背中の言い訳

小谷野 天

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2章

汚れたタオル

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 まだ硬い蕾がつく桜の木は、季節外れの名残り雪に濡れ、冷たい空気の中を、寒そうに震えている。

 今年はとうとう、家の前のお寺に咲く薄桃色の花を見ることはできなかった。
 段ボールがひとつまたひとつと引っ越しのトラックに積まれると、優里の心に空いた穴に、桜の木を揺らしている風が流れてきた。

 希望していた国立大学は不合格になり、滑り止めで受けた私立のマンモス大学へ、優里はなんとか進学した。家族には、何度も浪人させてほしいと頼んだが、女なんだから、そんなに上を目指す必要はないと、あっさり自分の意見は断られた。
 私の人生は一体どこから崩れてしまったのだろう。特進クラスに合格できた中学3年生の頃が、人生のピークだったとすると、これからの時間は、ただ歳を取っていくだけの虚しいものなのか。

 行ける大学に行くと言っていた悠は、特進クラスに入れるだけの実力はあったのに、通常のクラスを希望していた事を、後から知った。
 すんなり優里の第一志望だった国立大学に合格してたなんて、悠がただただ羨ましい。
 
 入学式。
 能天気な自分の家族は、田舎者丸出しで、何かにつけて声が大きくて恥ずかしかった。
 大学のレベルなんてよくわからないくせに、人が多いと、人気のある学校だと盛大に勘違いして、不機嫌な私を持ち上げる事に、さっきからずっとうんざりしていた。
 自分はもうすでに、負け組の仲間入り。これからはせいぜい単位を落とさない程度に勉強して、地味だけど安定した仕事にでも就くのが、最下流で暮らさないための最善策。
 入学式の看板の前で、写真を撮るための行列に並ぼうとする母の話しを聞かず、優里は駐車場に停めてある父の車へと急いだ。

 家族が帰った後のアパートは、自宅の自分の部屋とは違い、暖まりきらない空気が、さっきから行ったり来たりしている。
 優里は膝を抱えると、いろんな後悔が背中を撫でているのか、吐き出せない気持ちに胸が苦しくなり、涙が溢れた。

