夏のかけら

小谷野 天

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10章

夏の出口

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「先輩。」
 羽田が腫らした目で凪の所にやってきた。
「どうしたの?」
 凪が羽田の肩に手を掛けると、羽田は凪の手を振り払った。
「私、知らなかったんです。」
 羽田はそう言うと、どこかへ走って行ってしまった。
 ざわざわとし始めた凪の周りで、誰もが自分から目を逸らす。
 凪は羽田を追いかけようとしたが、課長が凪を呼び止めた。
「渡会、ちょっとこい!」    
 課長はミーティングルームに凪を連れていった。
「なんで呼ばれたかわかってるか?」
 課長の声のトーンはいつも以上に低かった。一体自分が何をしたというのか。
「あの、さっきの羽田さんの事ですか?」
 凪は課長に言った。
「お前らのアホな恋愛話しなんかはどうでもいい。どうせ平岡が余計な事を言ったんだろう。渡会に話したいのは、異動の事だ。」
「異動、ですか?」
「女性の職員が急に退職を言い出してな。上から渡会を異動させると話しがきた。平岡があんなだからな、たぶん、異動はそこだろう。正直うちの課だって人が足りない。羽田じゃ、まだ任せられない仕事が多いからな。平岡が復活したら、そっちはなんとかなるだろうって人事に反論もしたんだけど、そしたら、お前が俺からパワハラを受けてるとか、昼休みも取らせないとか、そんな話しになってて、お前、そんな事誰かに言ったのか?」
 凪は白井の顔が浮かんだ。白井は上の人とも仲がいい。ここ数日、自分を気に掛けてくれている。だけど、その事を上に言ってまで、自分を異動をさせようとするのだろうか。
「そんな風に思ってません。」
 凪は課長が自分を問い詰めてくる圧が怖くなり、少し後ずさりした。
「じゃあ、お前の異動の話しは俺から断るからな。」
 凪は課長がミーティングルームを出ていった後、1人で席に戻った。どことなく周りの視線が痛かった。
「これ、よろしく!」
 係長が凪に分厚い書類の束を持ってやってきた。
「去年もやったから覚えてるよね?」
「報告ですか?」
 凪ら分厚い書類をパラパラと捲った。
「そう、これが今年の分。報告は明日までだから、お願いできるかな?」
「はい、わかりました。」 
 内線が鳴っている。
 凪は部長室に呼ばれ、階段の途中で羽田とすれ違った。羽田は凪と目を合わせず、避けるように階段を降りていった。
 部長室に入ると、部長と知らない課長がソファに座っていた。
「渡会さん、来週から秘書課に異動してくれ。そこの職員が急に退職をしてね。なんせ、穴を開ける理由にはいかない場所だし、渡会さんが抜けた後には、派遣で補充するって、松井課長と話しをしていたところだ。」
 秘書課の課町は凪とは目を合わせず、さっきから下をむいていた。
 一体、どういう事だろう。課長が心配しているパワハラ疑惑は解けたのか。
「わかりました。」
 凪が答えると、部長はもう行っていいと、凪にむけて手をはらった。
 部長室から出ると、広川が立っていた。
「ひどい扱いね。」
 広川は凪をロビーに連れていった。自動販売機から、冷たいお茶を買って凪に渡すと、
「渡会さんはいつもこれよね。」
 広川が言った。
「ナツさん、ありがとうございます。」
「渡会さんって、選択肢がたくさんあっても選べない人よね。」 
「そうかも。」
「さっき、羽田さんに会ったわよ。みんなね、焦って目の前に出された袋に飛びつくの。中身なんて見ないでね。羽田さんは自分でもわかってたはずよ。たぶん、彼女は辞めるわね。松井くんは、派遣を2人要求してるみたいだから。もしかしたら、平岡くんは彼女みたいな女の子が苦手っていうよりも、渡会さんが好きなのかも。」
 広川の言葉は意味深だ。
「私、平岡さんとは何もありません。」
「そうよね、知ってる。だけど、平岡くんは本気かもよ。渡会さんはどうなの?」
「…。」
「う~ん、そっか、他に好きな人がいるんだね。それって、もしかしてこの前ここにきてた人?」
「ええ、まあ。いや、それは。」
「フフ、そんなに好きなんだ。ねぇ、流されたらダメよ。袋の中身はちゃんと確認して。ごめん、あんまり話してると、松井くんに怒られるわね。」
 広川は席を立った。
「渡会さん、白井くんが心配してたわよ。お昼はちゃんと食べてなさいよ。」
「はい。」
 凪は広川がくれたお茶を手に持って席にむかった。
 席に戻ると、机にあった分厚い書類はなくなっていた。
「係長、あの、」
 凪が係長の机にある書類を見つけると、
「渡会さん、来週から異動なんだって?これは俺が羽田さんに教えるから。その代わり、別の仕事を頼むよ。何数かメールを送ったから、急いで見てみて。」
 係長はそう言った。

