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3章
秋が落としたもの
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切られた爪の様な形をした月が、紺色の夜に浮かんでいる。
23時。
奏から頼まれた洗濯物を持って、早和は病院へ向う。病院から近い場所には、たくさんのアパートが建ち並ぶ。同じ時間に歩いている人を見ると、あの人も病院の職員なのだろうと思えてくる。
いつも立ち寄るコンビニへ行くと、
「今日はこれから仕事?」
店員が声を掛けてきた。
「そうです。」
「大変だね。」
「お兄さんも、夜中中仕事なんでしょう?」
「そうだね。昨日、新しいパン出たよ。」
「本当に?」
「今はもうないから、夜勤が終わったら買いにおいで。」
「商売上手ですね。」
「お客さん、いつも、スポーツ新聞買いに来るでしょう。しかも、岡田がホームランを打った時に。」
「バレてました?」
「わかるよ。正直な人だなって思ってた。」
次の人がレジに並んだので、じゃあ、と言って早和はコンビニを出た。
病院か近くても、紙袋2つはけっこう重いわ。
よいしょとひとつを胸に抱えると、病院までの道を急いだ。
職員玄関を開けると、お線香のにおいがした。
誰か亡くなったんだ。
霊安室の前を通り、2階にある更衣室へ向かった
生まれてきたら死ぬ事は決まっているのに、生きている時は、もしかしたら自分だけは、死ぬ事なんて関係ないとさえ思ったりする。
NICUに行くと、涼子の赤ちゃんが入っていた保育器がなかった。
早和が記録を読んでいると、準夜勤の看護師が早和の前に来た。
「秋元さん、これからもう一人くるから。」
「えっ?」
「飛び込みよ、飛び込み出産。救命の先生、なんで受け入れちゃうかな。」
涼子の赤ちゃんの事を考える暇もなく、早和はやって来た赤ちゃんの処置に追われた。
1864グラムで産まれた子は、大人の事情も知らず、すやすやと眠っている。
「お母さん、高校生だって。誰にも言えず、薬を飲んでお風呂場で手首を切ったらしいよ。親が部屋に残された薬の殻に気がついて、慌てて家中を探したら、お風呂場で冷たい水に浸かりながら、意識を失ってたんだって。救急車にまたまた同乗した女の救命士が、妊娠してる事に気がついたらしい。」
同じ深夜勤の看護師がそう言った。
「言葉が出ないです。」
「昨日は、あの保育器のベビちゃんとお母さんが亡くなったみたいだし。」
「えっ?」
「秋元さん、知らなかったの?あのベビちゃんのお母さん、本当は子宮頸がんの手術なんてしてないよ。家族みんなで隠し通してたみたい。」
「お母さんは、自分の病気の事を知らなかったんですか?」
「妊娠して、ガンが見つかった時には、肺にも転移していたみたいでね。家族でどうするか話し合って、本人には何も言わないって決めたらしいよ。赤ちゃんの事は、最初は諦めさせようとしたんだけど、どうしても産みたいって本人は言い続けたんだって。赤ちゃんが生まれるまでには、お母さんの体は持たないだろうって思ってたけど、8ヵ月を超えたから、帝王切開で赤ちゃんを出して、お母さんに会わせようって、産婦人科の先生が家族と話したみたいだよ。長岡先生は、お母さんに赤ちゃんを抱かせたくて、必死だった。」
「お母さん、抱っこできたんですか?」
「それが、できなかったの。」
保育器からアラームがなり、早和はそこに向かった。
聴診器を胸にあてようとすると、奏がやって来た。
「時々、息をするのを忘れる子だね。まだお腹の中にいると思ってる。」
