秋の風 冬の色

小谷野 天

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1章

秋に見えたもの

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 雨に濡れた歩道に、黄色い銀杏の葉が模様のように張り付いている。
 風がいたずらして作った小さな黄色い丘は、まるで、いろんな人のため息が積もっているよう。

 手袋をしても、冷たい両手に息を吹きかけると、まだ人の少ない朝の通りを、秋元早和《あきもとさわ》は足早に歩いていた。

 せっかく作ったお弁当、家に忘れて来ちゃった。
 いっか。どうせお昼なんて、食べれるかどうかわからないし。
 
 早和は道沿いにあったコンビニに入ると、一番近くにあるお茶と、大粒のミントを買った。おにぎりでも買おうかと奥の棚に向かったが、やっぱりやめて、レジの前にあったスポーツ新聞を手にとって、会計を済ませた。

 NICUの入口を開けると、規則正しい機械音が聞こえる。
「おはよう、秋元さん。いつも早いね。」
 昨夜は帰らなかったのだろうか、6年目の医師の澤口奏《さわぐちそう》は保育器に眠る赤ちゃんの前で、聴診器を温めていた。
「おはようございます。」
 早和は澤口に挨拶をすると、昨日の記録を読み始めた。
「早和、おはよう。」
 3つ上の先輩、河口優芽《かわぐちゆめ》がきた。
「今日、もう1人増えるらしいよ。あのベビちゃんは、コットへ移るから。」
「もうすぐ、2000超えそうだからね。」
 早和がそう言うと、優芽は小さな声で、
「相変わらず、パパは面会に来ないみたいね。主任がボヤいてた。」
 そう言った。
「仕事が忙しいんじゃない?」
「そうかな。生まれてから一度も来てないのよ。ママはそれでいいのかなぁ。男の人って、子供が生まれても、すぐには父親になれないのよね。ここで働いてると、結婚する意味、考えてしまう。」
 2人の会話を聞いていた主任は、点滴の数を数え直した。
「ひとつ足りない!」
 主任は夜勤の看護師を呼びにいった。
「怖、今日は最高に機嫌が悪いよ。」
 優芽が言うと、奏がやって来た。
「先生、新しいベビちゃんはいつ来るの?」  
 優芽は聞いた。
「昼にはくると思うよ。」
 奏は答えたが、
「あっ、長岡先生来たから、聞いてみよう。」
 優芽はそう言って、長岡の所へ足早に歩いていった。

 記録を読んでメモしていた早和に
「秋元さん、今日仕事が終わったら、ご飯食べにいかない?」
 奏は言った。
「せっかくだけど、家で食べます。」
「じゃあ、明日は?」
「明日は、深夜勤だし。」
 早和がそう言うと、奏はため息をついた。
「そうやって秋元さんに断られて、もう3年になる。」
 奏の言葉に、マスクから見える早和の目が少し笑ったように見えた。

 11時40分。
 新しい子が、NICUにやってきた。
   898グラムのその子は、体重こそ少なかったが、生まれつき抱えている病気はないと長岡は言った。
「ママさんに子宮頸がんが見つかってね。これから子宮を全摘するみたいなの。」
 主任がそう言った。
「8ヶ月か…。」
 優芽はそう言うと、そこにいる誰もが、次の言葉は胸にしまった。
 
 夕方、赤ちゃんの父親がNICUにやって来ました。
 
 医師と父親が相談室に入っていく。

「早和、帰ろう。」
 優芽はそう言った。
「私、まだ仕事が残っているから、先に帰っていいよ。」
「今日は長岡先生がご飯に奢ってくれるから、一緒に行こうよ。」
「長岡先生が?」
「そう。だからさ、早く終わらせて。」
「あの子は?さっきのベビちゃん。」
「あの子は水島先生が担当だから、大丈夫。だからさ、早和、早く。」

