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第2話
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「あれから1年と少しか…」
京子は函館に向かう船の上にいた。
この船は連絡船や遊覧船の類ではない。
ソ連に侵略された樺太、今はサハリンと呼ばれているのであろうか、そこから引き揚げてきた大勢の日本人を乗せた船だ。
京子を横目で見ながら話をしている男たちがいる。
「あいつか、一人だけ生き残ったっていうのは。」
「仲間に毒を飲ませて、みんなが死ぬのを待ってから逃げ出したっていう話だ。」
「いや、俺が聞いた話では、助かりたいために露助にやらせたらしいぞ。」
その声は京子の耳にも入ってきた。
多分、彼女に聞こえるようにわざと大きな声で話しているのであろう。
「あんたたちに何が分かるっていうの。」
胸の中でそうつぶやくと、彼女はその場を離れた。
「函館山が見えるぞ!」
夢にまで見た北海道だ。
やっと来ることができたんだ。
船が岸壁につくと多くの日本人難民が下船を始めた。
露助にすべてを奪われ着の身着のまま、乞食同然の姿をした者たちがひしめいている。
その中に、お腹の大きな女が何人かいる。
しかも、彼女たちは人目を避けるように隅に固まっている。
我が子の誕生を待ち望むような幸せそうな表情を浮かべてはいない。
何か決して背負ってはいけないものを背負わされたとでも言うような表情だ。
上陸手続きを済ませた京子の目に、ひとつの看板が映り込んだ。
「特殊婦人はこちらへお越しください」
お腹の大きな女たちが、看板の掲げてある建物の方へ向かっていった。
そこでは、白い服を着た看護婦たちが忙しそうに出入りしている。
同じ女として、彼女たちのおかれた状況がどういうものなのかは京子にも察しがついた。
「麻酔も医療機器も不足しています。とても痛みますが、よろしいですか。」
股を広げ診察台に横たわる女に医者が声をかけている。
激痛が走っているはずなのだが、女は一言も声を発せず、瞬きもせず、黙って天井を見ている。
涙すら流さずに。
そうして、いくつもの小さな命がここで取り出された。
中には、手術をするには手遅れとなり、出産する者もいる。
生まれた赤ん坊は明らかに日本人の顔ではない。
赤い髪、高い鼻…
生まれたばかりの赤ん坊が泣き声をあげる前に、看護婦は赤ん坊の口をふさぎバケツの水の中へ沈めた。
そして、息を吹き返さないよう、医者が赤ん坊の柔らかい頭にメスを突き刺した。
バケツの中でその短い人生を終える我が子の横で、表情ひとつ変えない母親。
赤ん坊の父親は、自分の子どもの存在も、その生涯も、知ることはないであろうし、一片の関心すら持たずに異国の地で日常を送っているに違いない。
医者も看護婦も横たわる女も、すべての者がその感情を捨て去り、あたかも機械のようになってしまっている。
機械になることでしか、今のこの瞬間を耐えることができないのであろう。
そう、ここで行われているのは医療などではない、作業だ…
医者も看護婦もここには存在しない。
作業員が黙々と作業をこなしているだけだ…
いくつかある診察台では、母娘が並んで横たわり処置を受けている姿まである。
娘の目からは、ひとすじの涙が流れていた。
それを見て母親がつぶやいた。
「ちくしょう…」
母は40前か、娘は15か16くらいか。
その歳で地獄を見せられたのだ。
露助どもの手によって。
声にならない怨嗟の叫びが聞こえるような建物に背を向け、京子は函館駅の方へ歩きだした。
その時、彼女に声をかける者がいた。
「京子ちゃん、京子ちゃんじゃないの?」
声のする方を振り返ると、そこには、磯風ハナエがいた。
彼女はトミ子の妹だ。
「京子ちゃん。お姉ちゃんのことを教えて。」
「お姉ちゃんはどうして死んだの。」
ハナエは懇願するような顔で京子に問いかけた。
しかし、京子は後ずさりしながらこう答えた。
「ごめん、何も見てないの、何も知らないの。」
そして、彼女は函館駅のホームに停まっている列車の方へ走り去った。
いや、逃げ去ったと言った方がいいだろう。
「待って京子ちゃん、京子ちゃん!」
ハナエの呼び止める声に振り向きもせず、京子は函館駅の雑踏の中に姿を消した。
「ハナエちゃん、ごめん。私が卑怯だったの、あなたのお姉ちゃんは勇敢で立派だったの。」
