背中の言い訳

小谷野 天

文字の大きさ
3 / 13
3章

夏の風邪

しおりを挟む
 玄関でビショビショに濡れた靴下を脱ぐと、ふやけた足の指が、あっという間に冷たさを訴える。足跡をつけてながら、優里はベタベタと浴室へ向かう。
 服を脱いで、その重たさから解放はされた両肩は、氷を背負っていたかの様に硬く冷え、熱いシャワーを浴びても、体の芯まで温まりきらなかった。
 部屋着に着替え、その上からフリースまで着ているのに、ずっと体の震えが止まらない。
 優里はストーブをつけた。雨に濡れたせいだろうか。シャワーだけで済ませたせいだろうか。髪の毛につきまとっていた水分は、ドライヤーで全部飛ばしてやったはずなのに、なぜだろう、寒くて寒くてたまらない。口の中は砂漠の様に、カラカラに乾いてきた。
 いけない、コンタクト外さなきゃ。
 優里は冷蔵庫から水を出してひとくち飲むと、洗面所へ向かった。震える手でなんとかコンタクトを取り出すと、歪んだ景色の中に、チカチカと光りが飛んでいる。
 バイト先のコンビニには、今日は休むと連絡を入れ、優里は布団に包まった。

 どれくらい眠ったのか、あたりは真っ暗で、少しお腹が空いたけれど、ベッドから起き上がる事ができないでいた。喉がとてつもなく乾いて、なんだか息がしづらい。ぬるくてもいから、この口の中に、できるだけ多くの水を入れてほしい。

 私、このまま死ぬのかなぁ。

 何年か前に見た映画に出てきた兵隊さん達は、こんなふうに暗がりの中で、水が飲みたいと切に願いながら、何日も何日も恐怖と戦って過ごしていた。せめて最後に、澄んだ水を口にしたかったと、神様を恨んだ事だろう。 
 優里はなんとかベッドから起き上がった。
 急に目眩がしてその場にうずくまると、這うように冷蔵庫の前まで行った。そして、水のペットボトルを抱えて、また這うようにベッドへ戻った。
 なんとかペットボトルの硬い蓋を開け、ひとくちふたくち水を口に入れると、また布団に包まった。

 最後の水なのに、喉が痛くて、思ったよりたくさん飲む事ができなかった。そんな事を考えながら、また目を閉じた。  
 体のあちこちが痛くて何度も寝返りを打っているうちに、空が明るくなってきた。神様はこの辛さから、自分を解放してくれないのか。  
 やっと、ウトウト眠りについた頃、今度は携帯の目覚まし時計がなった。早く止めないと、そう思って布団の中から手を伸ばす。優里はまた布団に肩に掛けた。
 止めたはずの携帯が、ごちゃごちゃと何かを話している。何?優里はその声を聞こうと携帯を耳にあてる。
「優里ちゃん?」
「何?」
「ずっと電話に出ないから心配したよ。やっぱり風邪、引いたんだろう?薬持って行くから、部屋は何号室?」
「313。」
「3階?」
「そう。」
「すぐに行くから、待ってて。」
 電話はそう言って切れた。意識が朦朧として、夢の中なのか、現実なのかよくわからない。もしかしたら、これはあの世からの電話だったのかも?
 優里はペットボトルに手を伸ばしたが、ベッドの下に転がって、どこにいったか見えなくなった。
 
 私はどこまでもついてない女だ。

 優里は水を飲むのを諦めて再び目を閉じた。

 少しして、心地よい氷が転がる音で目が覚める。
「飲まないと、ダメだよ。」
 優里は体を支えられ起き上がると、冷たいイオン飲料のペットボトルが、目の前に出てきた。力の入らない両手で、ペットボトルを落とさない様に掴むと、ヒンヤリした大きな手が、優里の両手を支える。
 口元に飲み口が近づくと、飛びつく様に一気に半分近くまで、それを飲んだ。
「ずいぶん熱い手だね。」
 口を服の袖で拭った優里は、その言葉に頷くと、起き上がっているのが耐えきれず、またすぐに横になった。
 さっきの大きな手が優里のおでこを触っている。今度は冷たいシートが、ゆっくり優里のおでこにくっついた。ビニール袋に詰められた氷が、優里の頭の上に乗ると、ホッとして目を閉じた。

 神様は最後の最後に、自分に優しくしてくれたんだ。

「もう一回起きるよ。薬飲まなきゃ。」
 優里は支えられ、なんとか起き上がると、手のひらにポトリと3粒の薬が転がった。
「はい、水。」
 言われるままにそれを飲む。
 
 これで永遠に眠りにつくことができる。  

 優里はそのまま深い眠りに落ちた。
 何度も嫌な夢を繰り返し見ると、不意に目が覚め、自分の汗が首にまとわりついている事に気がついた。起き上がって顔を触ってみると、さっきより体が少し軽くなった気がした。

