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第8章

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 海底トンネルを掘るための準備である立坑たてこうを掘るのが、私たちに与えられた仕事だった。
 こんな辺境の地に海底トンネルなど掘るのは、共産主義国家か独裁国家くらいのものだろう。
 投資した金額を回収できるはずもない工事を行うとは、いや待てよ、賃金が支払われていないから人件費は回収しなくてもいいのか。
 工事が終わるころにラーゲリの囚人しゅうじんが死んでくれればいい、死んでいなければ次の工事現場に送るだけ。
 まるで工事用の機械か消耗品、壊れて修理不能になるまで使い倒すわけだ。
 そんなことを考えながら、自分の墓穴でも掘るがごとく、立坑の穴掘りを行った。


 建設資材を運び、土砂を運び、そんなことを繰り返す毎日であったが、常に危険と隣り合わせであった。
 積み上げた資材がくずれる、重機に巻き込まれる、普通なら避けられる危険でも、空腹ゆえ注意力もまともにないような状態では、どうしようもなかった。
「ガラガラ!!」という轟音ごうおんとともに鉄骨が崩れ、下敷きになった者がいた。
 以前、ここが海峡であることを教えてくれたハンガリーのインテリである。

「大丈夫か!」

 一見して大丈夫ではないと分かる状態である彼に対し、そのように聞くこと自体が無意味でもあり、大丈夫だと答えが返ってくるはずもなかった。
 インテリを担いでラーゲリにいるたった一人の医者のもとへ走った。
 ここに医者がいることは知っていたが、我々囚人が医者に会うのは死ぬ時と相場そうばが決まっていた。


「先生、鉄骨の下敷きになったんだ。」

 そう言って、診察台ともいえないような木の台の上にインテリをせた。
 しかし、医者は患者の様子を確認するとすぐに手を止めてしまった。
 すでにインテリの心臓は止まっていたのだ。

 次の瞬間、私は医者の顔を見て息をのんだ。
 ワルシャワで別れたオーストリア人医師ハルダーであった。

「ハルダー先生ではないですか。ワルシャワでお会いした山城賢二です。」

 怪訝けげんな顔をする医者であったが、私のことを思い出したようだ。

「君か。生きていたのか。」

「先生の方こそ、よくご無事で。」

「あの後、シベリアを転々として、今はここにいるというわけだ。君はどうしてたんだ。」

「私も似たようなものです。」

「シェリングはどこにいるのかね。」

「彼とはワルシャワで別れたきりで…。」

 シェリングのことは常に気がかりではあったが、それ以上のことを知るよしもなかった。
 おそらく、すでにこの世の人間ではないであろうことは、お互いに口に出さずとも、分かり切っていたことだ。


 1フィートにも満たないような穴を掘って、ハンガリーのインテリを埋葬まいそうしたのだが、もはや当たり前の光景であり、ただの作業でしかなかった。
 墓穴に放り込む前に、服も靴も、果ては下着までもぎ取っている囚人がいる。
 一緒に働いていたはずなのだが、死んでしまえばただの共喰ともぐいの対象でしかないのか。

 地球の裏側にまで連れてこられ、酷使こくしされ、最後はユーラシア大陸と隔絶かくぜつした離島りとう凍土とうどと化してしまうような、そんな人生をこのインテリは予想していただろうか。
 生まれたときは、親に抱かれ、無邪気むじゃきに遊び、将来に希望を抱き、もしかしたら恋人がいたのかもしれない、その最終地点がこの凍土だ。
 何年か後にはここに埋葬されたことすら忘れ去られ、ハンガリーにいるかもしれない家族は死ぬまで彼を待ち続けるのだろう。
 このインテリはどんな悪行を行い、そしてむくいを受けたというのだ。
 いや、独裁者の気分次第で、報いのさじ加減が決まってしまう。
 人の運命などその程度のものでしかない。