 7月。
 大学の長い夏休みが近づいた頃、優里はバイトの帰りに、近くの本で立ち読みをしていた。
 
 やっぱりこの本、つまらない。

 優里が本の表紙を眺めていると、ギターケースを持った男性が、自分の後ろを横に避けるように通っていった。
 男性にしては少し長めの金髪と、小さめの青いTシャツ。細いように見えても、ギッとした筋肉が見える腕。あんな風に人目を気にせず、自分の好きな事に没頭する事ができたら、私もいつか、心が満たされる日がくるのかな。優里は金髪に惹かれる様に、その背中をついて出口まで向った。
 すると金髪は、急に立ち止まったかと思うと、勢いよく後ろを振り返った。近くにいた優里の顔と、ギターケースの角が、ボンッと鈍い音を立ててぶつかる。
「痛っ!」
 優里は咄嗟に顔を押さえたが、鼻から生温かいものが流れてくるのがわかった。慌ててカバンからテッシュを取り出そうとするが、片手ではなかなかうまく取り出す事ができない。
「ごめん、大丈夫?」
 金髪はポケットからテッシュを出すと、優里に渡した。
「車にタオルがあるから、」
 金髪は優里の手を引っ張ると、駐車場まできた。車のドアを開け、優里を後部座席に座らせると、金髪はその隣りに座って、タオルで優里の鼻を押さえた。
「タオル、汚れちゃいますよ。」
 優里は鼻声でそう言うと、タオルが汚れないように、鼻から離そうとした。タオルの下から出てきた、鼻が少し青くなった優里の顔を見て、金髪は堪えきれず笑い出した。
「ごめん、服まで汚れちゃったね。」
 笑いを堪えてそう言われても、こうなったのはあんたのせいだろう!優里はムカついた。
「大丈夫です。」
 優里はそう言ってタオルを金髪に返した。
「まさか後ろからついて来てるとは思わなかったよ。氷買って冷やそうか。」
 金髪はタオルで優里の鼻をしっかり押さえた。タオルが血で滲んでいくのがわかる。どうしよう、このタオル、洗って返さないといけないのか。
「もう止まりますから。」
 優里はタオルの汚れを最低限にしようと、もう一度鼻からタオルを離した時、あっという間に血液で染まったテッシュが、ポトリと優里の膝の上に落ちた。そして、またすぐに、生温かい感触を鼻の下に感じて、金髪はすぐにタオルで優里の鼻を押さえた。
「やっぱり、氷で冷やそうか。折れてるかもしれないし、病院に行こうか。」
 そう言って運転席に移ると、車を走らせた。
 近くのコンビニに着くと、車から降りて、氷の袋とビニール袋を買ってきた。
 手際よくビニール袋に氷を入れ、優里が押さえている鼻の上のタオルに、氷の入ったビニール袋を乗せた。
「冷たいけど、我慢して。」
 金髪は優里の頭を支えた。
 少しして、鼻血が止まったのを確認すると、優里は心配そうな金髪に、
「もう大丈夫ですから。それに、折れてなんかいません。私、鼻血をよく出すんです。」
 そう言った。
「タオルは洗って返します。」
 優里はタオルを裏がして、赤く染まった場所を隠した。
「そんな事、気にしなくてもいいよ。それより君の顔、なんかすごいことになってる。」
 金髪はそう言って笑った。
 優里は恥ずかしくなり、タオルでまた鼻を押さえた。
 人の鼻血のついたタオルなんて、使いたくないのが本音か。どうせこのまま捨ててしまうんだろう。
「新しいものを買って返ししますから、明日、またあの場所で、待っていてもらえますか?」
 優里は金髪にそう言った。
「いいよ。何時に?」
「今日と同じ時間に。」
「わかった。」
 金髪は優里を見て頷いた。また、顔を見て笑われるかもしれないと思うと、優里は金髪からすぐに視線をそらした。

「送って行くよ。こっちの不注意だからね。」
 金髪はそう言うと、優里を助手席に乗せ、車を走らせた。
「いくつ?」
「19です。」
「学生さん?それとも働いてる?」
「学生です。あなたは?」
「俺は教師だよ。」
 優里は男性の金色に染まった髪を見た。教師だなんて、きっと嘘に決まってる。
「……、頭、いいんですね。」
「ああ、これ?」
 男性は髪を触ると、
「明後日までの限定。」
 そう言って笑った。
 こんなに好きな時間を生きていても、神様は欲しいものを与えてくれるんだ。
 優里は目を閉じた。金髪がくれた氷の冷たさが、膝を冷やして気持ちがいい。
「ねえ、君はどこの大学?」 
「あの、ここの近くにある、」
「わかった。今年から新しい校舎になった大学だろう?」
「そうです。」
 所詮、自分はその程度の人間に見られている。大勢の中で、名前すら呼ばれないその他の存在。
 優里はアパートの近くまで送ってもらうと、金髪の車を見送った。
 
 夜空には、切られた爪の様な鋭い月が浮かんでいる。

 乾いた廊下に、コンコンと足音が響き渡る。誰にも会わないよう、急いで玄関の鍵を開け、洗面所へ直行した。
 血液がついているタオルをすぐに水につけ、服を脱ぎ捨てると、裸のままそこに付く血液を水で流し、そのままシャワーを浴びに浴室へ向かう。
 すでに鼻の下の血液は固まっていて、鏡に映る自分は、拭ったあとが漫画に出てくるやんちゃな子供に見えた。ぶつけた鼻の上の方は少し青くなり、どこかでケンカでもしてきたかの様に、やるせない顔をしていた。これではあの人が笑うのも無理がない。
 優里はたいして泡立てもせず、顔を洗顔フォームをつけると、慌ただしく顔全体に馴染ませる。ヌルヌルとした感覚を、シャワーで洗い流すと、顔につく水気を乱暴に手で払い除けた。