 19時。
 早和と優芽、長岡と奏は、病院から近いお店に来ていた。
「早和、何飲む?」
 優芽はメニューを広げる。
 長岡と奏は、ウーロン茶を注文した。
「先生達は飲まないの?」
 優芽は聞いた。
「今日は新しい子が入ったしね。夜中に呼ばれて、お酒のにおいをさせてたら、感じが悪いだろう。」
 長岡は言った。
「澤口先生は飲んでもいいんだよ。病院には俺が行くから。」
「いえ、僕も呼ばれたら、先生と一緒に行きますんで。」
「だって、コールは水島先生でしょう?さっきのベビちゃんの担当も。」
 優芽はそう言った。
「そうだけど、いろいろあるんだって。」
 長岡が奏の顔を見た。
「水島先生はなんでも長岡先生頼みだからね。早和、何にする?」
 早和と優芽は、サワーを頼んだ。
 飲み物と少しの料理が運ばれてきて、4人は乾杯をした。
「長岡先生のお子さんはいくつですか?」
 優芽は聞いた。
「うちの子は今年で20歳になったよ。」
「女の子はでしたっけ?」
 奏が聞いた。
「そう。」
「1人?」
 優芽が言うと、
「なかなかできなくてね、治療をして、やっと。」
 長岡は言った。
「奥さんに似たら、きっとかわいいでしょう?」
 優芽は言った。
 長岡の奥さんは、同じ病院の皮膚科の医師だった。
「俺に似たってかわいいさ。」
 長岡はそう言った。 
「秋元さん、何か飲んだら?」
 長岡は空になった早和のグラスを指差した。
「じゃあ、同じものにします。」
 早和はメニューを広げてそう言った。
「けっこう飲むんだね。意外だった。」
「先生、早和は酔わないよ。こう見えてザルなの。」
 優芽が言った。
「秋元さん、ほどほどにね。」
 奏は早和をチラッ見た。

 2つ上の万能な兄と、3つ下の容姿端麗な妹。両親は2人共、公務員の家庭に育った早和。
 傍から見たら理想の家族なのかも知れないが、早和と家族とはギクシャクしていた。
 早和は小学2年の時、長引いた風邪が左の腎臓を奪い、さらに中耳炎になっている事に気がつくのが遅れ、左の聴力を失った。
 父にも祖父母にも責められた母は、それ以来、早和にだけ冷たくなった気がする。
 家庭の事も、子供の事も、全部母に任せっきりだった父。祖母は全てにおいて手を抜かない厳しい女性だったので、母にはよく小言を言っていた。母自身は、どちらかと言えば、仕事が中心の人だったので、わがままを言ったり、甘えた記憶など、早和にはほとんどない。
 出来のいい兄や、誰も振り返る程かわいい妹は、手を掛けなくても両親の理想通りに育った。 
 何の取り柄もない早和が、度々熱を出すと、母が露骨につくため息が、早和の心の底に溜まっていった。 
 早和は小学生になり、高い熱を出しても、家で1人で寝ている事が多くなった。混み合っている小児科に受診したところで、いつも同じ風邪薬を出されるだけ。熱があって辛い時に、待ち合いで子供の泣き声を聞くと、ますます体調が悪くなった。
「お母さん、仕事へ行って。薬飲めば、すぐに治るから。」
 早和は母の携帯番号を書いた紙を枕元において、布団の中でお菓子を食べて、家族の帰りを待っていた。
 ちょっとずつ余っていた薬を飲んで、風邪を引いてもやり過ごす事が増えた。
 小2の秋、3日間続いた熱が一度下がったので、学校へ行った日。
 給食の最中に倒れて、早和は病院へ運ばれた。急遽入院する事が決まり、説明にきた医師から、母はきつく注意されていた。
 皆が母の事を責めたところで、早和が失ったものは戻らない。母は涙を見せず、医師にただ謝ってばかりいた。
 欠陥商品を手にした様な両親とは、それから距離がどんどん遠くなった気がする。
 体にいいからと祖母が持ってきたものが食卓に並ぶと、早和は食べようとしなかった。母が好きな物を早和の前に並べると、体を悪くするのにと、祖母からきつく叱られた。度々やってくる祖母の言葉に返事をしないと、長い説教が続く。早和は自分の部屋から出てこない事が増えた。
 中学に入ると、自宅から離れた女子校へ進んだ。子供がいない叔母夫婦の家で暮らし、おしゃべりな叔母と、本当の親子の様な関係になるのには、そう時間はかからなかった。

「先生、食べたら?」
 早和は、目の前にあったサラダを奏に近づけた。
「秋元さんは?」
「私はお酒飲んでるから、いらないです。」
「飲んでるなら、食べなきゃ。」
 奏は早和にサラダを戻した。
「ふだん、何して食べてるの?」
「何ってわけじゃないけど。」

