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5章
折れた鉛筆
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朝起きると、久しぶりに飲み過ぎたせいか、頭が痛かった。
ボサボサになった頭をかきながら、洗面所にいくと、髪の毛が洗面台にパラパラと落ちた。いろんな事を気にしないようにしていても、やっぱり体は正直なんだ。
落ちた髪の毛は、恋愛に対する未練なのか、仕事に対する後悔なのか、奈江は薄いピンク色の洗面台に貼り付いた髪の毛を見つめた。どうせ抜けるならと、手で髪を梳き、指の間についてくる髪の毛を集めて、ゴミ箱に捨てた。
夫と会話がなくなった頃、頭の片側が痛くて触ったら、そこに瘡蓋ができていた。背中の片方にも湿疹があるのを見つけ、きっと帯状疱疹に罹ったのだと思った。触ると痛む症状は、少し経つと服が擦れるだけでも痛みが走るようになった。それでも、そのうち治るだろうと思って放っておいた。寂しいなんて感情で、こんな事になった自分が、とても情けなかった。悔しい相手に弱さを見せるくらいなら、ここのまま朽ちてなくなってしまっても、それはそれでかまわない。
死んだ後、その人の前に出ていけるだけの怨があれば、話しのひとつにもなれるだろうけど、なんだかんだいっても、自分は自由に暮らしている。誰かを恨む気持ちもなければ、幸せにしがみつくつもりもない。
奈江は歯磨きをしながら、村岡の置いていったDVDを眺めた。綺麗事じゃないんだよ。最近の戦争映画って、英雄を作り上げたり、非恋に結びつけたりするけど、戦争の真っ只中って、正常な感情なんか本当はどこにもないのに。
この話しは、リアル過ぎる。
奈江はまた布団に潜り込んだ。目を瞑っても頭の痛みが治まらないので、薬を飲もうと起き上がって冷蔵庫に水を取り出しにむかった。
玄関のチャイムがなる。
覗き窓から外を見ると、村岡が立っていた。奈江はチェーンを掛けたまま、ドアを開けた。
「何?」
「おはよう。今日は休みって言ってたから。」
「休みだけど、来てもいいとは言ってないよ。」
「知ってるよ。俺が勝手に来たんだから。ねぇ、ここ開けてよ。」
「頭痛いから、今日はダメ。」
「それは酒のせいだろう。病気じゃないなら、話しをしようって。」
「ごめん、それなら後で電話するから。」
奈江はドアを閉めた。
奈江がドアから離れると、村岡は何度もチャイムを押してきた。
「ちょっと、今どきの小学生でもそんなイタズラしないよ。」
奈江は再びドアを開けた。村岡は笑って、
「入れてくれるまで、何回もならすから。」
そう言った。奈江は仕方なくチェーンを外し、村岡を中に入れた。
「ケーキ買ってきた。」
「いらないよ。」
「お酒もあるよ。」
「村岡くん、歩いて来たの?」
「家、近所だから。」
「そうなの?」
「ここから走って30分。」
奈江はため息をついた。
「この前も歩いて来たの?」
「この前は車。飲んだからそこの公園に停めて帰った。」
「それは悪かったね。言ってくれたら、お酒なんか出さなかったのに。」
「勝手に飲んだのは俺だから。」
「村岡くん、今日は雨予報だよ。飲んだら、急いでタクシーで帰った方がいいよ。」
「タクシーで帰るよ。松下、これ冷やしておいて。」
村岡は奈江に買ってきた缶ビールや缶酎ハイを渡した。
「こんなに飲むの?」
「松下も飲むだろう。お菓子もたくさん買ってきたから。」
奈江は頭を押さえた。
「二日酔いなのか。」
「そうだね。薬飲もうとしてて。」
「じゃあ、早く薬飲めよ。」
「うん。村岡くんはなんか飲む?」
「俺、熱いコーヒーとか飲みたいわ。」
「家にコーヒーなんてないの。冷たいお茶でいい?」
「じゃあ、いいよ、それでも。」
奈江は村岡に缶ビールを出した。
