夏のかけら

小谷野 天

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11章

秋の入り口

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 秘書課へ異動になった日。
 平岡が職場へ復帰してきた。だらしなかったあの日の平岡とは別人かと思うくらい、今日はスーツ姿が決まっている。
 凪は朝から、指導係の北川麗《きたがわれい》に、身だしなみの注意を受けていた。
「そんな子供みたいな爪で、よく会社にこれたわね。」
 ネイル、髪の色、化粧、服装、カバンなど、会社の上層部と一緒に行動する職員は、恥ずかしい印象を与えてはならない。
 ただがむしゃらに仕事をしてきて、自分の事など置き去りにしてきた凪は、北川から受ける注意の一つ一つが、生き方さえ否定されているようで、辛い時間だった。 
 大概の女性達は、たまに美味しい物を食べるくらいが、精一杯の贅沢なはず。それなのに、北川やここの女性達は、一流のスーツや靴を買い揃え、デパートでひときわ目立つ広告を掲げる高級化粧品を、惜しげもなく使っている。一体どうして、こんな高価な物を手に入れる事ができるのだろう。
 人から良く見られたいという努力をしてこなかった自分はおかしいのか、女性の誰もが、キレイに見せたいと影ながら努力をするのが当たり前なのか。
 だとしたら、なんの手入れもしない自分を抱きしめてくれた渡会には、本当に申し訳ない事をしてしまったな。

