夏のかけら

小谷野 天

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12章

左手の約束

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 会社のロビーの自販機の前にいると、白井がやってきた。
「いつまでもそこに立ってると、後ろの人が買えないよ。」
 白井はそう言って凪を椅子に座らせた。
「ほら、いつものやつ。」
 白井は凪にお茶を渡した。
「忙しいの?」
 白井はブラックコーヒーに口をつける。
「いいえ。」
 凪は首を振った。
「渡会さん、なんかあったの?」
 白井が言った。
「何もないです。」
 凪は下をむいたまま首を振った。
 言葉を返すのが、精一杯に感じる。声のトーンも表情も変わらない。それは化粧のせいもあるのか、見慣れない髪形のせいなのか。
「渡会さん、ずっと気になってたんだけど、いつもタクシーに乗ってどこへ行ってるの?」
 外回りから帰ってきた平岡が、2人の前にやってきた。
「平岡くん、右手はもういいのかい?」
「もう大丈夫です。そのうちボルトを抜く手術がありますけどね。」
 平岡の話しに凪は顔を上げた。
「渡会、お前、なんか変わったな。あの茶髪の影響か?」
 平岡が言った。
「茶髪って、もしかして渡会さんと名前が似てる男の人?」
 白井はそう言って平岡の顔を見た。 
「白井さん、知ってるんですか?渡会の同級生ってやつです。」
「ああ、やっぱりそうか。直から会社の事を聞かれてね。その子は俺の親戚なんだ。」
 平岡があの日見た凪とその男性は、無邪気な中学生の様に笑顔が溢れていた。年齢を重ねて大人になっても、色褪せない記憶って、あっという間にその頃の自分達に引き戻していくんだろうな。
「同じ名前同士、運命を感じたってわけか。」
 平岡の言葉は凪にも届いているはずなのに、いつもなら怒って言い返す凪の目は、さっきから泳いでいる。
 今までの凪とは違い、身なりはどんどん整えられていくけれど、それは自分の意志とは別の力が働いている様に感じる。さっきから漂ってくる香水の香りも、本当は自分の意志で選んでいるわけではないように感じた。平岡は凪の手を掴んだ。
「ずいぶん、変わったな。」
 キレイになった凪の爪を見ると、凪はその手をサッと引っ込めてフラフラと立ち上がった。
「白井さん、お茶、ごちそうさまです。」
 白井にそう言って去っていったその背中は、今にも崩れてしまいそうだった。
「おい、渡会。」 
 振り返って、平岡にも少し頭を下げた凪。
「お前、なんかおかしいぞ。」  
 平岡はそう言うと、凪は力なく首を振った。

 夕方。
 凪の様子が気になり、秘書課の前で帰りを待っていた平岡は、帰り支度をして出てきた凪の腕を掴んで、玄関を出た。何も言わず黙ってついてきた凪を、駐車場に停めてある車の助手席に乗せると、
「最近、ずっと車で来てなかったよな。」
 平岡は凪に聞いた。
「うん。」
 それ以上話さない凪に、
「送ってやるから、シートベルトして。」
 平岡は言った。
「腹減ったな。なんか食べていくか?」 
「ううん。」
 どんな言葉を掛けても、会話が続かない。
「じゃあ、うちでなんか作ってくれよ。ついでに掃除もさ。」
 凪は平岡を少し見つめると、俯いて、両手を腿のあたりで握った。
「おい、さっきは掃除なんか断わったじゃないか。嫌ならちゃんと嫌だって言えよ。」
 凪は何かを言おうとしている。
「大丈夫だ。ちゃんと掃除はしてあるから。」
 言いかけた言葉を飲み込んでいる凪は、
「そんな、違います、ごめんなさい。」
 そう言って謝っている。なんだか凪の様子がおかしい。俺と誰かを勘違いしているのか?
「なあ、渡会。俺は前の渡会の方が好きだったのにな。まっすぐな黒い髪がさ。」
「ごめんなさい。」
 凪は謝ったのを最後に、やっぱりそれ以上話しをしなくなった。
 
 平岡の家の前に着いた。
「上がっていけよ。もう少し話しがしたいから。」
「はい。」
 凪は平岡に言われるまま車から降りると、家の中へ入ってきた。
 丁寧に靴を揃えるためなのか、しゃがんだまま動かない凪を見ていた平岡は、その肩が震えていることに気がついた。
「どうした?」
 立ち上がった凪は、平岡の顔を見ると身体を強張らせた。
「おい、お前なんか勘違いしてないか?」
 平岡は凪の腕を掴んだ。
「ごめんなさい。いつも気が利かなくて。」
 凪が正気でそんな事を言っている感じはしない。少し前までは、部下のくせに生意気な正論をぶつけてきたのに。
「渡会、俺は困らせてるつもりなんてないよ。ただ少し話しがしたかっただけ。」
 平岡はそう言って凪をソファに座らせた。
「カレーでも作ろうか。」
 平岡が言った。
「食べなくてもいいです。」
 凪はソファに肘掛けに頭をもたれた。
「ごめんなさい。私が出来損ないだから。」
 瞑った瞼の隙間から、涙が溢れそうになっている。
 少し間に、一体何があったのだろう。