「お茶って言っただろう?」
村岡が奈江に言った。
「せっかく買ってきたんなら、飲んだら?」
「だって松下は飲まないんだろう?それなら俺も少しは我慢するよ。」
「合わせる事なんてないんだから、どうぞ。」
村岡は缶ビールの蓋を開けた。
「松下も飲もうよ。」
「今日はいい。」
「なんだよ、そんなに具合悪いのか?」
「大丈夫、話しくらいはできるから。」
「ケーキ食べるか?」
「うん。」
村岡はケーキの箱を開いた。皿とフォークを持って奈江がやってきた。
「村岡くんが選んだの?」
「そうだよ。」
奈江はモンブランを選んだ。
「こっちのフルーツの方にしないのか?」
「そっちは食べづらそうだし、私、果物って苦手なの。」
「こういうの嫌いな女子っているんだな。」
「うん。口の中が痒くなるの。だからケーキを食べる時は、生クリームに混ぜて飲み込んでた。中学生になった頃かな、私、果物が嫌いなんだって気がついたの。」
「やっぱり、変なヤツなんだな。」
「村岡くんは、何でも食べれる?」
「俺は何でも食べるよ。」
「もしかして、味覚音痴?」
「それはお互い様だろう。松下だって、旬なものとか見た目とか、そんな事にこだわらないんだろうし。」
「そうだね。結局、味が濃ければ美味しいんだから。」
「本物に看護師なのか?保健師やってる先輩が言ってたぞ。松下は保健師課程でも優秀だったのに、なんで3交代の看護師をやってるんだろうって。わざわざキツイ仕事を選ばなくっても、役所でのんびりやればいいだろう。」
「価値観が違うの。」
奈江は村岡が置いていったDVDを触った。
「一緒に見るか、これ。」
「ううん。これはもう少ししてから、1人でゆっくり見たい。」
「そっか。最近は映画見たか?」
「見たよ。異端の鳥。」
「すごいの見てるんだな。」
「眠れない時にね、少しだけ見ようと思ったら、全部見ちゃった。」
「あの映画って、感想なんか出てこないだろう。ただ重たい感情が溜まるだけ。どこを切っても辛いシーンばっかりだし。」
「それがいいの。時々、思い出して考えるけど、人間って、みんな自分の都合で生きてるの。おかしな理由をつけて。主人公の子供は、それに巻き込まれたんだろうね。」
「松下、病んでるのか?」
「そうだよ、病んでる。」
「結婚したって聞いてたのに、なんで別れたんだよ。」
「御縁がなかっただけだよ。美味しかった。ごちそうさま。村岡くん、ありがとうね。」
奈江は食べ終えたケーキの皿を片付けた。
「ごめん。」
「何が?」
キッチンへ向かう奈江の背中に村岡が声を掛ける。
「余計なこと言ってさ。俺の中で、なんで松下がこんな風に生きてるのかって、思ってたからさ。」
「言ってる意味がわかんない。」
「俺もうまく言えないよ。なあ、一緒に飲もうよ。まだ、頭痛いのか?」
「これはね、ずっと治らないよ。」
村岡は奈江の前にくると額を触った。
「風邪でも引いたのか?」
奈江の携帯がなった。師長からだ。
「あ~、電源切っておくの忘れた。」
奈江はそう言って電話に出ようとした。
「嫌なら出なきゃいいだろう。」
奈江は村岡を言葉を無視して電話に出た。
「もしもし、若山さん?あっ、ごめんなさい松下さん。」
師長が名前を間違えた事が、急に頭にきた奈江は、村岡の頭を叩いた。
「痛てっ!」
師長は村岡の声に気がつくと、
「あら、誰かと一緒?」
そう言った。
「はい。友人と一緒にいました。」
「あら~、もしかして遠くにいたりする?」
「少し。」
「そうなのね。じゃあ、大丈夫よ。」
師長は早々に電話を切った。
「村岡くん、ありがとう。」
奈江はそう言って冷蔵庫から缶ビールを持ってきた。
「なんかいい事あったのか?」
「別に。」
「頭は?」
「もう治った。」
「松下のこういう性格に付き合えるヤツなんて、俺くらいだな。」
「何言ってんの?誰も無理だよ。村岡くん、乾杯!」
