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2章
秋が見つけたもの
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朝方から、降り出した雨は、小雨に変わってきた。
それほど大粒の雫ではなくても、傘が効かない強い風が吹いている。
早和は、更衣室で濡れた服を看護衣に着替えると、冷たくなった手をすり合わせて温めながら、NICUへ向かった。
「おはよう。」
優芽が言った。
「おはよう。」
「早和、昨日あれからどうしたの?」
「帰ったよ。澤口先生が家まで送ってくれた。」
「じゃあ澤口先生は、その後に病院に泊まったんだ。」
早和が保育器の前にいる奏を見ていると、長岡が何かを話している。
「昨日来たベビちゃん、心臓に病気が見つかったらしいよ。状態が安定しなくて、長岡先生はつきっきりだったらしい。澤口先生も、ずっとベビちゃんについていたんだって。」
看護師長が、長岡の妻から着替えを受け取っていた。
「早和、澤口先生とも、着替えを届ける様な関係になったら?」
優芽は言った。
「医者になるって決めた時から、泊まりは承知の上でしょう。」
早和はその子のモニターを見た。
昨日はキレイな波がたくさんあったのに、今日はその波が少なくなっている。
昼過ぎ。
両親が我が子に会いにきた。手術を終えた母を車椅子に乗せてやって来た優しそうな父。
保育器がそばにきた両親は、初めて会った我が子を見て、静かに泣いていた。
赤ちゃんの状態が安定しないので、長岡がすぐに処置に入ると、両親は担当の水島医師呼ばれ、NICUを後にした。
医師と両親が何を話しているのか、だいたい察しがつく。
やっと会えた我が子が背負った、あまりにも重い現実は、母親の肩に、もっと重くのしかかるだろう。
次に我が子に会いに来る時は、2人はどんな顔をしているだろう。
早和はその子のカルテを見ていた。
母親と父親は自分と同じ歳なのか。
母親は子宮を全部摘出したんだもの、なんとしてもこの子を、抱っこして家に連れて帰りたいだろうな。
夕方。
仕事が終わらない早和は、飲み物を買いに、売店に来ていた。
「秋元さん。」
奏が隣りに並ぶ。
「先生、今日は遅くなるの?」
「そうだね。」
「昨日、病院へ戻るなら、言ってくれたらよかったのに。」
「秋元さんの家について行ったのは、俺の方だし。」
早和がお茶を手にすると、奏も同じ物を買った。
「奢ってあげる。」
奏は早和が持っているお茶を手に取った。
「いいですよ。」
早和は奏が持っているお茶を取ろうとした。
「これから残業するんでしょう?」
「はい。」
「一緒に甘いものでも食べようか。」
奏はプリンを手に取ると、レジに向かった。
「ありがとう、先生。」
「秋元さん、今日は素直だね。」
「早和。」
売店を出たところで、早和は車椅子に乗った女性から声を掛けられた。
「やっぱり、早和だった。」
「涼子?」
「そうだよ。さっき、赤ちゃんを見に行った時、似てる人がいるなぁって思って、名札見たら、もしかしたらって思ったんだ。マスクしてたから確かめられなかったけど、やっぱり早和だった。」
「涼子、何年ぶりだろうね。」
「早和の彼?」
涼子は奏の方を見た。
「小児科の先生。同じ職場の人。」
「ねぇ、後で私の病室にきて。久しぶりに話したい事があるの。」
「うん。じゃあ、あとで。」
「病室、わかる?」
「わかるよ。」
「そっか、早和はここに勤めてるんだもね。」
奏は早和の肘を軽く突いた。
NICUへ戻る廊下を歩きながら、
「先生、どうかしました?」
早和が奏に聞いた。
「お母さんの所へ行くのは、あんまり関心しないよ。今、どういう状況か、いろいろ聞かれるかもしれないのに。」
「昔の話しをするだけです。」
「そうかな。親はなんとしても我が子を助けてほしいと思っているだろうし。」
「それは他の親もそうでしょう。」
「あんまり赤ちゃんの事、話すのはダメだからね。」
「わかってます。先生、プリンありがとう。」
18時40分。
「涼子、入るよ。」
早和が涼子の部屋を訪ねた。
「早和、仕事は終わったの?」
「ううん。もう、面会時間終わっちゃうから、ちょっと抜けてきた。」
中学からの同級生の古林涼子《ふるばやしりょうこ》と会うのは、高校を卒業して以来、7年ぶりになる。