 平岡は凪の電話が鳴っているのに気がついた。
「おい、鳴ってるぞ。」
「うん。」
 目を閉じて横になっている凪は、その音に気がついているのに、一向に電話に手を伸ばさない。
「渡会、電話だって。」
「…。」
 平岡は凪のカバンからスマホを出すと、凪の手にそれを乗せた。
「北川さんからだぞ、早く出ろよ。」
「うん。」
 返事はしたものの、電話を持ったままの凪は出ようとしない。
「貸せよ。」
 凪に代わって、平岡が応答のボタンを押す。
「もしもし、渡会さん。この前、会議で会った男性から、あなたへのご指名がきたの。明日、その人に会ってほしいの。いつもの様にお願いね。もしもし、渡会さん、ちゃんと聞いてる?」
 平岡は凪が顔を背けているのを見ると、
「ご指名って、何の事ですか?」  
 勝手に電話のむこうの北川に、平岡は話しを始めた。
「あら、これ、渡会さんの電話じゃなかったの?」 
 北川が声が慌てている。
「渡会の電話ですよ。」  
 平岡は冷静を保とうとした。北川の話しから、凪が何も話そうとしない理由がわかった。
「あなたは誰?渡会さんとはどういう関係?」
「同じ会社の平岡です。渡会なら隣りにいますけど、俺が代わって要件を聞きます。」
「あなたは渡会さんの彼氏なの?お付き合いしてきる人はいないって聞いていたけど、そういう人がいた事を隠していて、バレてしまったというのなら、それは仕方ないわね。」
「渡会と俺はそういう関係ではありません。北川さん、男性のご指名って、何を言ってるんですか?」
「あら、渡会さんも合意の上よ。」
「もしかして、羽田の時もそうだったんですか?渡会や羽田が、断れない事を知ってて、そういう事をさせていたんですね。北川さんは最低ですよ。秘書課の女性達が派手な生活をしている噂も、突然退職する子が後を絶たないという事も、全部理解ができました。」
「平岡くんって、あなたはただの係長よね?この事は会社の上層部からの命令なの。そのおかげで、いろいろとうまくいってるんだし。渡会さんだって、それでいい思いをしてたじゃない。あなたも同じ会社の一員なら、どうすれば一番いいのか、わかるでしょう?」
「そうですね、よくわかっています。北川さん、さっき言ってた明日の予定はキャンセルしてください。それじゃあ。」
 平岡は北川からの電話を切ると、
「渡会、茶髪はこの事知ってるのか?」
 そう言って凪の肩に手を置いた。
「渡会くんは知らないんです。そんな事言えないし。」
 凪は顔を手で覆った。その手を外して顔を覗いた平岡に、
「私、汚いですよ。」
 凪が言った。
「お前が汚いなんて誰も思ってないよ。消えない事はあるかもけれど、もう嫌な思いはさせないから。」
 平岡の言葉に凪は首を振った。 
「黙っていたら、誰にもわからずに通り過ぎます。自分の需要なんて、すぐになくなるんだし。そしたら、地元に帰って、アルバイトでもしようかな。」
「バカ言うな。好きな奴にも後ろめたい気持ちのまま、一人寂しく暮らして人生が終わっていいのか。お前の心だって、だんだん壊れてきてるんだぞ。」
 平岡は凪の肩を強く揺すった。
「もう、死にたいよ。」
 凪は俯いて、平岡の腕を肩から離そうとした。
「しばらく休め。それしかないだろう。」
「平岡さん、すごく疲れました。」
 凪は目を閉じた。現実から逃げている様に小さくなっている身体に、平岡は薄い毛布を持ってきて、そっと掛けた。
「少し寝てろ。なんか作ってやるよ。できたら起こすから。」
 キッチンで料理を作っていると、凪の電話がまた鳴っている。
 ダメだ。
 これ以上、凪の生活には立ち入れない。
 平岡は自問を繰り返していたものの、やはり電話の相手が気になった。
 スマホには、渡会という文字が画面に浮き上がっている。平岡は凪のスマホを手に取った。

「渡会、やっぱり俺、」
 電話のむこうから聞こえる声は、渡会の事を思って苦しんでいる。
「悪い、渡会は家のソファで寝てしまったんだよ。本当にどうしようもない奴だ。あんたは彼氏なんだろう?早く迎えに来てくれよ。」
 平岡は渡会に言った。苦しんでいるのは、こっちの渡会だって同じだ。本当はお互いまだ、好きだという気持ちを抱えて、受け入れられない現実を彷徨っているんだろう。
「どういう事ですか?」
 電話のむこうの渡会は言った。
「どうもこうもあるかよ。疲れたってガキみたいに寝てしまって、俺だって変な噂が立ったら困るからな、さっさと帰ってほしいんだ。揺すって起こそうともしたけど、俺の彼女でもない女の身体を触るわけにいかないし、どうするか困ってんだよ。」
「渡会は、どうしてそこに行ったんですか?」
「仕事の話しをしただけだよ。こっちだって久しぶりに会ったんだ。きっとそっちとの付き合いに忙しいんだろうと思っていたんだけど、なんだ、うまくいってないのか?とにかく迷惑なんだよ。早く連れて行ってくれよ。」
 平岡はそう言って、渡会に自分の家の住所を伝えた。
 渡会という男は、時間を掛けてまで、付き合って間もない女の元に来るのだろうか。もし来なかったり、馬鹿げた言い訳をしたら、それはそれで、俺が代わりに凪を受け止めるやればいい。
 大丈夫だ。こっちへ急いでむかうと後先も考えずに電話を切ったあいつは、きっとここへやってくるはず。
 それにしても呼びつけたのはいいが、この後、どうやってあいつと話せばいいか、少し考えないとな。平岡はそう思い、野菜を切っていた手を止めた。
 けっこう一緒にいたはずなのに、何度も気持ちを伝えたはずなのに、それに気が付かない間抜けな女を、俺はいつまで好きでいるつもりだよ。平岡は凪の寝顔を見つめていた。
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