、帰る場所があるとしたら、暁斗の傍だけだった。
とは言え、奏人さんを待っているという暁斗の言葉を、奏人自身は100パーセント信用していなかったのかもしれない。だから、ふたりで暮らすための新居を整えたと暁斗から言われた時の驚きは、結構大きかった。
一緒に暮らし始めて3年目、今は奏人のほうが帰宅が早い日が多い。
「ただいま」
暁斗が帰ってきた。奏人は一旦コンロの火を止めて、ダイニングの扉から首だけ出す。靴を脱いで上がってくる彼に、応じた。
「おかえりなさい」
それだけなのだが、元々実家と折り合いが良くなく、大学生になって以降ずっと独りで暮らしてきた奏人は、僕に家庭があるんだなぁと思う。その瞬間いつも、身体の深い場所がぽっと温かくなるのだ。
リビングに入ってすぐの場所に、壁掛けのポケットがぶら下がっている。暁斗はいつものように、一番上のポケットに青いリボンのついた鍵を入れようとしたが、シチューの匂いに気を取られたのか、入れ損ねた。
「あっ」
暁斗の声がして、かちゃん、とフローリングに硬質の音が立つ。奏人は自分の足許に飛んできた銀色のものを拾った。
つまみ上げたそれを見つめ、奏人は自分の顔に、思い出し笑いが浮かんだのを感じた。
ありがと、と奏人に手を差し出した暁斗は、連れ合いの笑みを不思議そうに見つめた。
「……どした?」
「え? あのね、暁斗さんがこの合鍵を初めて僕に渡してくれた時のこと思い出してる」
奏人の言葉に、暁斗も微笑した。
暁斗は以前は2階下、5階の1LDKに住んでいた。奏人は留学前にその部屋にお邪魔するようになり、暁斗から渡された合鍵を、お守り代わりにアメリカに持って行っていた。
一緒に住む部屋が同じマンションの中に見つかったと暁斗が言うので、奏人はエアメイルで合鍵を送り返したのだが、7階の2LDKのこの部屋に来て渡された鍵は、前のものと全く一緒に見えた。
当たり前だった。同じマンションなのだから。しかし奏人は、からかわれていると咄嗟に思い(おそらく帰国の疲れと隔離生活の緊張感で頭が働いていなかった)、それを真剣に伝えて暁斗に爆笑されたのだ。
「あれさぁ、今思っても暁斗さん笑い過ぎだったと思うんだよね」
奏人はぼやきモードになり、ポケットの中に暁斗の鍵を入れた。ぽすっと間の抜けた音がする。暁斗がふふっと笑いながら言った。
「ごめん、あの後奏人さんが壊れたとガチで心配になったな」
「まあ、多少壊れてたけど……でもわざわざ、前の鍵と同じように赤いリボンまでつけてるし」
「奏人さんのことだから、鍵には赤いリボンとかこだわりがあるのかと思ったんだよ」
どんなこだわりなんだ、と言いそうになったが、確かに今も奏人の鍵には赤いリボンが結ばれているため、苦笑しか出ない。
まあとにかく、夕飯を始めた。今シーズン最後になりそうな、クリームシチューを食べる。
「あ、僕月曜日、大学の卒業式に出席するつもり」
奏人が奈良の大学に勤務するのは金曜のみだが、見送りたい学生たちがいた。本業は有給休暇を取っている。
そうなのか、と暁斗はスプーン片手に応じた。
「じゃあ月曜は俺のほうが早いかな?」
「もしかしたらそうなるかも、あっちに夕方までは居ないと思うけど」
月曜日は、奏人がただいまと呼びかけるほうだ。おかえりと返してくれる人が家に居るのは、自分がおかえりと言うよりも、嬉しいかもしれない。
シチューのじゃがいもを口に入れて、熱さにはふはふ言っている暁斗を見て、奏人の胸の中にふわりと優しいものが広がった。
*初出 2025.3.22 #創作BL版深夜の60分一本勝負 お題「合鍵」「ただいま」
うちのカップルたちは割とナチュラルに半同棲や同居を始めてしまうので、「えっ、この鍵を……俺に?(胸がどきどき)」という場面が思いつかなくて、このお題をもらった時に困りました。で、暁斗がアメリカに居る奏人に、「鍵を大家さんに返すからなるべく早くに送ってほしい」とリモートで頼んだことを思い出したんですね。こやつらが一緒に暮らし始めたばかりの頃のエピソードは少ないほうなので、書いていて勝手に新鮮でした。
留学に行く前に、それまで暮らしていた場所を一切合切引き払い、実家に帰る選択も無かった奏人にとって、帰る場所があるとしたら、暁斗の傍だけだった。