 次の日。
 学校が終わった後、急いでショッピングモールへ向かった。いくつかの店を廻り、金髪へのタオルを買うと、昨日の本屋までトボトボと歩き出した。
 大学に入ってから、眼鏡からコンタクトレンズに替えたが、ズボラな自分は、なかなか管理ができず、結局眼鏡で過ごす事が多かった。
 鼻が青くなっているので、それをマスクで隠すために、眼鏡なら曇ってしまうと、久しぶりにコンタクトを入れた。
 今日は全ての物の角まで、はっきりと見えている。

 本屋まで行く途中に、ポツポツと振り始めた雨は、とうとう本降りになった。さっき買ったタオルを包んでいる包装紙が、雨に濡れないように胸に抱え、優里は急いで本屋へ向かった。靴の中まで雨が入り、髪の毛をつたった雨粒が目に入る中、やっとの思いで、本屋の自動ドアの前に立った。

 そういえば、あの雪の日も、今日の雨も、私はつくづく天には見放されている。

 入り口の近くで、雑誌を手にしていた金髪は、ずぶ濡れになった優里を見て、昨日と同じ様に堪えきれずに吹き出した。
「大丈夫?」
「昨日はありがとうございました。これ、」
 優里は大切に雨から守ってきたタオルを渡すと、男性とは目を合わせず、雨の中へ走り出した。ビショビショに濡れて気持ちが悪いマスクは、グチャと潰してズボンのポケットに入れた。
 靴の中に入った雨は、走るたびにズブズブと音を立てた。足のつま先が、ふやけて大きくなってくるのがわかる。
 
 不意に腕を掴まれて、優里は立ち止まった。
「乗って。」
 優里の腕を掴んだのは、金髪だった。
「乗れません、車が汚れます。」
 優里はその手を振り解こうとしたが、金髪は優里を無理矢理車に乗せた。そして車に置いてあったタオルを優里の頭に置くと、
「早く拭きなよ。風邪引くぞ。」
 そう言って車を走らせた。優里はタオルを金髪の太腿に置いた。
「意地っ張りだなぁ。」
 金髪はまた優里の頭にタオルを置いた。
「また、返さなきゃならなくなるし。」
 優里はそう言って、頭からタオルをとった。
「返すなんて、そんなの気にしなくてもいいんだから。早く拭きなよ。」
 信号待ちで止まった金髪は、優里の手にしていたタオルを広げ、優里の濡れた髪の毛を拭いた。
「すみません。」  
 優里はそう言うと、顔についた雨をタオルで拭った。
「なんて、名前?」
「佐伯です。」
「下の名前は?」
「優里です。」
「優里ちゃんか。俺は、中嶋匠海《なかじまたくみ》」  
 優里はタオルの隙間から、運転席を見つめた。
「このまま家に送るから、帰って早く着替えるんだよ。」
 金髪は昨日優里を降ろした場所までくると、 
「家はこの辺?玄関の前まで行くよ。」
 そう言って、車をゆっくり走らせた。

「ここで、いいです。」
 昨日と同じ、家からひとつ手前の交差点についた。優里はタオルを畳んで、膝の上に乗せていたが、さっきから手が小さく震えていた。
「これ、洗って返します。」
「いいよ。たくさんあるから。そうだ、優里ちゃんの連絡先聞いてもいい?」
 金髪は車を停めて携帯を出した。
「なんか、嫌な事でもあった?昨日から、ずっとテンション低いから。」
 金髪はそう言って優里の顔を覗き込んだ。
「いつもこうです。」
 優里は頭を下げ、車を出ていこうとした。
「ちょっと、連絡先。やっぱりタオル洗ったら連絡して。」
 金髪は優里の腕を掴んだ。優里は仕方なく、かじかんだ手を何度か力強く握ると、カバンから携帯を出して、金髪の方を見た。連絡先を交換すると、
「とにかく家に入ったら、すぐに温かくするんだよ。」  
 金髪が言った。
「送ってくれて、どうもありがとうございます。」 
 優里は金髪にそう言うと、玄関まで急いで走った。
 
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