奏はモニターを見た後、赤ちゃんの胸に聴診器をあてた。
「一晩経てば、生まれてきた事に気がつくよ。」
「明日は、コットに移りますか?」
早和は奏に聞いた。
「ちゃんと息するように、見張っててよ。」
奏は休憩室から紙袋を持ち、NICUを後にした。
「先生。」
早和は奏を呼び止めた。
「みんな寝てるから、静かにね。」
奏は出ていった。
夜勤を終えて、開ける職員玄関は、どんなに曇っていても、痛みを伴う光りを感じる。
白い壁の病院とは違う眩しさが、目の奥まで突き刺さる様だ。
みんなが活動している時間に、帰って眠る事は、罪悪感と優越感が何層にも重なる。
いつまでこんな生活が続くのだろう。
いつ眠ればいいか、いつ食べればいいか、もうよくわからなくなってきた。
少し昼寝をしたら、夜になってもぜんぜん眠れないのに、夜勤の時間が近くなると、瞼が急に重くなる。
ベッドに入ってから、ポイっと口に入れる物ばかり選んでいるうちに、食事に対する執着がなくなった。
「秋元さん。」
奏が出勤してきた。
「先生、今日は遅いですね。」
「昨日、久しぶりに家に帰って寝たら、寝坊したよ。長岡先生に、電話で起こされた。」
「秋元さん、洗濯物ありがとう。今日は休み?」
「はい。」
「夕方、約束のケーキ届けるから、家で待ってて。」
奏は吸い込まれるように玄関に入っていった。
家に来られても困るのに。
早和はシャワーを浴びた後、携帯を見ながらお菓子を食べているうちに、いつの間にか、そのまま床で眠ってしまった。
チャイムの音でびっくりして起きると、奏がケーキを届けると言った事を思い出した。
玄関の覗き窓から、恐る恐る外を見ると、奏が立っている。
どうしよう、ひどい格好だけど…、
早和が着替えようか迷っていると、またチャイムがなった。
勢いでドアを開けて奏を見ると、
「もしかして、寝てた?」
奏は笑った。
「ほら、約束のケーキ。」
「ありがとうございます。」
「本当に1人で食べる気?」
早和は少し考えた。
「先生、涼子の事、知ってたんでしょう?」
早和が奏に聞くと
「上がってもいい?」
奏が家に入ってきた。
「本当に寝てたんだ。」
奏は床にある毛布とお菓子を見つけた。
「秋元さんは風邪引いたら、取り返しのつかない事になるよ。」
「今さらそんな事どうでもいいよ。ねえ、涼子の事、教えて。」
「その前に、何か上に着てきなよ。その格好じゃあ、目のやり場に困るよ。」
「先生、これならいいですか?」
早和はキャミソールと短パンの上に床に置きっぱなしの毛布を羽織った。
「それでもいいけどさ。秋元さん、家と病院ではずいぶん印象が違うんだね。」
「どんな風にですか?」
「病院で会うと、生活感が全然ないけど、家にいるとやっぱり普通の女の子なんだなって思う。」
「家の中まで看護師さんなんて、やってられません。先生、何か飲みますか?」
「そうだね。」
早和は毛布を置いて台所へ行った。
「秋元さん、だから、何か着てよ。」
奏が早和の肩を掴んだ。
「先生、コーヒーでいい?」
早和はカップを選びながら、泣いていた。
「秋元さん。」
「毎日毎日悲しい事ばっかり…。」
奏が早和の背中を抱きしめようとすると、
「これでいいですか?」
早和は涙を拭いて奏にカップを見せた。
「それでいいよ。コーヒーはどこ?」
「こっち。」
「ケーキの皿は?」
「切らないで、そのまま食べてもいいですか?」
早和は大きなフォークを2つ出した。
「意外とどうでもいい人なんだね。」
「でしょう?だから看護師の仕事なんて、本当は無理なんです。」
奏が持ってきた箱を開けると、フルーツがたくさんのっているケーキが出てきた。