「ああ、お疲れ様。」
2人は缶ビールを飲んだ。
「コップも出さないでごめん。」
奈江が言った。
「いいよ。俺、泡嫌いだし。」
「映画でも、見ようよ。」
奈江はパソコンを開いた。
「いいぞ、何にする?」
「海と毒薬。」
「そういうの選ぶのか。」
「見たことある?」
「本で読んだ。」
「村岡くんが知らない話しってないんだね。」
「そんな事ないよ。たまたま俺と松下の見てるものが似てるんだろう。自分達だけが全部知ってるみたいに思えるけど、苦手なジャンルだってあるんだし。」
「そうだね。そうだった。」
2人はモノクロの映画を、ただ黙って見ていた。
淡々と進んでいくやり場のない話しに、見終わった後、村岡はう~んと腕を組んだ。
「肝臓、食べたのかな?」
奈江がそう言うと、
「はっきり言うなよ。それって想像したくない事だろう。」
村岡は奈江の肩に手を置いた。
「病院の中だってね、ここまでひどくなくても、いろいろあるよ。」
奈江は技師長の顔を思い出していた。
「松下、腹減ったなぁ。なんか作ってくれよ。」
「なんでよ。もう帰って。」
「まだ、話しが終わらないだろう。」
「ダメ、もう帰って。」
「そこにスーパーがあったから、材料買ってきて、鍋でもしようか。」
「村岡くんは人の話し、本当に聞かないね。」
「聞いてるだろう!それに松下の話しは、俺しか聞けないんだし。」
「そっか。」
奈江は急に下をむいた。
別れた旦那は、仕事の愚痴が増える度に、そっけない返事ばっかりになって、たまにおもしろい話題を投げても、昔みたいに笑ってくれる事はなくなった。付き合いが長く続くと、みんなこうなるのだろうか。
「どうした?」
村岡が奈江の顔を覗いた。
「なんでもない。」
「松下、前みたいに笑わなくなったな。」
「そうだね。あんまりおもしろい事って、そんなにないから。」
奈江はそう言って、少し笑った。
「行くぞ。」
村岡は奈江の腕を掴んだ。
「寒いから、上になんか着てった方がいいな。」
スーパーに行くと、明るい照明に奈江は目を細めた。野菜が並んでいる棚なんて見るのは、いつ以来だろう。1人の食事なら、コンビニで全てが揃う。フライパンさえ、しばらく出した事はなかった。鍋、あったかなぁ。大丈夫か、電気の鍋があった。
「白菜にする?キャベツにする?」
村岡が聞いてきた。
「俺、辛いやつが食べたいんだよね。それならキャベツの方がいいのかなって。」
「そうだね、それならキャベツと豚肉がいいんじゃない?ニラも入れて、しめじも入れて。」
「海鮮も入れようか。」
「どうぞ。」
棚の間から、買い物カートを暴走させた子供が出てきた。
「危ないからね。」
村岡がそう言うと、母親は村岡をギロッと睨んだ。
「後でSNSで叩かれるかもよ。」
奈江はそう言って笑った。さっきの子供を目で追うと、高齢の女性にぶつかり、女性は腰をさすっていた。
「弱者って、どっちなんだろうな?」
村岡は言った。
「子供がいる事は女の免罪符なのか?」
少し苛ついている村岡に、
「村岡くん、そんな事言わないの。」
奈江はそう言った。買い物カゴが重くなったので、奈江がよいしょと抱え直すと、村岡はそれを代わりに持った。
「最初から、俺が持てば良かったな。」
そう言って缶ビールを数本カゴに入れた。
台所に立つ奈江の横で、村岡は缶ビールを開けた。
「勝手だね。」
奈江が言った。
「松下も飲めよ。」
「私はいい。」
「なんで、女が料理を作るんだろうな。」
「男が戦争に行くからでしょう。最近、男が家にいるから、世の中がおかしくなった。」
「すごい解釈だな、それ。」
「女も戦ってこい、男も料理をするからってなればいい事なのに。」
「なるほどな。」
「私が作った料理なんて、美味しくないよ。外で戦ってる方が、好きだからね。」
「松下は田嶋と結婚するのかと思ってた。」
「それは昔の話し。」