 では、私の家族はどうしているのだろうか。
 東京にいる両親は私を待っているのだろうか。
 兄は無事に日本へ帰ることができたのだろうか。


「先生、この島の南半分は日本の領土のはずです。国境さえ越えることができれば、そこは日本です。」

 ハルダー医師に以前から考えていたことを伝えてみた。

「君は知らないのか。この島、サハリンは、すべてがソ連の領土になったんだ。」

 知るはずもなかった。
 ワルシャワで捕らえられて以降、外界から隔離かくりされていたのだから。

「日本人は誰も残っていないのですか。」

「さあ、そこまでは。」


 やはりスターリンだと思わずにはいられなかった。
 日露にちろ戦争で日本にくれてやった土地をそのままにしておくようなお人よしではない。

 雪が解け、この島にも短い夏が来ようとしているのに、私の気持ちは沈んだままだ。
 最後は、衣服を全て剥ぎ取られ、穴ともくぼみとも言えないようなところに放り込まれてしまうのか。


 それからしばらくの後、いつもはしかめっ面ばかりの看守かんしゅの顔が妙に明るくなっている。

 スターリンが死んだ…。

 彼の死は、彼が成し遂げた最大の善行なのかもしれないという思いを抱いたのは、私だけではあるまい。
 おそらく、ソ連に住むほぼすべての人々が抱いたとでも思わせるような、そのような看守たちの笑顔だった。
 独裁国家とは面白いもので、指導者が変わると、それまでの政治や社会だけでなく価値観も含めてすべてがひっくり返ってしまう。
 民主主義国家ではこうはなるまい。
 例え指導者が暗殺されたとしても、何事もなかったかのように次の指導者が現れるだけだ。

 すべてがひっくり返ったこの国では、もともと採算の取れるはずもないサハリンの海底トンネル工事などは、分別ふんべつのある指導者によってさきに中止されるだろう。
 そして、ラーゲリの看守たちも好きでこの離島に来ているわけでもない。
 看守といっても、ソ連という国家にとっては形を変えた囚人にすぎないのだから。
 看守たちは、囚人をいたぶることで、日ごろのうっぷんを晴らしているようなものだ。
 囚人ほどではないが不遇ふぐうな彼らも、工事が中止となり、ラーゲリが閉鎖されれば、故郷へ帰ることができるかもしれない。


 私は思い切ってハルダー医師に打ち明けた。

「先生、看守の規律がゆるんでいる今こそ、脱走を決行しようと思う。」

「しかし、この島は…。」

「分かっています。南へ行き、船を奪ってでも北海道へ渡ります。もしかしたら、この島の南側には日本人が残っているかもしれないですし。先生も一緒に。」

「私はここに残るよ。もはや祖国がどこかも分からなくなってしまった。今となってはソ連に暮らすただの医者だ。」


 ワルシャワでのことを思い出していた。
 ハルダー医師の祖国オーストリアはドイツにみ込まれ、そして今はソ連をはじめとした連合国の支配下だ。
 ここに至って、医者としてこの国で生きることを決断したのか。
 どの国の土になろうとも、医者として患者とともに生きぬくつもりなのだ。
 私はどうだろう、日本に愛着を感じず、兄を頼り渡欧とおうし、それでいて怠惰たいだに流されるように生きていながら、今になって日本が恋しくなっている。
 いつからだろう、日本が恋しくなったのは。
 祖国のために生きる者が自分の周りには何人もいた。
 兄、シェリング、小野寺少将、イレナ。
 それだけではない、父もそうであろうし、このラーゲリにいる異国の囚人たちの多くもそうだったのだろう。
 今になって、捨てたはずのもの、気にも留めなかったものに執着しゅうちゃくしている。
 そんな自分がここにいる。


「先生、お元気で…。」

「そうか、行くのか。成功を祈るよ。」

「もし、日本に帰ることができたら、本を書きます。これまでに出会った人たちのことを本にします。」

「日本語だけでなく、ドイツ語訳も付けてくれたまえよ。」


 おそらく成功するはずのないこの脱走劇に、少しでも明かりをともそうとの冗談であろう。
 もう相まみえることは叶わないだろうと思うと、両目から大粒の涙がこぼれた。


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