とは言え、奏人さんを待っているという暁斗の言葉を、奏人自身は100パーセント信用していなかったのかもしれない。だから、ふたりで暮らすための新居を整えたと暁斗から言われた時の驚きは、結構大きかった。
一緒に暮らし始めて3年目、今は奏人のほうが帰宅が早い日が多い。
「ただいま」
暁斗が帰ってきた。奏人は一旦コンロの火を止めて、ダイニングの扉から首だけ出す。靴を脱いで上がってくる彼に、応じた。
「おかえりなさい」
それだけなのだが、元々実家と折り合いが良くなく、大学生になって以降ずっと独りで暮らしてきた奏人は、僕に家庭があるんだなぁと思う。その瞬間いつも、身体の深い場所がぽっと温かくなるのだ。
リビングに入ってすぐの場所に、壁掛けのポケットがぶら下がっている。暁斗はいつものように、一番上のポケットに青いリボンのついた鍵を入れようとしたが、シチューの匂いに気を取られたのか、入れ損ねた。
「あっ」
暁斗の声がして、かちゃん、とフローリングに硬質の音が立つ。奏人は自分の足許に飛んできた銀色のものを拾った。
つまみ上げたそれを見つめ、奏人は自分の顔に、思い出し笑いが浮かんだのを感じた。
ありがと、と奏人に手を差し出した暁斗は、連れ合いの笑みを不思議そうに見つめた。
「……どした?」
「え? あのね、暁斗さんがこの合鍵を初めて僕に渡してくれた時のこと思い出してる」
奏人の言葉に、暁斗も微笑した。
暁斗は以前は2階下、5階の1LDKに住んでいた。奏人は留学前にその部屋にお邪魔するようになり、暁斗から渡された合鍵を、お守り代わりにアメリカに持って行っていた。
一緒に住む部屋が同じマンションの中に見つかったと暁斗が言うので、奏人はエアメイルで合鍵を送り返したのだが、7階の2LDKのこの部屋に来て渡された鍵は、前のものと全く一緒に見えた。
当たり前だった。同じマンションなのだから。しかし奏人は、からかわれていると咄嗟に思い(おそらく帰国の疲れと隔離生活の緊張感で頭が働いていなかった)、それを真剣に伝えて暁斗に爆笑されたのだ。
「あれさぁ、今思っても暁斗さん笑い過ぎだったと思うんだよね」
奏人はぼやきモードになり、ポケットの中に暁斗の鍵を入れた。ぽすっと間の抜けた音がする。暁斗がふふっと笑いながら言った。
「ごめん、あの後奏人さんが壊れたとガチで心配になったな」
「まあ、多少壊れてたけど……でもわざわざ、前の鍵と同じように赤いリボンまでつけてるし」
「奏人さんのことだから、鍵には赤いリボンとかこだわりがあるのかと思ったんだよ」
どんなこだわりなんだ、と言いそうになったが、確かに今も奏人の鍵には赤いリボンが結ばれているため、苦笑しか出ない。
まあとにかく、夕飯を始めた。今シーズン最後になりそうな、クリームシチューを食べる。
「あ、僕月曜日、大学の卒業式に出席するつもり」
奏人が奈良の大学に勤務するのは金曜のみだが、見送りたい学生たちがいた。本業は有給休暇を取っている。
そうなのか、と暁斗はスプーン片手に応じた。
「じゃあ月曜は俺のほうが早いかな?」
「もしかしたらそうなるかも、あっちに夕方までは居ないと思うけど」
月曜日は、奏人がただいまと呼びかけるほうだ。おかえりと返してくれる人が家に居るのは、自分がおかえりと言うよりも、嬉しいかもしれない。
シチューのじゃがいもを口に入れて、熱さにはふはふ言っている暁斗を見て、奏人の胸の中にふわりと優しいものが広がった。
*初出 2025.3.22 #創作BL版深夜の60分一本勝負 お題「合鍵」「ただいま」
うちのカップルたちは割とナチュラルに半同棲や同居を始めてしまうので、「えっ、この鍵を……俺に?(胸がどきどき)」という場面が思いつかなくて、このお題をもらった時に困りました。で、暁斗がアメリカに居る奏人に、「鍵を大家さんに返すからなるべく早くに送ってほしい」とリモートで頼んだことを思い出したんですね。こやつらが一緒に暮らし始めたばかりの頃のエピソードは少ないほうなので、書いていて勝手に新鮮でした。
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