背中の言い訳

小谷野 天

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1章

道のない道

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 左足を踏み出すと、たちまち膝のあたりまで雪に埋まった。
 準備をしていたはずの右足は、まだ誰も踏んでいない真っ白な地面に竦んで出す事ができない。
 
「優里、もう少ししたら除雪が入るんだから、家に入ってなさい。」
 母が窓からそう叫んだ。
「お母さん、遅刻しちゃうよ!」
 佐伯優里《さえきゆり》は、雪の中で冷たくなっていく左足を庇うように、右足を雪の中に入れた。
 スカートの裾に雪がついたのは知っていたが、冷たくなってきた左足を雪の中から出し、もう一度、深い雪の中にゆっくりと入れる。
 靴の中には柔らかい雪が入り、タイツ一枚の足は一瞬温かくなったのかと勘違いしている。
「今日はこれからますますひどくなるのよ。とにかく家に入ってよ。」
 母の言葉に優里はふてくされながら、スカートを太腿までたくし上げた。
 渋々、今つけた足跡を辿って家に戻る。
 雪だらけになった体を玄関で震わせ、頭、肩、足と、すでに水になり掛けている雪を、手でパンパンと払った。

 家に入ると、母の松江《まつえ》と妹の真里《まり》が、ご飯を食べていた。
「優里も食べな。この雪じゃあ吹雪いて前が見えないから、学校には行けないよ。」
 母は食パンを一枚手に取った。
「焼くの、そのまま食べるの、どっち?」
 能天気な母と妹の態度に、優里はだんだん腹が立ってきた。
「今日は期末テストがあるの。これで評価が決まるんだから、欠席なんて絶対できないのに!」
 昨日の天気予報では、明け方には雪が晴れると言っていたのに、低気圧はノロノロと進み、まるで自分を笑っているようだ。
 学校は臨時休校にならないって言うし、自分の家から町まで出る道路の見通しが悪いだけで交通機関も通常運行している。
 この状況の中、悪天候だから欠席するなんて、絶対再試験は認められないに決まってる。
「なにも命がけでテストを受ける事なんてないよ。お母さんから、学校に休むって連絡しておくから、テストは別の日に受けたらいいじゃない。」
「待ってお母さん。お父さんは会社へ行くんでしょう?私を学校まで車で送って行ってよ。」
 優里は母に頼んだ。
「ダメ。お父さんの会社と優里の学校は反対方向だし、今日は諦めて家にいて。」
 母の言葉に優里は涙が溢れそうになり、自分の部屋までの階段を、バタバタと駆け上がった。
 濡れた制服を脱ぎ捨てると、ベッドに突っ伏して、声を殺して泣いた。
 
 4月。
 高校最後の1年が始まった。
 あの雪の日に欠席した期末テストは、結局受ける事が許されなかった。

 優里の住む町と高校は離れていた。優里はいつも汽車とバスを乗り継ぎ、2時間程掛けて通学していた。地元にも高校は一校あったが、どんなに募集人数を下げても、ここ何年も定員割れが続いている。
 この町の中学生は、名前さえ書けば入学できるその高校に、なんの努力もせずに進んでいく。同級生の大半が、保育園からずっと同じ進路を辿る中、優里はわざわざ区域の違う高校を選んで進学した。少し考えたらそうでもしなければ、これからの人生の選択肢が限られるというのに。
 自分達は下流にいて、上から流れてくるものを、ただ待って暮している人間だって、誰も気がついていない。足元に着いたものを喜んで手にするなんて、なんとも情けなくてつまらない。
 私はそんな人生を送らず、少しでも上流の近くに行くんだ。そしてそこから、いらないものをさっさと川下へ流してしまえばいい。
 進学クラスのある高校に入学した優里は、高校1年の初めの頃は安定した成績を保っていたが、だんだんと思うように点数が伸びなくなってきた。
 クラスの子のほとんどが、大学受験に備え進学塾に通っている。効率良く模試やテストの対策を身につけていく中、ただ授業の予習復習をするだけでは、その差は広がるばかりだった。
 高校最後の春、毎年行われている進学クラスの入れ替えで、優里は通常クラスへ格下げとなってしまった。10月にあった中間テストは風邪を引いて高熱を出し、それでも学校へ行こうとする優里を母は止めた。
 受験は自分が熱を出そうが、自分の町が悪天候だろうが、よほど災害級の出来事が起きない限り、通常通り行われる。普段から試験に備えての体調管理、数日前からいろんな事を予想して準備をする事が、大学受験だけでなく、これから社会に出て認められるための最低限の常識だと、特進クラスの担任が優里にそう言った。
 クラスの中で、自分がどの位置にいるのか、それはよくわかっている。努力だけでは追いつかない状況になってきた自分の存在が、担任にとっては足手まといだという事も、よくわかっている。
 それでもなんとか進学クラスに残りたくて、期末試験までの間、毎日必死で勉強してきたのに。
 今まで親しい友達も作らず、高校生らしい日常なんてひとつもなかった。
 