「田嶋が別の奴と結婚したから、松下とは終わったんだろう。」
「そういう話しはもういいよ。」
「あいつも離婚したんだよ。子供は元嫁が引き取ったらしい。」
聞こえているはずなのに、奈江は話しに入ってこない。
「村岡くん、これ向こうに持っていって。」
村岡は奈江に言われた様にテーブルに鍋を運んだ。
「あとは電気を入れたら、温かくなるから。」
奈江はそう言って、缶ビールを持ってテーブルの前に座った。
「その間に風呂入ってきていいか?」
村岡が言った。
「はぁ?」
「ちゃんと着替え、持ってきたから。」
「ちょっと、何考えてるの?」
「だって、いくら話したって足りないだろう。夜中までかかるかと思ってさ。」
奈江はため息をついた。
「お風呂、こっちだから。」
村岡を浴室へ案内すると、携帯を見た。
田嶋から着信があった。
選ぶ道が違っていたら、どんな人生だったんだろう。たった5年の結婚生活なのに、何もかもが色付いて、何もかもが一瞬で色を失った。あの時見た色を忘れない様に何度も瞬きをして、忘れてしまった色を思い出そうと目を擦る。
奈江は膝に抱えると、顔を伏せた。
「おい、松下、吹いてるぞ!」
村岡が慌てて電源を切った。
「ごめん。」
奈江は謝った。
「危ない所だったな。」
「ちゃんと見てなかったから。すっかりクタクタになっちゃったね。」
「松下は外で戦ってる方が合ってるかもな。」
奈江は村岡を見て笑った。
「食べようよ。」
奈江がそう言って鍋の蓋を開けると、テーブルの上に湯気が立ち込めた。
「少し、辛くし過ぎたかもな。」
村岡がそう言った。
「たくさんビール買ってきて良かったね。」
奈江はそう言って笑った。
洗い物を終えると、奈江は布団を出した。
「村岡くん、自分で敷いてね。」
奈江はそう言うと浴室へむかった。
「なんで敷いてないの?」
携帯を見ている村岡に、浴室から出てきた奈江が言った。
「敷く事ないよ。一緒に寝ればいい事だし。」
村岡は隣りの部屋を指差した。
「村岡くん、ちょっとふざけ過ぎだよ。」
「ふざけてなんかいないよ。」
「早く、布団敷いて。」
奈江はそう言って隣りの部屋に入った。
「松下、開けろよ。」
村岡がドアを叩いている。
「絶対開けない!」
「わかったよ。」
村岡はそう言うと、ドアを叩くのをやめた。
奈江はドアの近くに腰を下ろすと、カーテンの隙間から入ってくる夜空を眺めた。ずいぶん明るいと思ったら、雪が降っているのか。雨は音がするのに、雪の音は聞こえない。小さな雪の粒は、降っては消えていくのに、いつの間にかアスファルトを隠してしまう。
「松下、携帯。」
村岡がドアの向こうでそう言っている。
「そこに置いておいて。」
奈江はそう言った。
「なんかなってるぞ。」
「うん。」
「出なくていいのか?」
「うん。」
「田嶋からだぞ。」
「そ。」
「松下、」
「何?」
「やっぱり、帰るわ。ここにいると迷惑なんだろう。」
「村岡くん、」
奈江はそっとドアを開けた。
「雪、すごく降ってるよ。このまま歩いて帰ったら凍っちゃうよ。」
「凍らないよ。体なんか36度はあるんだし。」
「ごめん、もう少し話しをしようよ。」
奈江は村岡の布団を敷いた。
「寒くないかな。」
村岡に聞いた。
「大丈夫だよ。」
その言葉を聞くと、奈江はホッとして布団の上に座った。
「自分が話したいタイミングと、相手が話したいタイミングって、一緒じゃないんだよね。村岡くん、嫌な事言ってごめんね。」
「松下は話しを聞きたいタイミングも、人とズレてる。」
村岡は注意をするように、奈江に話した。
「そうだね。本当に。」
力なく答えた奈江の肩を触ると、
「さっきの映画の話ししようか。肝臓の事も教えてやるよ。」
村岡はそう言った。奈江は少し痛そうな顔をしたが、村岡に笑顔を見せた。
「疲れたら言えよ。適当に話しを切り上げるから。」