 北川の指導は1日中続いた。
「ねぇ、渡会さん。あなた、彼女達の様に一流品を揃える余裕ってある?」
 北川は凪の肩についた髪の毛を取って捨てた。
「部活動でもあるまいし、ただ束ねただけの髪の色に、魅力を感じる男性なんていないわよ。ここの女性達はね、いろいろな方法で会社の華になる努力をしているの。普通の会社員の女性のままでは手に入れらない贅沢を、あなたもしてみたいとは思わない?」
 北川の机の電話がなり、彼女は優雅に受話器をとる。一つ一つの所作が、が雑な自分とはぜんぜん違っている。
 凪がふと周りを見渡すと、さっきまで数人いた秘書課の女性達は、誰もいなくなっていた。彼女達はこの時間まで、一体何の仕事をしていたのだろう。
 丁寧に電話をとり、メールを見るためにパソコンを開く。分厚い書類を束ねる事もなければ、足りない備品を補充する事もない。
 今日初めて会う凪にも優しく、慈愛をたっぷり含ませた笑顔は、同じ女性なのかと疑うほどだ。 
 凪は自分の机の引き出しに目をむけた。自分が座っているミーティングテーブルからは、自席は近くて遠い。あの中には、目が冴えるようなミントの飴が入っている。今日は朝から喉が渇いてカラカラだった。北川の話しが終わったら、すぐにそれを口に入れて、走ってお茶を買いに行こう。そっか、そういう行動が、品がないと怒られる私の悪いところなのか。
 北川が凪の前に戻ってくると、凪は姿勢を正した。
「渡会さん、今から人に会ってほしいの。玄関に車を待たせているから、それに乗ってちょうだい。」
 北川はそう言うと、凪のカバンを持たせ、席を立たせた。
「あの、私、車できてるんですけど。」  
 凪は北川を振り返って見たが、北川は目を反らした。さっきから喉が渇いてカラカラだ。飲み物が恋しい。早く自分が自由になる空間がほしい。
「そうなの?じゃあ、これ。」
 北川は凪にタクシーチケットを渡した。 
「帰りは家まで送ってくれると思うから、これは明日の朝の分。」
 北川はそう言って、凪の手の中にタクシーチケットを押し込んだ。
「あの、仕事って…、」
 凪が言いかけた言葉を遮るように北川は、凪の背中を押し出した。
「ちょっと変わった人だけど、大丈夫よ。ルールはちゃんと守ってくれるから。大口のお客様だからね、くれぐれも失礼のないように。」
 仕方なく玄関へむかうと、1台のタクシーが止まっていた。
「渡会、今帰るのか?」
 玄関で平岡に会った。
「これから仕事です。」
 凪はそう言ってタクシーへ乗り込んだ。
「おい!仕事ってなんだよ。」
 タクシーに乗り込む寸前で、平岡が凪の腕を掴んだ。 
「大口の仕事です。」
 凪は平岡に笑顔を作った。
 凪が乗ると、黙って走り出したタクシーは、メーターは動いていない。
「あの、予約のままですよ。」
 凪が運転手に伝えると、
「お客さんとは、話してはいけない規則だから。」
 バックミラー越しに目を合わせる。
 一体、なんの仕事?
 タクシーが停まった場所は、おしゃれな外観で、たぶん中は、レストランになっているのだろう。
 凪は恐る恐る重いドアを開ける。
 自分にだろうか、中年の男性が、こっちを見てむかって手招きをしている。
 凪は少し嫌な予感がした。
 一瞬心配そうな平岡の顔が浮かんだが、北川から言われた通り、男性に失礼のない様に近づいた。
「秘書課に新しく入ったっていうのは、君かい?」
 男性の目線が、凪を上からしたまで往復する。
「はい。渡会と申します。」  
 少し震える声で男性に挨拶をすると、
「座って。」
 男性は凪に席に着くように言った。
「こういうのって、お互いに名乗らないっていうのが約束でね。」
 男性はそう言うと、ウェイターを呼んで、凪にグラスにお酒を注がせた。
「乾杯!」
 男性はグラスを凪にむけた。
 凪は震える手でグラスを持つ。
「あんまり慣れていないんだね。こういう所は初めてかい?」
 仕事とは、こういう事か。
 凪はこの先を考えると、喉の奥が詰まったように苦しくなった。声に出そうとしても、言葉にならない。
 ただ、どうやって男性の機嫌を損ねず家に帰えろうか、そればかりを考えていた。
「あんまり、お腹減ってない?」
 男性が言った。時間稼ぎのためには、少しでもゆっくり食べて、なんとか理由をつけて、家に帰りたい。それなのに、まったく喉を通っていかない食事は、ぜんぜん減っていかない。
「もう、出ようか。」
 男性はウェイターを呼んで支払いをした。
「あの、すみません。せっかく呼んで頂いたのに、食事を残してしまって。」
 凪は男性に謝った。
「こういうところでバクバク食べる女の子は、俺は好きじゃないね。」
 男性はそう言って凪の肩に手を回した。
「ごめんなさい、あの…、」
 びっくりした凪は男性から離れると、
「これも仕事なんだよ。男は頭を使って仕事をして、女は身体を使って仕事をする。女にどれほどのスキルがあっても、男に評価されないと、価値がないんだから。」
 さっき乗ってきたタクシーが、玄関の前に停まっていた。運転手は凪の顔をバックミラー越し見ると、すぐに目を男性に向けた。
「行ってくれ。」
 タクシーの中で、男性は執拗に自分に身体を近づけてくる。男性から離れようとする度に、大口の客だと言った北川の言葉のせいか、凪の足元はとっくにコンクリートの様に固まってくる。
 きらびやかなロビーが、ガラス越しに見えるホテルに着く頃には、指の先までもが自分のものであっても自分のものではないような気がした。
 
 それからの事は、断片的な記憶しかない。もしかしたら、思い出したくない情景を、頭の中から必死で追い出してしまって、夢だったと自分に言い聞かせているのだろう。大丈夫。そのうちそんな夢なんか忘れてしまって、現実の世界にしっかり立てるはず。
 時々蘇ってくるその夜の記憶は、悲鳴に近い自分の声と、男性の生ぬるい息づかい。自分は頼まれただけと言い訳を並べても、名前も知らない男性との行為を拒否できなかった事は、私が犯した罪には変わりないんだ。現実の世界に、しっかり足をつけようとする度に、渡会のサラサラとした茶色の髪が、春の風になびく音が聞こえてきて切なくなる。
 次の日、北川から渡された封筒は、仕事の対価ではなくて、いつかは裁かれるべき罪の、ほんの数日だけの免罪符だと思った。やがて法定に立たされた自分を蔑む周りの視線が、取り返しのつかない汚れた自分を責め立てるだろう。