 定時になっても明かりが消えないフロアは、1日の終わりが見えない。
 すっかり温くなった広川からもらったお茶に口をつけると、平岡から電話がきた。凪はスマホを持って廊下に出る。
「渡会、明日手術だから、夜、家に寄ってくれよ。」
「なんでですか?」
「なんでって、約束しただろう。入院の荷造りだって、1人でできないしさ。それに、お前、営業に異動になったんだろう。俺とコンビを組むように言われたと思うけど。」
「コンビって、私は秘書課に異動なんですけど…、」
「いいから、今日は家に来いよ。何時でも待ってるから。」

 凪は仕事を切り上げて、平岡の家にむかった。
 チャイムを押すと、入って来いよと、インターホン越しに平岡の声が聞こえる。
「こんばんは。」
「おお、待ってたよ。」
 散らかっている部屋の中は、クーラーがついていてもムッとした匂いが漂う。
「平岡さん、これでよく人を呼べますね?」
 ヨレヨレのTシャツと短パン姿の平岡は、呆れる凪を見て笑っている。
 クーラーを止め、窓を開けて、新鮮な空気を外から取り込むと、凪は散らかっているゴミを集め始めた。集めたはいいがゴミ袋が足りなくなり、ゴミは一旦そのままにした。
 溢れかえる洗濯物を袋に詰め、近くのコインランドリーとコンビニへ向かおうとする凪に
「悪いな、渡会。」
 平岡が言った。
 凪は大きなため息をついて、平岡を見た。
「行ってきます。」
 コンビニから出たところで、渡会からのラインが届いた。
 “水曜日、こっちの練習にこない?”
 “行きたいけど、仕事”
 “そうだよね” 
 “ごめん、せっかく誘ってくれたのに”
 “金曜日は空いてる?”
 “うん”
 “じゃあ、そっちにいく”
 “いいの?”
 “少し遅くなるけど、待ってて”
 凪はラインを閉じると、平岡の家にむかった。
 少しは自分で片付けているかと思ったら、平岡はベッドに横にはなっていた。
「平岡さん、具合でも悪いんですか?」
 凪は平岡の体を揺すった。
「渡会、掃除なんてどうでもいいんだ。」  
 平岡は起き上がって凪を抱き寄せた。
「お前、あいつと寝たのか?」
 凪は平岡の胸に手を置いて離れようとした。
「怒りますよ。少しは自分でも片付けてください。」
 凪は耳まで熱くなっていた。
「わかりやすい奴だな。どうだった?あいつは満足させてくれたのか?」
 平岡はまだベッドの上にいた。
 渡会とは、キスをしただけでそれ以上の事はしなかった。いざそういう関係になると思うと、大好きな相手でも、身体が強張って動けなかった。渡会がそれを受け入れてくれたのかどうなのかは知らないけど、ただそばにいてくれた事で、これからこの人以外を好きにならないと決めた。たとえ、渡会が自分の事を嫌いになっても、それはそれで諦める事にする。ここから先、どんな風に人を好きになればいいか、わからなくなったから。
「帰ります。平岡さんと話すの、すごく嫌になりました。」
 凪は平岡を睨むと、
「ごめん、ごめん。」
 平岡は起き上がって、片手で掃除機を掛け始めた。
「やっぱり、私がやりますから、平岡さんは明日の準備してください。」
 凪は平岡から掃除機を受け取った。
「そう言えば、この前キレイな人と駐車場にいるところ見ましたけど。」
「あぁ、沢口さんね。彼女はあの日で退職。彼氏が転勤するみたいでさ。」