村岡はそう言って奈江の隣りに座った。奈江は座っている位置をずらし、村岡の少し斜めに座った。
ボサボサになった頭をかきながら、洗面所にいくと、髪の毛が洗面台にパラパラと落ちた。いろんな事を気にしないようにしていても、やっぱり体は正直なんだ。
落ちた髪の毛は、恋愛に対する未練なのか、仕事に対する後悔なのか、奈江は薄いピンク色の洗面台に貼り付いた髪の毛を見つめた。どうせ抜けるならと、手で髪を梳き、指の間についてくる髪の毛を集めて、ゴミ箱に捨てた。
夫と会話がなくなった頃、頭の片側が痛くて触ったら、そこに瘡蓋ができていた。背中の片方にも湿疹があるのを見つけ、きっと帯状疱疹に罹ったのだと思った。触ると痛む症状は、少し経つと服が擦れるだけでも痛みが走るようになった。それでも、そのうち治るだろうと思って放っておいた。寂しいなんて感情で、こんな事になった自分が、とても情けなかった。悔しい相手に弱さを見せるくらいなら、ここのまま朽ちてなくなってしまっても、それはそれでかまわない。
死んだ後、その人の前に出ていけるだけの怨があれば、話しのひとつにもなれるだろうけど、なんだかんだいっても、自分は自由に暮らしている。誰かを恨む気持ちもなければ、幸せにしがみつくつもりもない。
奈江は歯磨きをしながら、村岡の置いていったDVDを眺めた。綺麗事じゃないんだよ。最近の戦争映画って、英雄を作り上げたり、非恋に結びつけたりするけど、戦争の真っ只中って、正常な感情なんか本当はどこにもないのに。
この話しは、リアル過ぎる。
奈江はまた布団に潜り込んだ。目を瞑っても頭の痛みが治まらないので、薬を飲もうと起き上がって冷蔵庫に水を取り出しにむかった。
玄関のチャイムがなる。
覗き窓から外を見ると、村岡が立っていた。奈江はチェーンを掛けたまま、ドアを開けた。
「何?」
「おはよう。今日は休みって言ってたから。」
「休みだけど、来てもいいとは言ってないよ。」
「知ってるよ。俺が勝手に来たんだから。ねぇ、ここ開けてよ。」
「頭痛いから、今日はダメ。」
「それは酒のせいだろう。病気じゃないなら、話しをしようって。」
「ごめん、それなら後で電話するから。」
奈江はドアを閉めた。
奈江がドアから離れると、村岡は何度もチャイムを押してきた。
「ちょっと、今どきの小学生でもそんなイタズラしないよ。」
奈江は再びドアを開けた。村岡は笑って、
「入れてくれるまで、何回もならすから。」
そう言った。奈江は仕方なくチェーンを外し、村岡を中に入れた。
「ケーキ買ってきた。」
「いらないよ。」
「お酒もあるよ。」
「村岡くん、歩いて来たの?」
「家、近所だから。」
「そうなの?」
「ここから走って30分。」
奈江はため息をついた。
「この前も歩いて来たの?」
「この前は車。飲んだからそこの公園に停めて帰った。」
「それは悪かったね。言ってくれたら、お酒なんか出さなかったのに。」
「勝手に飲んだのは俺だから。」
「村岡くん、今日は雨予報だよ。飲んだら、急いでタクシーで帰った方がいいよ。」
「タクシーで帰るよ。松下、これ冷やしておいて。」
村岡は奈江に買ってきた缶ビールや缶酎ハイを渡した。
「こんなに飲むの?」
「松下も飲むだろう。お菓子もたくさん買ってきたから。」
奈江は頭を押さえた。
「二日酔いなのか。」
「そうだね。薬飲もうとしてて。」
「じゃあ、早く薬飲めよ。」
「うん。村岡くんはなんか飲む?」
「俺、熱いコーヒーとか飲みたいわ。」
「家にコーヒーなんてないの。冷たいお茶でいい?」
「じゃあ、いいよ、それでも。」
奈江は村岡に缶ビールを出した。
「お茶って言っただろう?」
村岡が奈江に言った。
「せっかく買ってきたんなら、飲んだら?」
「だって松下は飲まないんだろう?それなら俺も少しは我慢するよ。」
「合わせる事なんてないんだから、どうぞ。」