「渡会さん、玄関に車を待たせてあるから。」

 その日以来、夕方になると繰り返される北川の言葉に、凪は頷く事も出来なくなっていた。 
 初めの頃は、こんな事は明日で終わると閉じていた目が、いつの間にか家に帰りたいという気力もなくなり、何もかもをぼんやりを見つめる様になった。
 家に帰ると、現実に引き戻される罪悪感に苛まれ、そのうち、男性が帰ったあとも、ホテルで一夜を過ごす夜が当たり前になった。
 朝、男性が用意してくれた服を着て、罪を隠すように化粧をする。
 私の車は、いつから動かしていないのだろう。スマホなんて、見ることもほとんどない。
 北川と一緒に幹部達について回るたび、印刷室で指を黒くしていた自分の事さえ、思い出せなくなっていった。

「渡会さん?」
 広川が玄関で声を掛けた。
「北川、あんた、いい加減にしたらどう?」
「広川こそ、情けないわね。」
 広川は凪の頰をバチーンと両手で挟むと、
「しっかりして!」
 そう言って凪の目を見た。
「渡会さん、遅れるわよ。」
 北川は凪の腕を掴んだ。
「ナツさん、すみません。」  
 北川は無言で自分の腕を引っ張っていたが、急に足を止めると、凪の腕を離し、振り返ってこう言った。

「渡会さんは、もう普通の生活には戻れないわよ。」

 秘書課へ移動して1か月。
 男性が急遽海外へ出張する事になった。凪にも一緒についてくるように言ったが、結局、出張には北川がついていく事になった。
 ホッとして帰った久しぶりの家は、冷蔵庫の中の物が腐っていた。
 そう言えば、ここ1ヶ月はまともな食事もしていない。男性と一緒にする食事なんて、味なんかわからかったし。腐ったトマトの様に、手に持った瞬間に崩れてしまうようなたちの悪いの生ゴミの私は、いくらこの部屋を掃除をしたところで、二度とキレイになれる事はない。

 ~ピンポン~
 凪は玄関へむかった。
 玄関には、びしょ濡れの渡会が立っていた。
「入っていいか?」
 渡会は部屋の中に入ってきた。
「雨、降ってたの?」
 凪はタオルを取りに浴室へむかう。そして、渡会にバスタオルを渡した。
 濡れた顔にバスタオルを押し当てた渡会は、そのまま茶色の髪についた雨をバスタオルで吸い取っていた。
「いつから雨が降ってたの?」
 凪は渡会に聞いた。
「さっき。」
 渡会が言った。
「渡会くん、あったかいものでも飲む?」
 凪はキッチンにあったはずの紅茶や探した。
「何もいらないよ。」  
 渡会は凪の手を握った。
 凪は記憶が蘇った様に、ついこの間までの自分を思い出す。
「ごめん、渡会くん。」
 凪は渡会から手を離した。
「何があったんだ?ぜんぜん連絡も取れないし、家にも帰ってきてないみたいだし。」
「なんにもないよ。仕事が忙しいかっただけ。」
 今までは渡会に会うと速くなっていた鼓動が、今は波のない様に静かだ。
「渡会。」
「ん?」
「泊まっていっていいか?」
「ごめん、風邪引いてるからダメ。」
 凪は渡会を避けるように、距離を開けた。
「嘘つくなよ。」
 渡会は凪のおでこを触ろうとする。
 とっさに渡会が伸ばした手から後ずさりした凪は、さっきから渡会が心配そうに自分を見ている事に気が付かない。
「俺達、付き合ってるんだよな?」
 渡会は凪の手をもう一度握った。
「付き合ってなんかないよ。だってそんな事、言ってないじゃない。」
 凪は渡会の手を離すと、渡会の胸を両手で押した。
「そっか、そうだよな。」
 渡会は凪にバスタオルを返し、そのまま部屋を出ていった。
 ドアの閉まる音を聞き終えると、凪は渡会が髪を拭いたバスタオルを顔に押し当てた。
 ほんのり渡会の匂いが残るバスタオルは、凪の涙で濡れていく。
 自分がやっている事は、とても醜くて、汚い事なんだ。だから、どうあがこうにも、渡会とは一緒にいられない。
 
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