「職員でも、面会は自由にならないの?」
「それはちゃんと守らないと。」
「早和は相変わらず真面目だね。」
「涼子、古林になったんだ。高校の時から付き合ってた、あの人でしょう。」
「そう。去年結婚したの。」
「おめでとう、知らなくてごめんね。」
「おめでとうって言わないでよ。今、どういう状況か、わかるよね。」
「ごめん。」
「ううん。こっちこそごめん。仕方ないよね、卒業してから、連絡取らなかったし。早和は同窓会も来なかったし。」
「涼子は行ったの、同窓会。」
「行ったよ。あのクラスで結婚したのは、私くらいかな。」
「そっか。」
「早和、さっきの先生とは付き合っているんでしょう?」
「違うよ。本当に仕事の仲間。」
「そうかな。先生が彼氏なんて羨ましい。」
「涼子の旦那さんは、優しそうだね。」
「優しいよ、すごく。」
涼子は少し淋しそうな顔をした。
「ねえ、ここのご飯、美味しくないでしょう?」
早和は話しを逸らした。
「そうだね、美味しくない。」
「今度、チーズケーキ買ってくるよ。涼子、好きだったでしょう。病院の近くにあるの、美味しいケーキ屋さん。」
「本当に?」
「楽しみにしてて。」
「うん。」
早和は仕事へ戻った。
帰り際に涼子の赤ちゃんのカルテを見ようとすると、奏が止めた。
「やめなよ。友達なら、見ないほうがいい。」
「仕事として見るだけですよ。」
「秋元さん、プリン残ってるよ。せっかく買ったんだから、一緒に食べようよ。」
「先生、どうしてあの赤ちゃんの事を、そんなに隠してるんですか?」
奏は休憩室へ行こうと早和を誘った。
「ほら。」
プリンを早和に渡した。
「今日はこれを食べたら帰ろうよ。」
「言われなくて、帰りますよ。」
早和はプリンをカバンに入れた。
「食べないの?」
「帰ってから食べます。」
早和は時計を見た。
「先生、今日も泊まりですか?」
「そうだね、長岡先生が泊まるから。」
「じゃあ、頑張ってください。」
「ねえ、秋元さん、明日は深夜って言ってたね。」
「そうです。」
「それなら、日中は家にいるの?」
「いますよ。」
「あのさ、お願いがあるんだけど。」
「なんですか?」
「俺の洗濯物、洗ってくれない?」
「はぁ?」
「今度はプリンじゃなくて、ケーキを奢るから。」
「ホールで?」
「ホール?」
「そうです。ホール。」
早和は手を丸くした。
「それ、一人で食べる気?」
「涼子と食べます。まだ入院してるみたいなんで。」
「秋元さん、それはさ、」
「なんですか?」
奏は何かを言い掛けてやめた。
「医局に洗濯物取りに行ってくるから、ちょっと待ってて。」
医局から洗濯物を持ってきた奏は、早和は紙袋を渡した。
「こんなにですか?」
「俺、汗かきだから。」
「澤口先生!」
長岡が奏を呼んでいる。
「じゃあ、頼んだよ。」
早和は、紙袋を抱えてNICUを後にした。
病院から帰る途中、早和はコンビニへ寄った。
コーラとお菓子をレジに持っていくと、隣りの男性と目が合った。
カゴと一緒にスポーツ新聞をレジに出して、会計を済ませた早和を、その男性は追ってきた。
「看護師さん。」
早和が振り向くと、男性の顔には、見覚えが合った。
「看護師さん、俺、涼子の旦那。」
男性はそう言った。
「そうでしたか?私、覚えてなくてすみません。」
「仕事、終わったの?」
「はい。旦那さんは、この近くで働いてるんですか?」
「会社はここから遠いけど、今、病院から、連絡があってね、これから行く所。」
「そうだったんですか。」
「看護師さん、じゃあ。」
早和は、赤ちゃんが急変したのだと感じた。奏が病院へ泊まるのも、きっとそのために待機していたんだ。これから涼子と会いづらくなるかも、早和はそう感じた。
家に帰り、奏の洗濯物を洗濯機に入れた。1回じゃ終わらないよ、これ、早和は独り言を言った。
干す場所、あるかな。
もう一度、紙袋に洗濯物を詰めると、自分の洗濯物も袋に詰め込んで、コインランドリーへ向かった。
洗濯が終わるのを待っている間、携帯で野球を見て過ごしていた。
今年は青野も引退するのか。
大学の頃、少しだけ仲が良くなった男の子と、一緒にプロ野球を観に行った。
野球のルールをよくわからない早和に、彼は丁寧に教えてくれたけど、早和の左耳が聞こえない事を知らないせいか、左から熱心に説明されても、言葉の半分も聞き取れなかった。
