夏のかけら

小谷野 天

文字の大きさ
2 / 17
2章

夏のかけら

しおりを挟む
 一度だけ、彼と2人だけで話しをした事がある。
 その日は一学期の最後の日で、家まで帰る途中、彼が走って私を追いかけてきた。
「これ、間違ってた。」
 彼が手にしているオレンジ色の健康カードは、私のものだった。
「もしかして、中身見た?」
 私は自分の体重が書かれたカードを、彼の手からサッと奪った。
「見てないよ。名前見た時点で気づいたけど、教室では返しづらくてさ。」
 私はカバンから、渡会直と名前が書いた健康カードを取り出した。
「ぜんぜん、見てないからね。」
 そう言って、私は彼に同じオレンジ色の健診カードを渡した。
 嘘ばっかり。
 名前なんか確認せず、中身を見て、私のカードってこんなに空欄だったかな、なんて思いながら、すぐにカバンに閉まっていた。
 渡会くんは私とたいして身長は変わらないのか。

 あの頃は何度ダイエットしても、私の体重は変わらなかった。ダイエットなんか、1週間も続いた事なんてなかったし。
 高校に入り、身長は全く伸びなかった。
 急激に体重が減り始めたのは、仕事を始めてから。きっと、めちゃくちゃな食生活が、エネルギーを余計に消費しているせいだと思う。

 仕事が終ってから、凪は車で実家にむかった。眠気を誤魔化し、やっと玄関を開けた頃には、夜中の2時になっていた。
 そっと家に入ると、母がミシンを掛けていた。
「お母さん、まだ起きてたの?」
 凪は母に声を掛けた。
「ぜんぜん、眠れないの。ねぇ凪、なんか温かい物でも一緒に食べない?」  
 母はパッチワークのかけらを縫っていた手を止めて、台所にむかう。
「うどんでもいい?」
「うん。」
「あ~あ、お父さんは出張ばっかり。洗濯だけ置いてまた出ていくし。うちはクリーニング店じゃないんだって。」
 母は父が本当に、出張していると思っているのだろうか。
 父が知らない女の人と一緒に歩いてにいるところを、偶然見たことがある。
 たいして美人でもない相手の女性は、これでもかというくらいの笑顔を見せていた。
 馬鹿みたい。
 一生幸せにすると神様の前で違ったくせに、その約束を守れない男なんて、母の屈辱と同じだけの、罰を受ければいいのに。 
「お母さん、たまご落としてくれる?」
 
 次の日。
 凪はガットの切れたラケットを持ち、地元のラケットショップへむかった。  
 小さな店の真ん中には、中年の店主がガットを張り替える作業をしている。
「いらっしゃい。あら、お客さん、前にも来たことがあるね。」
 店主は凪の顔をチラッと見たが、手は動かしたままだった。
「中学の頃、ここでラケットを買いましたから。」
 凪は手に持っていたラケットを店主に差し出した。
「あぁ、そうだったかい。もしかして、桜中の子?」
「そうです。」
 このラケットショップには、家から近いということもあって、ガットが切れたり、グリップを巻き直すために、バトミントンを始めた小学3年の頃から、よく通っていた。高校に入っても、なんでも揃う大きなスポーツ店には行かず、相変わらずここに通っていた。
「しばらく見なかったけど、バトミントンは続けてたの?」
 店主は凪に言った。
「7年くらい前に別の町に行きましたから。3年前から、またバトミントンを始めたんです。」
 凪から受け取ったラケットを店主は見つめた。
「これ、うちで買ったラケットだろうけど、最近は別の誰かが張り替えていたんでしょう?」
「はい。」
「どれくらいの頻度で練習してるの?」
「週1回。」
「で、ガットが切れる頻度は?」
「月1くらいかな。」
「それって、張り方の問題があるかもね。打ってる方にもいろいろあるけど。まあ、見ててよ。驚くほど技が決まるように、上手く張り替えてあげるから。」
「店長さん、どれくらいでできますか?」
「う~ん、明日の夕方になるかな。おたくで25人待ちだからね。」
「そんなに?」
「急ぐのかい?大会がある子供達の方を優先させてあげたいから、趣味でやってる大人は少し待っててよ。」
「それはもちろん。出来上がったら、家に送ってもらっていいですか?」
「いいよ。ここに、住所を書いていって。」
 店主から渡された宅急便の紙に、凪は住所を書いた。
 店から出て、凪は車に乗り込んだ。
 顔を上げると、男性が店の中へ入っていった。
 一瞬、その男性の茶色い髪に、凪はドキッとした。
 こんな田舎に、大人になった渡会くんがいるわけないよ。
 凪は車を走らせた。 
 
 実家に戻ると、姉夫婦がやってきた。
 連れてきた赤ん坊を母に預けると、買い物があるからと、姉達は店を出ていった。
 孫にメロメロの母は、なかなかはかどらないパッチワークの事など忘れて、赤ん坊に話し掛けている。
 ひとつに思えた家族は、いつの間にかそれぞれの時間を過ごす様になった。
 この家の主は、別の人の元へ通っているようだし、結婚して家を出た姉は、自分の家族を最優先する。   
 それはそうだ。自分が存在している場所が、変わったのだから。
 一人この家に残る母親は、振り向いてくれない家族を嘆きながら、実は自分がいないと、この家も社会も回らないのに、とさえ口にする。
 母だって、昔から仕事が中心だったくせに。
 仕事をしながら子供を育てているんだと、会社ではマウントをとって優越感を満たしていたんだろう。
 実は夫が帰ってこないなんて、恥ずかしくて言えないよね。
 どんな仕事に就いたって、女も男も所詮企業の駒なんだけどな。
「みんな、忙しいそうだね。」
 凪が言った。
「そうよ。忙しくないのは凪だけ。」
 凪は母の腕の中で、母の話しに返事をしている様な赤ん坊を見つめていた。 
 写真に残っている自分を取り囲む幸せそうな家族は、その時だけ、寄せ集められたものだろうか。