「これ、先生が選んだんですか?」
「そうだよ。」
「ありがとう、先生。」
早和は食べようとして、奏を見た。
「どうしたの?食べなよ。」
「先生は食べないの?」
「俺はお腹いっぱいだから。」
奏は早和の顔を見ていた。
「涼子の事、先生は知ってたんでしょう?」
早和がケーキをさしているフォークを止めた。
「そうだね。赤ちゃんの心臓に穴が開いてる事も、長岡先生から聞いてた。」
「みんなで涼子を騙してたの?」
「騙してなんかいないよ。旦那さんが、最後に奥さんの願いを叶えるために選んだ事だから。初めは子供を見ることもできないと思ったのに、奥さんは長く生きて、赤ちゃんが産める様になった。赤ちゃんが生まれたら、助からないって知ってても、赤ちゃんも奥さんももう少し生きててほしいって、みんな必死だった。」
「涼子はきっと自分が助からないって、わかってたと思うよ。」
「そうかもしれないね。」
「先生、今日きた赤ちゃんのお母さんも、すごく辛かったんだね。」
「親になるって、みんな辛いんだよ。」
早和は自分の両親を思い出した。
「なんでも母親のせいにされたら、子供だってたまんないよ。」
そう言って早和は膝を抱えた。
「もう嫌になる。」
顔を伏せた早和の肩を、奏は抱き寄せた。
「ごめんなさい、先生。ケーキ、食べよう。」
奏の腕から逃げるように、早和はケーキを食べた。
「美味しいよ、先生も食べない?」
「秋元さん、そんなに思い詰めてるなら、ちゃんと気持ちを話してほしいな。」
奏は早和をもう一度抱き寄せた。
早和は少し驚いた様だったが、フォークを置いて、奏に寄りかかった。
「ほら、風邪引いたらダメだって言われてるだろう。」
「わかってる。」
奏は早和の体を毛布で包むと、自分の胸にいる早和を優しく抱きしめた。
「先生、温かいね。」
「秋元さんが冷たいんだよ。」
「そうかな。」
奏は早和の背中を撫でた。
腕の中で目を閉じていた早和に、奏は静かに唇を重ねた。
「早和、どんな気持ち?」
「涼子、どこにいるの?」
「暗闇の中だよ。早和、私の子を返してよ。」
「赤ちゃんと一緒にいるんじゃないの?」
「赤ちゃんは地獄へ行ったの。」
「そんな、どうして地獄になんて行くのよ。」
「親より先に死んだ子はね、地獄に行くのよ。私の方が、あの子よりも先に死ねば良かったのに。」
「そんな悲しい事、言わないで。」
「早和、私の事、笑ってるでしょう?」
「笑ってないよ。何を言うの?」
「嘘。私の赤ちゃんを奪った医者と寝てるなんて、もう子供を産めない私の事を、笑ってるんでしょう?左耳が聞こえないし、腎臓もひとつしかないし、可哀想な早和は、どうせ当たり前の結婚なんてできないと思っていたのに。どうして、私より幸せそうな顔をしてるの!」
「涼子、何言ってるの!」
「早和の嘘つき!」
心臓の鼓動が速くなり、早和は飛び起きた。
早和の隣りで眠っていた奏が目を覚ます。
「どうした?」
「なんでもない。」
ベッドから出て窓を見ると、この前より少し大きくなった月が、歪んで見える。
「早和。」
「何?」
「もう少し、眠ろうか。」
「そうだね。」
ベッドに戻ると、早和は奏に背中を向けた。
奏は早和を自分の方に向かせると、キスをして体を包んだ。
「先生。」
早和は少し泣いていた。
「ごめん。もう少し、こうしてもいいかい。」
奏は早和を自分の胸に押し当てた。
涼子、ごめんね。
本当に知らなかったの。
先生。
涼子の思いは、ずっと残ったままだよ。何も言わないで逝ってしまった赤ちゃんは、本当は涼子に抱かれるために、生まれてきたのにね。
