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第4話

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 あの事件から半年近くが経とうとしていた。

 あの日以来、尊なりに兵吉の消息を調べようと、担任の鈴谷に尋ねてみたり、兵吉の親戚の家を回ってみたりもしたが、徒労に終わるだけだった。
 知っていても話すことができないのか、そもそも知らないのか。
 そんな尊の行動を校長や一部の教師は苦々にがにがしく思っていたに違いない。

 何も手掛かりがつかめない中、次第に兵吉のことは誰も口に出すことはなくなり、まるで事件そのものがなかったかのような、兵吉自身が存在しなかったかのような、そんな気さえしてきた。
 ただ、暴行を受けた生徒のひたいには大きな傷が残り、その傷だけが、事件のあかしであり、兵吉が存在した証でもあった。

 そして雪が解け春が訪れ、尊たちは高等小学校を卒業することとなった。

 尊と正二はお互いのこれからについて話していたのだが、そこには当然ながら兵吉の姿はなく、ふたりにとって笑顔での卒業というわけではなかった。

「尊、お前はこれからどうするんだ。」

「働くよ。俺の家は貧乏だからな。父さんが亡くなってるから、俺が働かないと。母さんにばかり苦労させたくないし、妹もまだ小さいしな。」

「何だかもったいないな。お前の頭なら師範しはん学校もねらえたろうに。あそこは授業料がかからないっていうし。そもそも、高等小学校なんかに来ないで、中学にだって行けたはずだ。」

「いいんだ、高等小学校へ行けただけでも。それで充分だ。」

 尊は、空を見上げながらこれからのことを考えていた。
 貧しい中、自分を高等小学校へ通わせるために母は相当な苦労をしており、家計も苦しいに違いない。
 しかし、母はそんなことは絶対に口には出さなかった。
 だからこそ、これからは自分が働くことで母を助け、妹を育てなくてはならない。

「ところで正二、お前の方こそどうするんだ。」

 話題を変えようと、尊は正二に質問を投げかけた。

「もちろん働くよ。うちのところは、兄ちゃんが兵隊に行ってるからな。どこの家も似たようなもんだ。」

 そうだ、どこも同じだ。
 ここは都会と違って金銭的にゆとりのある家は少ない。
 あったとしても、役人か教師か駐在の家くらいしかないだろう。
 正直に言うと、高等小学校ではなく中学へ行きたかった。さらには、その上の高等学校や帝国大学にだって。
 しかし、今の自分には、明日の百円よりも、今日の拾円じゅうえん、いや壱円いちえんの方が大切だ。
 生まれたのが都会なのか田舎なのか、どんな家庭に生まれたのか、それによって人生の選択肢が決まってしまうのは仕方のないことだ。

 ましてや、どの民族に生まれたのかさえも…。


 当時の北海道には大小いくつもの炭鉱が存在した。
 そのような危険なところであれば、それなりの賃金をもらうことができたのであろうが、父が炭鉱事故で亡くなったことや母の気持ちを考えると、炭鉱で働こうという気にはなれなかった。
 この地域は農村地帯でもあり、出面取でめんとりと呼ばれる農作業の手伝いのほかに、日雇ひやといの土木作業や、駅での荷役にえき作業、冬の間の鉄道線路の除雪など、金になることなら何でもやるしかなかった。

「まだ子どもなのにたいしたもんだな。」

「母さんも大助かりだろ。」

 アイヌだと陰口を言っていた者も、尊の真面目な働きぶりを見ているうちに考えが変わったのか、何か仕事があるたびに声をかけてくれるようになった。

 まだ自動車が広く普及ふきゅうしておらず、さらに道路の除雪もままならない北海道では鉄道は大切な運送と移動の手段であった。
 しかし、大雪おおゆきが降ってしまうと、たちまち鉄道の運行が止まってしまう。
 これを防ぐため、徹夜で駅構内や線路上の除雪をすることがある。

「明日は大雪らしい。駅と線路の除雪をするから人を集めているっていう話だ。一緒に行かないか。」

 いつも尊に親切にしてくれる青年に声をかけられたので、母に除雪の仕事が入ったことを告げ駅へと向かった。

「雪かきしたそばから降ってきやがる。1時間もすれば膝のところまで積もってしまう。ひどいもんだ。」

「朝まで放っておいたら腰のあたりまで来て、汽車も走れんくなるぞ。」

 そんなことを話しながら、スコップを使って除雪作業を行い、朝になる頃には湯でも浴びたかのように汗びっしょりとなっていた。
 人夫にんぷたばねる監督がやってきて、その日の賃金を渡し始めた。
 もちろん尊にも金が渡されたが、何だかおかしい。
 いくらもらったなどという同僚の話し声が聞こえてきたのだが、それが疑問をさらに大きなものにした。

 尊は思い切って監督に尋ねてみた。

「同じ仕事をしているのに、俺の賃金が少ないような気がするのですが。」

「はあ、そういうもんなんだよ。若いんだから仕方ないだろ。」

「そんな馬鹿な。俺よりもらっている同じ歳の者もいる。」

 学校でからかわれた時は何だって我慢することができたのだが、家族を支えるために働いている身としては、どうしても言わずにはいられなかった。
 しかし、そんな尊の気持ちをつぶすかのような言葉が返ってきた。

「だったら何なんだよ。そういうことなんだよ、言わなくたって分かるだろ。いやなら次から来なくていいけど、どうするよ。」

 その時、尊をこの仕事に誘った青年が間に入ってくれた。

「監督さん、何もそこまで言わんでも。それに…」

「もういいんです。」

 尊は青年のことばをさえぎるように言った。
 これ以上、ことを大きくしたくなかったのと、この親切な青年に迷惑をかけたくなかったからだ。

 父さんもこんなことに耐えながら働いていたんだろうな、もう言うのはやめよう、「やっぱりアイヌって連中は…」などと言われるだけだ。

 くやしくはあったが、味方をしてくれた青年の顔を見ると、少しだが救われたような思いでもあった。


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