 長岡の携帯がなった。
「ほら、きた。」
 優芽がそう言った。
 長岡は電話を切ると、優芽に1万円を置いて出て行った。
「澤口先生も行くの?」
 優芽が言うと、
「一緒に行きます。」
 奏は言った。
「今日は俺だけで充分だ。」
 長岡が奏の肩を叩いた。
「だったら、2人で飲みなよ。澤口先生、ずっと早和に断られてたんだし。私は知り合いの店に行くから、これで。」
 優芽はそう言って、澤口にさっきの1万円を渡して、店を出て行った。
「秋元さん、どうする?」
 奏が早和に聞いた。
「残ってるの食べたら、帰ります。」
 早和はそう言って、澤口の皿に残ってる料理を乗せた。
「秋元さんも、食べてよ。」
「先生、甘いもの頼んでもいい?」
「いいよ。」
 早和はチョコレートケーキを頼んだ。
「秋元さん、けっこう偏食だね。」
 奏が言った。
「悪いですか?」
「悪くないけど、」
「看護師さんなのにって、言いますか?」
 奏は笑って、
「そんな事言わないよ。」
 早和に言った。

 2人は料理を食べ終ると、店を出て歩き出した。
「私はこっちだけど、先生は?」
 早和が言った。
「秋元さんの家まで送って行くよ。」
 奏は早和について来た。
「先生、私、NICUから出たいな。」
「何年目だっけ?」
「3年目。内科とか整形とか、患者さんと会話ができる病棟に行きたい。」
 早和はため息をついた。
「NICUは希望じゃなかったの?」
「違うよ。ねえ先生、看護師もドラフトと一緒だから。希望してる場所と、選んでくれる場所は、けして同じじゃないの。」
「アハハ、確かにそうだね。」
 早和はカバンからスポーツ新聞を取り出した。
「岡田、引退だって。」
 紙面に書かれているプロ野球選手の引退の記事を、奏に見せた。
「今日はこの記事を見て、岡田の思い出に浸りたかったのに。」
 早和はそう言った。 
「秋元さんが野球が好きだとは、知らなかったよ。」
 奏は新聞に顔を近づけた。
「チームひと筋、20年だって。すごい功労者だったんだね。」
「そうだよ。」
 早和はその写真を愛おしそうに見つめていた。
「秋元さんも、20年、NICUにいてみたら?」
「無理無理。先生は、NICUにずっといるの?」
「さあ、どうかな。」
「淋しいな、引退なんて。いつか来る日だってわかっていても、すごく悲しい。」
「秋元さんは、この人のどこが好きなの?」
「一度だけ、球場で見たことがあるの。その時、一塁を守る岡田の大きな背中を見てね。それが私の初恋。」
「背中に初恋って、どういう事?」
「先生には、わからないだろうな。あんな背中で守ってもらえたらね、言葉なんていらない。」
 早和はそう言うと、もう一度スポーツ新聞を見た。
「背中って自分じゃ見えないから、どうやったら秋元さんに気に入ってもらえるか、わからないよ。」
 奏は早和の見ている新聞を手に取った。
「秋元さんの家は、病院の近くだったよね。」
「そうです。先生は?」
「俺は少し遠い。」
「大変ですね。泊まりや呼び出しがあるのに。」
「独身用の医師住宅が空いてなくて、病院が用意したアパートは、広いけれど少し遠いんだ。」
「そうなんですか。」
「秋元さん、今日、泊まっていったらダメかな。」
「ダメに決まっています。」
「そうだよね。」
「先生、このまま医局に住めばいいじゃないですか。」
「ひどい事いうなぁ。はい。今日はこれ読んだら、早く寝るんだよ。」
 奏は早和にスポーツ新聞を渡した。
「先生、送ってくれてありがとう。」

 道に張り付いた銀杏の葉は、暗い夜の足元を照らしているようだった。

 先生。
 大きな背中の人はね、そこに飛んできたボールをパッととって、見えるように高くあげた。サーッとベンチに戻って行くの時にね、彼にみんなが笑顔で声を掛けてるの。
 そこに大きなものがあるとね、きっとみんな、安心するんだね。
 私もあんな背中に寄りかかることができたら、深く眠る事ができるのに。
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