 なのに、神様はとうとう、こっちを向いてはくれなかった。

 4月6日。
 自分が入れ替えになったクラスでは、初めて顔を合わせる同級生達ばかりで、なかなかその輪の中に入っていくことができなかった。進学クラスからやってきた落ちこぼれの自分を見る視線は、どこか冷ややかなものだと感じた。
 誰とも話さず一人で席に座っていると、聞きたくもない笑い声が誇張されて耳に残る。
 部活動に明け暮れているか、誰が誰を好きとか嫌いとか、アホみたいに無駄な感情に左右されている人達。高校生活なんて、何より思い出作りが大切だと思っているこの集団の中で、私は最後の一年をやり過ごすさなければならないのか。
 
「佐伯、お前、Aから落ちてきたんだよな。」
 隣りの席になった高田直哉《たかだなおや》が、優里にそう言った。
 将来を見据られないような、この手の人間はかなり苦手だ。これからはなんの感情も持たず、目立たない様に過ごせばいいや。
「佐伯さんだっけ?」
 前の席にいた八木悠《やぎはるか》が、優里の方を向いた。
「小5の時に一緒だったよね?」
 優里はその顔に少し見覚えがあった。
「悠?」
「そう。優里と同じ高校だったなんて、ぜんぜん知らなかった。」
 悠はそう言うと、優里の手をぎゅっと掴んだ。
「うちの親、転勤族だから、ここの町には去年から住んでいたの。良かった、あんまり話す人がいなかったから、優里が一緒なら心強い。」
 自分がこのクラスにきて落胆している事を知らない悠には、なんの悪気もない。
「去年、ここに転校してきたの?」
 優里は悠にそう聞いた。
「そうだよ。ねえ、これからお弁当、一緒に食べよう。」
 悠は嬉しそうに優里の手を揺すると、 
「良かった。これから楽しくやろうね。」
 そう言った。
 テンションの高い悠に、優里は少しうんざりした。前のクラスでは、こんな煩わしい人付き合いなどなかったから、正直めんどくさい。友達という存在は、自分の時間を削っていくようだ。

 学校が終わり駅まで歩いていると、さっき自分をからかった高田が、優里を追いかけてきた。
「佐伯、お前も駅まで行くんだろう。」
「そうだけど。」
 優里は目を合わせず、黙々と歩いている。
「17時の汽車に乗るのか?」
「うん。」
「俺もそう。」
「同じ汽車になった事なんてあった?」
 優里は初めて高田の顔を見た。
 雨に濡れたような黒い瞳とスーッと整った鼻筋。優里は一瞬、何の音も聞こえず、高田の顔に魅入った。
「俺は反対の汽車。佐伯の乗る汽車と出発するのは一緒だろう。」
 高田の声が近くで聞こえると、優里は現実に戻った。 
「そういえばそうだね。」
 進学クラスから落ちたと言っても、自分は人の羨むような大学へ行くんだ。高校なんて通過点。役に立たない思い出なんて、ひとつもいらない。
「佐伯、なんでそんなテンションなの?」
 高田は優里の肩に手を置いた。
「知らない。」
 優里はそう言うと、高田から離れる様に走って駅まで向かった。
 汽車に乗り込むと、隣りに停まる車両に高田が乗っているのが見えた。優里は高田に気づかれない様、窓から顔が見えない位置に座り直した。

 次の日。
 休み時間に勉強していた優里の参考書を、高田が奪った。
「佐伯、勉強ばっかりしてたら体壊すよ。」
「返してよ。」
 優里は高田が持っている参考書に手を伸ばした。隙をついて奪い取ると、さっき見ていたページを急いで探した。
「最後の高校生活なんだって。」
 高田は優里の肩に手を置いた。
「高田くん、あんまりしつこいと、優里は本気で怒るよ。」
 悠が高田に注意すると、高田は優里にごめんと言って席を離れた。
「ねぇ、優里。どこの大学を目指してる?」
「まだ、決めてない。悠は?」
「私は入れたらどこでもいいや。」
 悠はそう言って、席を立った。 
「邪魔してごめんね、優里。」

 
 
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