村岡は缶ビールの蓋を開けた。
「松下も飲もうよ。」
「今日はいい。」
「なんだよ、そんなに具合悪いのか?」
「大丈夫、話しくらいはできるから。」
「ケーキ食べるか?」
「うん。」
村岡はケーキの箱を開いた。皿とフォークを持って奈江がやってきた。
「村岡くんが選んだの?」
「そうだよ。」
奈江はモンブランを選んだ。
「こっちのフルーツの方にしないのか?」
「そっちは食べづらそうだし、私、果物って苦手なの。」
「こういうの嫌いな女子っているんだな。」
「うん。口の中が痒くなるの。だからケーキを食べる時は、生クリームに混ぜて飲み込んでた。中学生になった頃かな、私、果物が嫌いなんだって気がついたの。」
「やっぱり、変なヤツなんだな。」
「村岡くんは、何でも食べれる?」
「俺は何でも食べるよ。」
「もしかして、味覚音痴?」
「それはお互い様だろう。松下だって、旬なものとか見た目とか、そんな事にこだわらないんだろうし。」
「そうだね。結局、味が濃ければ美味しいんだから。」
「本物に看護師なのか?保健師やってる先輩が言ってたぞ。松下は保健師課程でも優秀だったのに、なんで3交代の看護師をやってるんだろうって。わざわざキツイ仕事を選ばなくっても、役所でのんびりやればいいだろう。」
「価値観が違うの。」
奈江は村岡が置いていったDVDを触った。
「一緒に見るか、これ。」
「ううん。これはもう少ししてから、1人でゆっくり見たい。」
「そっか。最近は映画見たか?」
「見たよ。異端の鳥。」
「すごいの見てるんだな。」
「眠れない時にね、少しだけ見ようと思ったら、全部見ちゃった。」
「あの映画って、感想なんか出てこないだろう。ただ重たい感情が溜まるだけ。どこを切っても辛いシーンばっかりだし。」
「それがいいの。時々、思い出して考えるけど、人間って、みんな自分の都合で生きてるの。おかしな理由をつけて。主人公の子供は、それに巻き込まれたんだろうね。」
「松下、病んでるのか?」
「そうだよ、病んでる。」
「結婚したって聞いてたのに、なんで別れたんだよ。」
「御縁がなかっただけだよ。美味しかった。ごちそうさま。村岡くん、ありがとうね。」
奈江は食べ終えたケーキの皿を片付けた。
「ごめん。」
「何が?」
キッチンへ向かう奈江の背中に村岡が声を掛ける。
「余計なこと言ってさ。俺の中で、なんで松下がこんな風に生きてるのかって、思ってたからさ。」
「言ってる意味がわかんない。」
「俺もうまく言えないよ。なあ、一緒に飲もうよ。まだ、頭痛いのか?」
「これはね、ずっと治らないよ。」
村岡は奈江の前にくると額を触った。
「風邪でも引いたのか?」
奈江の携帯がなった。師長からだ。
「あ~、電源切っておくの忘れた。」
奈江はそう言って電話に出ようとした。
「嫌なら出なきゃいいだろう。」
奈江は村岡を言葉を無視して電話に出た。
「もしもし、若山さん?あっ、ごめんなさい松下さん。」
師長が名前を間違えた事が、急に頭にきた奈江は、村岡の頭を叩いた。
「痛てっ!」
師長は村岡の声に気がつくと、
「あら、誰かと一緒?」
そう言った。
「はい。友人と一緒にいました。」
「あら~、もしかして遠くにいたりする?」
「少し。」
「そうなのね。じゃあ、大丈夫よ。」
師長は早々に電話を切った。
「村岡くん、ありがとう。」
奈江はそう言って冷蔵庫から缶ビールを持ってきた。
「なんかいい事あったのか?」
「別に。」
「頭は?」
「もう治った。」
「松下のこういう性格に付き合えるヤツなんて、俺くらいだな。」
「何言ってんの?誰も無理だよ。村岡くん、乾杯!」
「ああ、お疲れ様。」
2人は缶ビールを飲んだ。
「コップも出さないでごめん。」
奈江が言った。
「いいよ。俺、泡嫌いだし。」
「映画でも、見ようよ。」
奈江はパソコンを開いた。
「いいぞ、何にする?」