いくら保育器を温めても、人の温もりは作り出さないの。
先生の手、温かいね。
涼子が悲しむから、もう握らないよ。
23時。
奏から頼まれた洗濯物を持って、早和は病院へ向う。病院から近い場所には、たくさんのアパートが建ち並ぶ。同じ時間に歩いている人を見ると、あの人も病院の職員なのだろうと思えてくる。
いつも立ち寄るコンビニへ行くと、
「今日はこれから仕事?」
店員が声を掛けてきた。
「そうです。」
「大変だね。」
「お兄さんも、夜中中仕事なんでしょう?」
「そうだね。昨日、新しいパン出たよ。」
「本当に?」
「今はもうないから、夜勤が終わったら買いにおいで。」
「商売上手ですね。」
「お客さん、いつも、スポーツ新聞買いに来るでしょう。しかも、岡田がホームランを打った時に。」
「バレてました?」
「わかるよ。正直な人だなって思ってた。」
次の人がレジに並んだので、じゃあ、と言って早和はコンビニを出た。
病院か近くても、紙袋2つはけっこう重いわ。
よいしょとひとつを胸に抱えると、病院までの道を急いだ。
職員玄関を開けると、お線香のにおいがした。
誰か亡くなったんだ。
霊安室の前を通り、2階にある更衣室へ向かった
生まれてきたら死ぬ事は決まっているのに、生きている時は、もしかしたら自分だけは、死ぬ事なんて関係ないとさえ思ったりする。
NICUに行くと、涼子の赤ちゃんが入っていた保育器がなかった。
早和が記録を読んでいると、準夜勤の看護師が早和の前に来た。
「秋元さん、これからもう一人くるから。」
「えっ?」
「飛び込みよ、飛び込み出産。救命の先生、なんで受け入れちゃうかな。」
涼子の赤ちゃんの事を考える暇もなく、早和はやって来た赤ちゃんの処置に追われた。
1864グラムで産まれた子は、大人の事情も知らず、すやすやと眠っている。
「お母さん、高校生だって。誰にも言えず、薬を飲んでお風呂場で手首を切ったらしいよ。親が部屋に残された薬の殻に気がついて、慌てて家中を探したら、お風呂場で冷たい水に浸かりながら、意識を失ってたんだって。救急車にまたまた同乗した女の救命士が、妊娠してる事に気がついたらしい。」
同じ深夜勤の看護師がそう言った。
「言葉が出ないです。」
「昨日は、あの保育器のベビちゃんとお母さんが亡くなったみたいだし。」
「えっ?」
「秋元さん、知らなかったの?あのベビちゃんのお母さん、本当は子宮頸がんの手術なんてしてないよ。家族みんなで隠し通してたみたい。」
「お母さんは、自分の病気の事を知らなかったんですか?」
「妊娠して、ガンが見つかった時には、肺にも転移していたみたいでね。家族でどうするか話し合って、本人には何も言わないって決めたらしいよ。赤ちゃんの事は、最初は諦めさせようとしたんだけど、どうしても産みたいって本人は言い続けたんだって。赤ちゃんが生まれるまでには、お母さんの体は持たないだろうって思ってたけど、8ヵ月を超えたから、帝王切開で赤ちゃんを出して、お母さんに会わせようって、産婦人科の先生が家族と話したみたいだよ。長岡先生は、お母さんに赤ちゃんを抱かせたくて、必死だった。」
「お母さん、抱っこできたんですか?」
「それが、できなかったの。」
保育器からアラームがなり、早和はそこに向かった。
聴診器を胸にあてようとすると、奏がやって来た。
「時々、息をするのを忘れる子だね。まだお腹の中にいると思ってる。」
奏はモニターを見た後、赤ちゃんの胸に聴診器をあてた。
「一晩経てば、生まれてきた事に気がつくよ。」
「明日は、コットに移りますか?」
早和は奏に聞いた。
「ちゃんと息するように、見張っててよ。」