1塁を守る大きな背中を、早和は目で追った。
早和は、左耳の事も、左の腎臓の事も、説明するのが面倒になると、その人から距離を取るようになった。彼に限らず、耳の事を話さなきゃならないと思うと、人との距離が近くなるのが、嫌になった。
奏が医大生の頃。
学生の早和は、風邪を引いて実習先の外来を受診したことがある。
医者から、耳の事や腎臓の事を何度も聞かれ、早和は、ぐったりしていた。
熱がある中、自己管理が足りないと怒られ、それでも看護師になるつもりかと、最後には医者に怒鳴られた早和は、診察室を出ていく時、消えそうな背中を奏にむけた。
会計を待つ早和の左隣りに、奏は座った。
「大丈夫?」
早和は返事がなかった。奏が反対側に座り直して声を掛けると、早和は不思議な顔をした。
「梶原先生、あんなふうに言わなくてもいいのにね。風邪なんて、誰だって引くんだし。」
研修医なのだろうか、早和は名札を見て、そう思った。
「私が悪いから。」
喉が痛むような乾いた咳をすると、
「ごめんなさい。」
早和はそう言ってマスクを押さえた。
「ここの学生さん?」
「そう。」
「勉強頑張ってね。だけど、あんまり無理しちゃダメだよ。」
「ありがとうございます。」
3年前、あの時学生だった早和は、NICUに入ってきた。
奏は1人しか入ってこなかった新人看護師の早和に、何かある度に声を掛けた。
「先生は、赤ちゃんが好きなんですか?」
早和は聞いてきた。
「俺は、大人が苦手なんだよ。」
「おかしな理由で、NICUにきたんですね。」
「そうだね。ここで勉強が済んだら、小児科に行くんだ。」
「小児科?」
「今、小児精神科医って、すごく需要があるんだよ。前からやってみたくてね。 」
「だからいつも赤ちゃんの声、聞いているんですね。」
「そうだよ。小さな背中はたくさんお話ししてる。」
奏は早和の背中に手をあてた。
「やだ、先生。私は赤ちゃんではないですよ。」
雨が上がった夜のアスファルトは、月の光りと街灯の灯りで、光沢がかかったように見えた。
所々にできている水溜りに風が通る度に、その光りがキラキラと揺れた。
先生。
赤ちゃんはなんて言ってるの?
本当は、もう少しお腹の中にいたかったって?
私もね、時々逃げたくなるの。
もう一度、母のお腹の中に戻ったら、この世界には、何も期待なんかしなかったのにな。
それほど大粒の雫ではなくても、傘が効かない強い風が吹いている。
早和は、更衣室で濡れた服を看護衣に着替えると、冷たくなった手をすり合わせて温めながら、NICUへ向かった。
「おはよう。」
優芽が言った。
「おはよう。」
「早和、昨日あれからどうしたの?」
「帰ったよ。澤口先生が家まで送ってくれた。」
「じゃあ澤口先生は、その後に病院に泊まったんだ。」
早和が保育器の前にいる奏を見ていると、長岡が何かを話している。
「昨日来たベビちゃん、心臓に病気が見つかったらしいよ。状態が安定しなくて、長岡先生はつきっきりだったらしい。澤口先生も、ずっとベビちゃんについていたんだって。」
看護師長が、長岡の妻から着替えを受け取っていた。
「早和、澤口先生とも、着替えを届ける様な関係になったら?」
優芽は言った。
「医者になるって決めた時から、泊まりは承知の上でしょう。」
早和はその子のモニターを見た。
昨日はキレイな波がたくさんあったのに、今日はその波が少なくなっている。
昼過ぎ。
両親が我が子に会いにきた。手術を終えた母を車椅子に乗せてやって来た優しそうな父。
保育器がそばにきた両親は、初めて会った我が子を見て、静かに泣いていた。
赤ちゃんの状態が安定しないので、長岡がすぐに処置に入ると、両親は担当の水島医師呼ばれ、NICUを後にした。
医師と両親が何を話しているのか、だいたい察しがつく。
やっと会えた我が子が背負った、あまりにも重い現実は、母親の肩に、もっと重くのしかかるだろう。
次に我が子に会いに来る時は、2人はどんな顔をしているだろう。
早和はその子のカルテを見ていた。
母親と父親は自分と同じ歳なのか。
母親は子宮を全部摘出したんだもの、なんとしてもこの子を、抱っこして家に連れて帰りたいだろうな。
夕方。
仕事が終わらない早和は、飲み物を買いに、売店に来ていた。
「秋元さん。」
奏が隣りに並ぶ。
「先生、今日は遅くなるの?」
「そうだね。」
「昨日、病院へ戻るなら、言ってくれたらよかったのに。」