「海と毒薬。」
「そういうの選ぶのか。」
「見たことある?」
「本で読んだ。」
「村岡くんが知らない話しってないんだね。」
「そんな事ないよ。たまたま俺と松下の見てるものが似てるんだろう。自分達だけが全部知ってるみたいに思えるけど、苦手なジャンルだってあるんだし。」
「そうだね。そうだった。」
2人はモノクロの映画を、ただ黙って見ていた。
淡々と進んでいくやり場のない話しに、見終わった後、村岡はう~んと腕を組んだ。
「肝臓、食べたのかな?」
奈江がそう言うと、
「はっきり言うなよ。それって想像したくない事だろう。」
村岡は奈江の肩に手を置いた。
「病院の中だってね、ここまでひどくなくても、いろいろあるよ。」
奈江は技師長の顔を思い出していた。
「松下、腹減ったなぁ。なんか作ってくれよ。」
「なんでよ。もう帰って。」
「まだ、話しが終わらないだろう。」
「ダメ、もう帰って。」
「そこにスーパーがあったから、材料買ってきて、鍋でもしようか。」
「村岡くんは人の話し、本当に聞かないね。」
「聞いてるだろう!それに松下の話しは、俺しか聞けないんだし。」
「そっか。」
奈江は急に下をむいた。
別れた旦那は、仕事の愚痴が増える度に、そっけない返事ばっかりになって、たまにおもしろい話題を投げても、昔みたいに笑ってくれる事はなくなった。付き合いが長く続くと、みんなこうなるのだろうか。
「どうした?」
村岡が奈江の顔を覗いた。
「なんでもない。」
「松下、前みたいに笑わなくなったな。」
「そうだね。あんまりおもしろい事って、そんなにないから。」
奈江はそう言って、少し笑った。
「行くぞ。」
村岡は奈江の腕を掴んだ。
「寒いから、上になんか着てった方がいいな。」
スーパーに行くと、明るい照明に奈江は目を細めた。野菜が並んでいる棚なんて見るのは、いつ以来だろう。1人の食事なら、コンビニで全てが揃う。フライパンさえ、しばらく出した事はなかった。鍋、あったかなぁ。大丈夫か、電気の鍋があった。
「白菜にする?キャベツにする?」
村岡が聞いてきた。
「俺、辛いやつが食べたいんだよね。それならキャベツの方がいいのかなって。」
「そうだね、それならキャベツと豚肉がいいんじゃない?ニラも入れて、しめじも入れて。」
「海鮮も入れようか。」
「どうぞ。」
棚の間から、買い物カートを暴走させた子供が出てきた。
「危ないからね。」
村岡がそう言うと、母親は村岡をギロッと睨んだ。
「後でSNSで叩かれるかもよ。」
奈江はそう言って笑った。さっきの子供を目で追うと、高齢の女性にぶつかり、女性は腰をさすっていた。
「弱者って、どっちなんだろうな?」
村岡は言った。
「子供がいる事は女の免罪符なのか?」
少し苛ついている村岡に、
「村岡くん、そんな事言わないの。」
奈江はそう言った。買い物カゴが重くなったので、奈江がよいしょと抱え直すと、村岡はそれを代わりに持った。
「最初から、俺が持てば良かったな。」
そう言って缶ビールを数本カゴに入れた。
台所に立つ奈江の横で、村岡は缶ビールを開けた。
「勝手だね。」
奈江が言った。
「松下も飲めよ。」
「私はいい。」
「なんで、女が料理を作るんだろうな。」
「男が戦争に行くからでしょう。最近、男が家にいるから、世の中がおかしくなった。」
「すごい解釈だな、それ。」
「女も戦ってこい、男も料理をするからってなればいい事なのに。」
「なるほどな。」
「私が作った料理なんて、美味しくないよ。外で戦ってる方が、好きだからね。」
「松下は田嶋と結婚するのかと思ってた。」
「それは昔の話し。」
「田嶋が別の奴と結婚したから、松下とは終わったんだろう。」
「そういう話しはもういいよ。」
「あいつも離婚したんだよ。子供は元嫁が引き取ったらしい。」
聞こえているはずなのに、奈江は話しに入ってこない。