奏は休憩室から紙袋を持ち、NICUを後にした。
「先生。」
早和は奏を呼び止めた。
「みんな寝てるから、静かにね。」
奏は出ていった。
夜勤を終えて、開ける職員玄関は、どんなに曇っていても、痛みを伴う光りを感じる。
白い壁の病院とは違う眩しさが、目の奥まで突き刺さる様だ。
みんなが活動している時間に、帰って眠る事は、罪悪感と優越感が何層にも重なる。
いつまでこんな生活が続くのだろう。
いつ眠ればいいか、いつ食べればいいか、もうよくわからなくなってきた。
少し昼寝をしたら、夜になってもぜんぜん眠れないのに、夜勤の時間が近くなると、瞼が急に重くなる。
ベッドに入ってから、ポイっと口に入れる物ばかり選んでいるうちに、食事に対する執着がなくなった。
「秋元さん。」
奏が出勤してきた。
「先生、今日は遅いですね。」
「昨日、久しぶりに家に帰って寝たら、寝坊したよ。長岡先生に、電話で起こされた。」
「秋元さん、洗濯物ありがとう。今日は休み?」
「はい。」
「夕方、約束のケーキ届けるから、家で待ってて。」
奏は吸い込まれるように玄関に入っていった。
家に来られても困るのに。
早和はシャワーを浴びた後、携帯を見ながらお菓子を食べているうちに、いつの間にか、そのまま床で眠ってしまった。
チャイムの音でびっくりして起きると、奏がケーキを届けると言った事を思い出した。
玄関の覗き窓から、恐る恐る外を見ると、奏が立っている。
どうしよう、ひどい格好だけど…、
早和が着替えようか迷っていると、またチャイムがなった。
勢いでドアを開けて奏を見ると、
「もしかして、寝てた?」
奏は笑った。
「ほら、約束のケーキ。」
「ありがとうございます。」
「本当に1人で食べる気?」
早和は少し考えた。
「先生、涼子の事、知ってたんでしょう?」
早和が奏に聞くと
「上がってもいい?」
奏が家に入ってきた。
「本当に寝てたんだ。」
奏は床にある毛布とお菓子を見つけた。
「秋元さんは風邪引いたら、取り返しのつかない事になるよ。」
「今さらそんな事どうでもいいよ。ねえ、涼子の事、教えて。」
「その前に、何か上に着てきなよ。その格好じゃあ、目のやり場に困るよ。」
「先生、これならいいですか?」
早和はキャミソールと短パンの上に床に置きっぱなしの毛布を羽織った。
「それでもいいけどさ。秋元さん、家と病院ではずいぶん印象が違うんだね。」
「どんな風にですか?」
「病院で会うと、生活感が全然ないけど、家にいるとやっぱり普通の女の子なんだなって思う。」
「家の中まで看護師さんなんて、やってられません。先生、何か飲みますか?」
「そうだね。」
早和は毛布を置いて台所へ行った。
「秋元さん、だから、何か着てよ。」
奏が早和の肩を掴んだ。
「先生、コーヒーでいい?」
早和はカップを選びながら、泣いていた。
「秋元さん。」
「毎日毎日悲しい事ばっかり…。」
奏が早和の背中を抱きしめようとすると、
「これでいいですか?」
早和は涙を拭いて奏にカップを見せた。
「それでいいよ。コーヒーはどこ?」
「こっち。」
「ケーキの皿は?」
「切らないで、そのまま食べてもいいですか?」
早和は大きなフォークを2つ出した。
「意外とどうでもいい人なんだね。」
「でしょう?だから看護師の仕事なんて、本当は無理なんです。」
奏が持ってきた箱を開けると、フルーツがたくさんのっているケーキが出てきた。
「これ、先生が選んだんですか?」
「そうだよ。」
「ありがとう、先生。」
早和は食べようとして、奏を見た。
「どうしたの?食べなよ。」
「先生は食べないの?」
「俺はお腹いっぱいだから。」