「秋元さんの家について行ったのは、俺の方だし。」
早和がお茶を手にすると、奏も同じ物を買った。
「奢ってあげる。」
奏は早和が持っているお茶を手に取った。
「いいですよ。」
早和は奏が持っているお茶を取ろうとした。
「これから残業するんでしょう?」
「はい。」
「一緒に甘いものでも食べようか。」
奏はプリンを手に取ると、レジに向かった。
「ありがとう、先生。」
「秋元さん、今日は素直だね。」
「早和。」
売店を出たところで、早和は車椅子に乗った女性から声を掛けられた。
「やっぱり、早和だった。」
「涼子?」
「そうだよ。さっき、赤ちゃんを見に行った時、似てる人がいるなぁって思って、名札見たら、もしかしたらって思ったんだ。マスクしてたから確かめられなかったけど、やっぱり早和だった。」
「涼子、何年ぶりだろうね。」
「早和の彼?」
涼子は奏の方を見た。
「小児科の先生。同じ職場の人。」
「ねぇ、後で私の病室にきて。久しぶりに話したい事があるの。」
「うん。じゃあ、あとで。」
「病室、わかる?」
「わかるよ。」
「そっか、早和はここに勤めてるんだもね。」
奏は早和の肘を軽く突いた。
NICUへ戻る廊下を歩きながら、
「先生、どうかしました?」
早和が奏に聞いた。
「お母さんの所へ行くのは、あんまり関心しないよ。今、どういう状況か、いろいろ聞かれるかもしれないのに。」
「昔の話しをするだけです。」
「そうかな。親はなんとしても我が子を助けてほしいと思っているだろうし。」
「それは他の親もそうでしょう。」
「あんまり赤ちゃんの事、話すのはダメだからね。」
「わかってます。先生、プリンありがとう。」
18時40分。
「涼子、入るよ。」
早和が涼子の部屋を訪ねた。
「早和、仕事は終わったの?」
「ううん。もう、面会時間終わっちゃうから、ちょっと抜けてきた。」
中学からの同級生の古林涼子《ふるばやしりょうこ》と会うのは、高校を卒業して以来、7年ぶりになる。
「職員でも、面会は自由にならないの?」
「それはちゃんと守らないと。」
「早和は相変わらず真面目だね。」
「涼子、古林になったんだ。高校の時から付き合ってた、あの人でしょう。」
「そう。去年結婚したの。」
「おめでとう、知らなくてごめんね。」
「おめでとうって言わないでよ。今、どういう状況か、わかるよね。」
「ごめん。」
「ううん。こっちこそごめん。仕方ないよね、卒業してから、連絡取らなかったし。早和は同窓会も来なかったし。」
「涼子は行ったの、同窓会。」
「行ったよ。あのクラスで結婚したのは、私くらいかな。」
「そっか。」
「早和、さっきの先生とは付き合っているんでしょう?」
「違うよ。本当に仕事の仲間。」
「そうかな。先生が彼氏なんて羨ましい。」
「涼子の旦那さんは、優しそうだね。」
「優しいよ、すごく。」
涼子は少し淋しそうな顔をした。
「ねえ、ここのご飯、美味しくないでしょう?」
早和は話しを逸らした。
「そうだね、美味しくない。」
「今度、チーズケーキ買ってくるよ。涼子、好きだったでしょう。病院の近くにあるの、美味しいケーキ屋さん。」
「本当に?」
「楽しみにしてて。」
「うん。」
早和は仕事へ戻った。
帰り際に涼子の赤ちゃんのカルテを見ようとすると、奏が止めた。
「やめなよ。友達なら、見ないほうがいい。」
「仕事として見るだけですよ。」
「秋元さん、プリン残ってるよ。せっかく買ったんだから、一緒に食べようよ。」
「先生、どうしてあの赤ちゃんの事を、そんなに隠してるんですか?」
奏は休憩室へ行こうと早和を誘った。
「ほら。」
プリンを早和に渡した。
「今日はこれを食べたら帰ろうよ。」
「言われなくて、帰りますよ。」
早和はプリンをカバンに入れた。
「食べないの?」
「帰ってから食べます。」
早和は時計を見た。
「先生、今日も泊まりですか?」
「そうだね、長岡先生が泊まるから。」
「じゃあ、頑張ってください。」
「ねえ、秋元さん、明日は深夜って言ってたね。」
「そうです。」
「それなら、日中は家にいるの?」
「いますよ。」
「あのさ、お願いがあるんだけど。」
「なんですか?」
「俺の洗濯物、洗ってくれない?」
「はぁ?」
「今度はプリンじゃなくて、ケーキを奢るから。」
「ホールで?」
「ホール?」
「そうです。ホール。」
早和は手を丸くした。