 月曜日が始まる。
 昨日の日曜日。凪は実家から職場へ向かい、そのまま仕事をしていたせいか、いつもの倍、身体が横になりたいと悲鳴をあげている。
 そう言えば、私、夕べ、ご飯食べたっけ?
 空腹に耐え切れず、コンビニで買ったチョコレートを口に入れると、姉から電話がきた。
 凪はスマホを持って席を立つ。
「もしもし凪?」
「お姉ちゃん、なんかあったの?」
「マヤちゃんのお祝い、どうもありがとうね。ゆっくり話しもできなくて、ごめん。」
「ううん。また今度、ゆっくり。」
「それより凪、この前モガミでガット張り替えたでしょう?」
「うん、張り替えたよ。」
「あんたの所に送ったラケット、間違えて別の人のものを入れたらしい。」
「えっ~!じゃあ、このままモガミに送り返すよ。」
「なんかね。ラケットの主が、それじゃあ間に合わないから、今日そっちに取りに行くってさ。」
「どういうこと?」
「その人、困って家にきてんのよ。ラケットは今どこにあるの?」
「さっき会社に届いたけど。」
「じゃあ、これから会社に行ってもらえばいい?凪、今日は何時まで仕事?」
「何時になるだろう、けっこう遅くなるかも。」
「それならなお、取りに行く方が都合がいいね。その人夕方にはそっちに着くと思うから、会社の住所教えてよ。」
 凪は姉に言われるまま、会社の住所を教えた。
「ねぇ、お姉ちゃん。その人はなんて名前なの?」
 姉は声を小さくして凪に言った。
「それがね、渡会って言うのよ。しかもあんたと一字違いのナオだって。モガミのおっちゃんが間違ったのは仕方ないよ。同じラケットだったみたいだしさ。あんた覚える?中学の頃、同じクラスだったらしいけど、なんで家の場所、知っているんだろうね。」
 姉からその名前を聞いただけで、凪の鼓動は速くなった。
 あの日、自分の目の前を通ったのは、やっぱり渡会くんだったんだ。
 これって神様のいたずらなのかな。それともご褒美なのかな。
 凪は電話を切って、速歩で席に向かった。途中の自販機で迷ったあげく、冷たいミルクティーを久しぶりに買った。
 そのまま席に着こうとすると、課長から呼ばれて、手に持っていたミルクティーを、机の上に投げる様に置いた。
「渡会、メールで送った報告書、今日中に頼むよ。それと、明日から出張。」
 課長から凪に渡された出張の行程表は、2泊3日、会議と打ち合わせがみっちり詰められていた。
 速くなった凪の鼓動は、苛立ちで顔を赤く染めていく。
「渡会、熱でもあんのか?」 
「いいえ。」
「じゃあ、急いで仕事に戻れ。仕事中に私用電話は慎めよ。」
「はい、すみません。」
 凪は課長に頭を下げると席に戻った。
 飲もうとしていたミルクティーには手をつけず、メールを開き、パソコンに顔を近づけた。
 これ、私一人でやるの?
 そう心の中で呟くと、資料を探しに倉庫へ向かった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

看病しに行ったら、当主の“眠り”になってしまった

星乃和花
恋愛
⭐︎完結済ー全36話⭐︎ 倒れた当主を看病する役目を振られた使用人リィナは、彼の部屋へ通うことになる。 栄養、灯り、静かな時間、話し相手――“眠れる夜”を整えていく。そして、回復していく当主アレクシス。けれど彼は、ある夜そっと手を握り返し、低い声で囁く。 「責任、取って?」 噂が燃える屋敷で、ふたりが守るのは“枠(ルール)”。 手だけ、時間だけ、理由にしない――鍵はリィナが握ったまま。 けれど、守ろうとするほど情は育ち、合図の灯りはいつしか「帰る」ではなく「眠る」へ変わっていく。 看病から始まった優しい夜は、静かな執着に捕まっていく。 それでも、捕獲の鍵は彼ではなく――彼女の手にある。

橘若頭と怖がり姫

真木
恋愛
八歳の希乃は、母を救うために極道・橘家の門を叩き、「大人になったら自分のすべてを差し出す」と約束する。 その言葉を受け取った橘家の若頭・司は、希乃を保護し、慈しみ、外界から遠ざけて育ててきた。 高校生になった希乃は、虚弱体質で寝込んでばかり。思いつめて、今まで養ってもらったお金を返そうと夜の街に向かうが、そこに司が現れて……。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

屈辱と愛情

守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。

触手エイリアンの交配実験〜研究者、被験体になる〜

桜井ベアトリクス
恋愛
異星で触手エイリアンを研究する科学者アヴァ。 唯一観察できていなかったのは、彼らの交配儀式。 上司の制止を振り切り、禁断の儀式を覗き見たアヴァは―― 交わる触手に、抑えきれない欲望を覚える。 「私も……私も交配したい」 太く長い触手が、体の奥深くまで侵入してくる。 研究者が、快楽の実験体になる夜。

彼の言いなりになってしまう私

守 秀斗
恋愛
マンションで同棲している山野井恭子(26才)と辻村弘(26才)。でも、最近、恭子は弘がやたら過激な行為をしてくると感じているのだが……。

敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される

clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。 状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。

処理中です...