奏は早和の顔を見ていた。
「涼子の事、先生は知ってたんでしょう?」
早和がケーキをさしているフォークを止めた。
「そうだね。赤ちゃんの心臓に穴が開いてる事も、長岡先生から聞いてた。」
「みんなで涼子を騙してたの?」
「騙してなんかいないよ。旦那さんが、最後に奥さんの願いを叶えるために選んだ事だから。初めは子供を見ることもできないと思ったのに、奥さんは長く生きて、赤ちゃんが産める様になった。赤ちゃんが生まれたら、助からないって知ってても、赤ちゃんも奥さんももう少し生きててほしいって、みんな必死だった。」
「涼子はきっと自分が助からないって、わかってたと思うよ。」
「そうかもしれないね。」
「先生、今日きた赤ちゃんのお母さんも、すごく辛かったんだね。」
「親になるって、みんな辛いんだよ。」
早和は自分の両親を思い出した。
「なんでも母親のせいにされたら、子供だってたまんないよ。」
そう言って早和は膝を抱えた。
「もう嫌になる。」
顔を伏せた早和の肩を、奏は抱き寄せた。
「ごめんなさい、先生。ケーキ、食べよう。」
奏の腕から逃げるように、早和はケーキを食べた。
「美味しいよ、先生も食べない?」
「秋元さん、そんなに思い詰めてるなら、ちゃんと気持ちを話してほしいな。」
奏は早和をもう一度抱き寄せた。
早和は少し驚いた様だったが、フォークを置いて、奏に寄りかかった。
「ほら、風邪引いたらダメだって言われてるだろう。」
「わかってる。」
奏は早和の体を毛布で包むと、自分の胸にいる早和を優しく抱きしめた。
「先生、温かいね。」
「秋元さんが冷たいんだよ。」
「そうかな。」
奏は早和の背中を撫でた。
腕の中で目を閉じていた早和に、奏は静かに唇を重ねた。
「早和、どんな気持ち?」
「涼子、どこにいるの?」
「暗闇の中だよ。早和、私の子を返してよ。」
「赤ちゃんと一緒にいるんじゃないの?」
「赤ちゃんは地獄へ行ったの。」
「そんな、どうして地獄になんて行くのよ。」
「親より先に死んだ子はね、地獄に行くのよ。私の方が、あの子よりも先に死ねば良かったのに。」
「そんな悲しい事、言わないで。」
「早和、私の事、笑ってるでしょう?」
「笑ってないよ。何を言うの?」
「嘘。私の赤ちゃんを奪った医者と寝てるなんて、もう子供を産めない私の事を、笑ってるんでしょう?左耳が聞こえないし、腎臓もひとつしかないし、可哀想な早和は、どうせ当たり前の結婚なんてできないと思っていたのに。どうして、私より幸せそうな顔をしてるの!」
「涼子、何言ってるの!」
「早和の嘘つき!」
心臓の鼓動が速くなり、早和は飛び起きた。
早和の隣りで眠っていた奏が目を覚ます。
「どうした?」
「なんでもない。」
ベッドから出て窓を見ると、この前より少し大きくなった月が、歪んで見える。
「早和。」
「何?」
「もう少し、眠ろうか。」
「そうだね。」
ベッドに戻ると、早和は奏に背中を向けた。
奏は早和を自分の方に向かせると、キスをして体を包んだ。
「先生。」
早和は少し泣いていた。
「ごめん。もう少し、こうしてもいいかい。」
奏は早和を自分の胸に押し当てた。
涼子、ごめんね。
本当に知らなかったの。
先生。
涼子の思いは、ずっと残ったままだよ。何も言わないで逝ってしまった赤ちゃんは、本当は涼子に抱かれるために、生まれてきたのにね。
いくら保育器を温めても、人の温もりは作り出さないの。
先生の手、温かいね。
涼子が悲しむから、もう握らないよ。
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