「それだけのことなのよ…」
京子は函館に向かう船の上にいた。
この船は連絡船や遊覧船の類ではない。
ソ連に侵略された樺太、今はサハリンと呼ばれているのであろうか、そこから引き揚げてきた大勢の日本人を乗せた船だ。
京子を横目で見ながら話をしている男たちがいる。
「あいつか、一人だけ生き残ったっていうのは。」
「仲間に毒を飲ませて、みんなが死ぬのを待ってから逃げ出したっていう話だ。」
「いや、俺が聞いた話では、助かりたいために露助にやらせたらしいぞ。」
その声は京子の耳にも入ってきた。
多分、彼女に聞こえるようにわざと大きな声で話しているのであろう。
「あんたたちに何が分かるっていうの。」
胸の中でそうつぶやくと、彼女はその場を離れた。
「函館山が見えるぞ!」
夢にまで見た北海道だ。
やっと来ることができたんだ。
船が岸壁につくと多くの日本人難民が下船を始めた。
露助にすべてを奪われ着の身着のまま、乞食同然の姿をした者たちがひしめいている。
その中に、お腹の大きな女が何人かいる。
しかも、彼女たちは人目を避けるように隅に固まっている。
我が子の誕生を待ち望むような幸せそうな表情を浮かべてはいない。
何か決して背負ってはいけないものを背負わされたとでも言うような表情だ。
上陸手続きを済ませた京子の目に、ひとつの看板が映り込んだ。
「特殊婦人はこちらへお越しください」
お腹の大きな女たちが、看板の掲げてある建物の方へ向かっていった。
そこでは、白い服を着た看護婦たちが忙しそうに出入りしている。
同じ女として、彼女たちのおかれた状況がどういうものなのかは京子にも察しがついた。
「麻酔も医療機器も不足しています。とても痛みますが、よろしいですか。」
股を広げ診察台に横たわる女に医者が声をかけている。
激痛が走っているはずなのだが、女は一言も声を発せず、瞬きもせず、黙って天井を見ている。
涙すら流さずに。
そうして、いくつもの小さな命がここで取り出された。
中には、手術をするには手遅れとなり、出産する者もいる。
生まれた赤ん坊は明らかに日本人の顔ではない。
赤い髪、高い鼻…
生まれたばかりの赤ん坊が泣き声をあげる前に、看護婦は赤ん坊の口をふさぎバケツの水の中へ沈めた。
そして、息を吹き返さないよう、医者が赤ん坊の柔らかい頭にメスを突き刺した。
バケツの中でその短い人生を終える我が子の横で、表情ひとつ変えない母親。
赤ん坊の父親は、自分の子どもの存在も、その生涯も、知ることはないであろうし、一片の関心すら持たずに異国の地で日常を送っているに違いない。
医者も看護婦も横たわる女も、すべての者がその感情を捨て去り、あたかも機械のようになってしまっている。
機械になることでしか、今のこの瞬間を耐えることができないのであろう。
そう、ここで行われているのは医療などではない、作業だ…
医者も看護婦もここには存在しない。
作業員が黙々と作業をこなしているだけだ…
いくつかある診察台では、母娘が並んで横たわり処置を受けている姿まである。
娘の目からは、ひとすじの涙が流れていた。
それを見て母親がつぶやいた。
「ちくしょう…」
母は40前か、娘は15か16くらいか。
その歳で地獄を見せられたのだ。
露助どもの手によって。
声にならない怨嗟の叫びが聞こえるような建物に背を向け、京子は函館駅の方へ歩きだした。
その時、彼女に声をかける者がいた。
「京子ちゃん、京子ちゃんじゃないの?」
声のする方を振り返ると、そこには、磯風ハナエがいた。
彼女はトミ子の妹だ。
「京子ちゃん。お姉ちゃんのことを教えて。」
「お姉ちゃんはどうして死んだの。」
ハナエは懇願するような顔で京子に問いかけた。
しかし、京子は後ずさりしながらこう答えた。
「ごめん、何も見てないの、何も知らないの。」
そして、彼女は函館駅のホームに停まっている列車の方へ走り去った。
いや、逃げ去ったと言った方がいいだろう。
「待って京子ちゃん、京子ちゃん!」
ハナエの呼び止める声に振り向きもせず、京子は函館駅の雑踏の中に姿を消した。
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「それだけのことなのよ…」
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