「そんなんだ。あの人、辞めたんですか。」
「そう。けっこう優秀だったのに、残念だよ。代わり口下手な渡会が営業にくるとは、人事担当は本当に見る目ないよな。」
「平岡さん、私の異動は、秘書課です。」
「秘書課ぁ?」
「行きたくないですよ。秘書の人はみんな綺麗だし。」
「そうかもな。ほら、渡会は課長に目をつけられてるから。お前が一番苦手な分野に異動させたのかも。」
「課長は残ってくれと言ってましたけどね。」
「そんなわけあるかよ。お前の腹を探ってるんだよ。まっ、心配するな。俺が守ってやるからさ。」
 平岡はそう言うと、無造作に出した下着をカバンにぐちゃぐちゃに詰めた。
「けっこう、どうでもいい人なんですね。」
「渡会が几帳面過ぎるんだよ。」
「そうですか?」
「そうだと思うよ。お前と付き合う男は、相当窮屈だろうな。」
「平岡さんと付き合う人は、この生活を理解してくれる人じゃないとダメですね。仕事はできるのに、これじゃあ、がっかりですよ。そうだ、真姫ちゃん、」
「羽田の話しはいいよ。俺、昨日、あいつを見たんだ。なんか金持ってそうな男と一緒で、やっぱりそういう奴だったのかって幻滅したよ。」
「へぇ~、真姫ちゃんを貶すなんて余裕ですね。もったいないオバケが出てきますよ。」
「俺は渡会が好きなんだよ。」
「一緒にいる時間が長いとね、好きだって勘違いするんじゃないですか。」
「渡会こそ、いい思い出のままのあいつの事を、好きだって勘違いしてるんじゃないか。いろいろ知ってくるとさ、がっかりする気持ちの方が多くなるよ。」
 少し沈黙が続く。
 凪は平岡がカバンにぐちゃぐちゃに詰めた下着を取り出すと、それをキレイにたたんで、カバンに詰め直した。
「俺達、結婚するか?」
 平岡が言った。
「変な事言わないでください。これは仕事の延長です。」
 平岡は凪の腕を触った。
「なんかお前、急にキレイになったよな。」
「セクハラで訴えますよ。」
「あ~あ、俺がこんなじゃなかったらなぁ。」
 平岡はギブスをしている右手を軽く叩いた。
「手術はどれくらいかかるんですか?」
「1時間くらいって言ってたかな。」
「平岡さん、私、コインランドリーに洗濯物を取りに行ってきます。」

 凪が洗濯物を抱えて帰ってくると、部屋の中はキレイになっていた。
 平岡を探したが、どこにもいなく、そのまま帰ろうとしていると、浴室の方から声がした。
「渡会、背中洗ってくれ。」
 浴室のドアを恐る恐る開けると、平岡が背中をむけて座っている。 
「私、介護ヘルパーさんじゃないですって。」
「いいから洗ってくれよ。お前しか頼めないんだって。」
 凪は仕方なく靴下を脱いで浴室へ入った。
「これで。」
 背中越しに渡されたボディータオルを泡立てる。
 凪は平岡の広い背中を力強く洗っていく。
「もういいですか?」 
「ああ、ありがとう。いろいろ悪かったな。」
 平岡が言った。
「明日、病院まで一緒に行きますから。」
「大丈夫だ。俺1人で行けるから。ありがとうな、渡会。遅いから気をつけて帰れよ。」
「おやすみなさい。」
 急に優しくなった平岡の事が気になったが、凪は家にむかった。
 
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