「それ、一人で食べる気?」
「涼子と食べます。まだ入院してるみたいなんで。」
「秋元さん、それはさ、」
「なんですか?」
奏は何かを言い掛けてやめた。
「医局に洗濯物取りに行ってくるから、ちょっと待ってて。」
医局から洗濯物を持ってきた奏は、早和は紙袋を渡した。
「こんなにですか?」
「俺、汗かきだから。」
「澤口先生!」
長岡が奏を呼んでいる。
「じゃあ、頼んだよ。」
早和は、紙袋を抱えてNICUを後にした。
病院から帰る途中、早和はコンビニへ寄った。
コーラとお菓子をレジに持っていくと、隣りの男性と目が合った。
カゴと一緒にスポーツ新聞をレジに出して、会計を済ませた早和を、その男性は追ってきた。
「看護師さん。」
早和が振り向くと、男性の顔には、見覚えが合った。
「看護師さん、俺、涼子の旦那。」
男性はそう言った。
「そうでしたか?私、覚えてなくてすみません。」
「仕事、終わったの?」
「はい。旦那さんは、この近くで働いてるんですか?」
「会社はここから遠いけど、今、病院から、連絡があってね、これから行く所。」
「そうだったんですか。」
「看護師さん、じゃあ。」
早和は、赤ちゃんが急変したのだと感じた。奏が病院へ泊まるのも、きっとそのために待機していたんだ。これから涼子と会いづらくなるかも、早和はそう感じた。
家に帰り、奏の洗濯物を洗濯機に入れた。1回じゃ終わらないよ、これ、早和は独り言を言った。
干す場所、あるかな。
もう一度、紙袋に洗濯物を詰めると、自分の洗濯物も袋に詰め込んで、コインランドリーへ向かった。
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今年は青野も引退するのか。
大学の頃、少しだけ仲が良くなった男の子と、一緒にプロ野球を観に行った。
野球のルールをよくわからない早和に、彼は丁寧に教えてくれたけど、早和の左耳が聞こえない事を知らないせいか、左から熱心に説明されても、言葉の半分も聞き取れなかった。
1塁を守る大きな背中を、早和は目で追った。
早和は、左耳の事も、左の腎臓の事も、説明するのが面倒になると、その人から距離を取るようになった。彼に限らず、耳の事を話さなきゃならないと思うと、人との距離が近くなるのが、嫌になった。
奏が医大生の頃。
学生の早和は、風邪を引いて実習先の外来を受診したことがある。
医者から、耳の事や腎臓の事を何度も聞かれ、早和は、ぐったりしていた。
熱がある中、自己管理が足りないと怒られ、それでも看護師になるつもりかと、最後には医者に怒鳴られた早和は、診察室を出ていく時、消えそうな背中を奏にむけた。
会計を待つ早和の左隣りに、奏は座った。
「大丈夫?」
早和は返事がなかった。奏が反対側に座り直して声を掛けると、早和は不思議な顔をした。
「梶原先生、あんなふうに言わなくてもいいのにね。風邪なんて、誰だって引くんだし。」
研修医なのだろうか、早和は名札を見て、そう思った。
「私が悪いから。」
喉が痛むような乾いた咳をすると、
「ごめんなさい。」
早和はそう言ってマスクを押さえた。
「ここの学生さん?」
「そう。」
「勉強頑張ってね。だけど、あんまり無理しちゃダメだよ。」
「ありがとうございます。」
3年前、あの時学生だった早和は、NICUに入ってきた。
奏は1人しか入ってこなかった新人看護師の早和に、何かある度に声を掛けた。
「先生は、赤ちゃんが好きなんですか?」
早和は聞いてきた。
「俺は、大人が苦手なんだよ。」
「おかしな理由で、NICUにきたんですね。」
「そうだね。ここで勉強が済んだら、小児科に行くんだ。」
「小児科?」
「今、小児精神科医って、すごく需要があるんだよ。前からやってみたくてね。 」
「だからいつも赤ちゃんの声、聞いているんですね。」
「そうだよ。小さな背中はたくさんお話ししてる。」
奏は早和の背中に手をあてた。
「やだ、先生。私は赤ちゃんではないですよ。」
雨が上がった夜のアスファルトは、月の光りと街灯の灯りで、光沢がかかったように見えた。
所々にできている水溜りに風が通る度に、その光りがキラキラと揺れた。
先生。
赤ちゃんはなんて言ってるの?
本当は、もう少しお腹の中にいたかったって?
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