「村岡くん、これ向こうに持っていって。」
村岡は奈江に言われた様にテーブルに鍋を運んだ。
「あとは電気を入れたら、温かくなるから。」
奈江はそう言って、缶ビールを持ってテーブルの前に座った。
「その間に風呂入ってきていいか?」
村岡が言った。
「はぁ?」
「ちゃんと着替え、持ってきたから。」
「ちょっと、何考えてるの?」
「だって、いくら話したって足りないだろう。夜中までかかるかと思ってさ。」
奈江はため息をついた。
「お風呂、こっちだから。」
村岡を浴室へ案内すると、携帯を見た。
田嶋から着信があった。
選ぶ道が違っていたら、どんな人生だったんだろう。たった5年の結婚生活なのに、何もかもが色付いて、何もかもが一瞬で色を失った。あの時見た色を忘れない様に何度も瞬きをして、忘れてしまった色を思い出そうと目を擦る。
奈江は膝に抱えると、顔を伏せた。
「おい、松下、吹いてるぞ!」
村岡が慌てて電源を切った。
「ごめん。」
奈江は謝った。
「危ない所だったな。」
「ちゃんと見てなかったから。すっかりクタクタになっちゃったね。」
「松下は外で戦ってる方が合ってるかもな。」
奈江は村岡を見て笑った。
「食べようよ。」
奈江がそう言って鍋の蓋を開けると、テーブルの上に湯気が立ち込めた。
「少し、辛くし過ぎたかもな。」
村岡がそう言った。
「たくさんビール買ってきて良かったね。」
奈江はそう言って笑った。
洗い物を終えると、奈江は布団を出した。
「村岡くん、自分で敷いてね。」
奈江はそう言うと浴室へむかった。
「なんで敷いてないの?」
携帯を見ている村岡に、浴室から出てきた奈江が言った。
「敷く事ないよ。一緒に寝ればいい事だし。」
村岡は隣りの部屋を指差した。
「村岡くん、ちょっとふざけ過ぎだよ。」
「ふざけてなんかいないよ。」
「早く、布団敷いて。」
奈江はそう言って隣りの部屋に入った。
「松下、開けろよ。」
村岡がドアを叩いている。
「絶対開けない!」
「わかったよ。」
村岡はそう言うと、ドアを叩くのをやめた。
奈江はドアの近くに腰を下ろすと、カーテンの隙間から入ってくる夜空を眺めた。ずいぶん明るいと思ったら、雪が降っているのか。雨は音がするのに、雪の音は聞こえない。小さな雪の粒は、降っては消えていくのに、いつの間にかアスファルトを隠してしまう。
「松下、携帯。」
村岡がドアの向こうでそう言っている。
「そこに置いておいて。」
奈江はそう言った。
「なんかなってるぞ。」
「うん。」
「出なくていいのか?」
「うん。」
「田嶋からだぞ。」
「そ。」
「松下、」
「何?」
「やっぱり、帰るわ。ここにいると迷惑なんだろう。」
「村岡くん、」
奈江はそっとドアを開けた。
「雪、すごく降ってるよ。このまま歩いて帰ったら凍っちゃうよ。」
「凍らないよ。体なんか36度はあるんだし。」
「ごめん、もう少し話しをしようよ。」
奈江は村岡の布団を敷いた。
「寒くないかな。」
村岡に聞いた。
「大丈夫だよ。」
その言葉を聞くと、奈江はホッとして布団の上に座った。
「自分が話したいタイミングと、相手が話したいタイミングって、一緒じゃないんだよね。村岡くん、嫌な事言ってごめんね。」
「松下は話しを聞きたいタイミングも、人とズレてる。」
村岡は注意をするように、奈江に話した。
「そうだね。本当に。」
力なく答えた奈江の肩を触ると、
「さっきの映画の話ししようか。肝臓の事も教えてやるよ。」
村岡はそう言った。奈江は少し痛そうな顔をしたが、村岡に笑顔を見せた。
「疲れたら言えよ。適当に話しを切り上げるから。」
村岡はそう言って奈江の隣りに座った。奈江は座っている位置をずらし、村岡の少し斜めに座った。
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