「目が覚めたかい?」
 優里は顔にあてた両手の隙間から、声の方を覗いた。
 誰だろう?
「優里ちゃん、俺、中嶋。」
 コンタクトの入っていない目は、ぼんやりとその輪郭しかわからない。優里は眼鏡をかけると、男性の顔をマジマジと眺めた。
「あの金髪さん…?」
「そう。」
 優里は男性の髪を見て、不思議な顔をした。
「金髪はもう終わりにしたよ。」
「何をしてる人?」
「中学の教師。数学のね。」
「ふ~ん。」
「だいぶ、熱が下がったみたいだね。」
 黒髪は優里のおでこに手をあてている。
「ねぇ、なんで金髪さんがここにいるの?」
 優里は黒髪に聞いた。
「優里ちゃん、雨に濡れて震えてただろう。風邪引いたと思って電話を掛けたら、すんなり部屋の番号を教えてくれたから、勝手に入って来ちゃったよ。」
「鍵、空いてた?」
「空いてたよ。不用心だね。」
 優里はベッドから出ると、フラフラと冷蔵庫へ向かった。さっきの残りのイオン水を手に取ると、それを一気に飲み干した。
「もしかして、これも金髪さんが持ってきたの?」
「そうだよ。」
 汗に濡れた前髪が、優里のおでこに張り付いている。吹き出すように出てくる汗のせいで、背中が少し痒かった。
「優里ちゃん、着替えなよ。たくさん汗かいただろう。」
「うん。金髪さんは、もう帰るの?」
「まだいるよ。ご飯、作ってあげるから。」
 優里は少し微笑むと、シャワーを浴びに浴室へ行った。熱は一時的に下がっているだけなのか、頭の中はスッキリしない。なんとなく、金髪が自分のそばにいてくれたのは理解できたが、詳しく話しを聞きたくても、今は長い会話をする自信がなかった。

 シャワーから上がると、立っているのが辛く、ドライヤーもそこそこに、また布団に潜り込んだ。
「金髪さん、ごめんなさい。」
 優里はそう言って目を閉じた。少しウトウトし始めた頃、黒髪は優里を起こした。
「ほら、食べな。」
 大きなおにぎりを優里に渡すと、
「食べたら、薬を飲んでね。」 
 そう言った。
 優里はおにぎりを半分食べると、残りはラップで丁寧に包んだ。
「やっぱり、少し大きかったか。」
 黒髪はそう言った。
「美味しかった。残りは後から食べる。」
「これ、薬。」
 黒髪は優里に薬を渡した。優里は手のひらに転がった3粒の薬を口に入れると、黒髪が用意した冷たい水で喉に流し込む。
「飲んだ?」
「うん。」
 黒髪は優里のベッドの横に座った。
「金髪さん、もう帰りますか?」
 優里は聞いた。黒髪は優里のおでこに手をあてると、
「きっと夜中に、また熱が出ると思うから、もう少しついててあげるから。」
 そう言った。
「昨日はどこで寝たの?」
「ここ。」
 黒髪はベッドの下の床を指さした。
「ごめんなさい。体、痛かったでしょう?」
「そりゃ痛いよ。寒かったしね。」
 黒髪がそう言ったので、優里は立ち上がり、押し入れの前にきた。
「布団はもう一組あるの。出すの手伝ってくれない?」
 優里は押し入れにある布団袋を引っ張り出そうとした。
「あとは俺がやるから。」
 黒髪は布団袋から、敷布団や毛布を取り出している。優里は少しフラフラしたが、黒髪が手にしているシーツの端を持つと、一緒に広げ、布団の上に掛けた。
「なんかあったら、すぐに起こすんだよ。」
 黒髪はそう言うと、優里をベッドへ寝かせた。
「電気消すよ。」
「うん。」
 眠いはずなのに、頭の中でグルグルと何かが回っている。
「金髪さん?」
「何?」
「金髪さんも、風邪、引いたんじゃない?」
「アハハ、そうかもしれないね。」
「私が治ったら、ちゃんとお返しするからね。」
「楽しみにしてるよ。」
「おやすみなさい。」
「おやすみ。」

 次の日の朝。  
 体が少し軽くなった。優里は黒髪を探したが、どこにもいなかった。テーブルの上には朝ごはんが用意されていて、ちゃんと食べなよ、そう書いたメモが置いたあった。
 やっぱり、夢だったのか。
 このメモは現実なのか?だとしたら、あの人、お節介にも程がある。ギターケースをぶつけた謝罪にしては、ずいぶんと重すぎやしないか。

 優里は携帯から、男性の連絡先を探した。
 <帰ったんですね。>
 優里はその連絡先に恐る恐る送信してみると、すぐに既読がついた。
<ずいぶん、お世話になりました。>
<お礼はちゃんとしますから。>
 優里は冷蔵庫から水を出して飲んだ。
<少しよくなったかい?>
 黒髪からラインがきた。
<風邪、伝染ってませんか?>
<大丈夫。>
<本当?>
<本当だよ。せっかくだから、お礼はこっちで決めさせてもらうよ。>
<わかりました。>
<ちゃんと、ご飯食べるんだよ。>
<わかりました。>
<じゃあ、また連絡する。>
 優里は昨日残したおにぎりを頬張った。

 熱が下がった3日後。
 優里はバイト先のコンビニに向かった。4月からバイトを始めて、もう3カ月近くになる。
「佐伯さん。今日から入った新しいバイト、指導、宜しく。」
 店長はそう言ってバックヤードに消えた。
「佐伯?」
 新しいバイトは、同級生の高田だった。
「高田くん。」
「佐伯、ここでバイトしてたんだ。」
 高田は優里と距離を縮めてきたので、優里はこっちと店の中を案内した。優里がバイトの説明をしても、高田は聞いているのかよくわからない。数人の客を優里が対応すると、
「今度は高田くんがやってね。」
 優里はそう言って、溢れそうになっていたゴミ箱を片付けに向かった。
「そういうのは、俺がやる。」 
 高田はゴミ箱を優里から奪うと、
「これどうするの?」
 そう聞いた。
「ゴミ置き場わかる?店の裏にあるから。」
 そう言って、客が向かっているレジへ、急いで戻った。
 ゴミ捨てから戻った高田は、また優里の近くにきた。
「もうすぐ、荷物を載せたトラックがくるから、賞味期限切れ、チェックしないと。」
 優里は商品の並ぶ棚に向かった。
「佐伯、すげーなお前。」
「高田くん、これ時間が切れてるから、端へ避けておいて。」
 優里はそう言って、お弁当を棚の奥に隠した。
 
 バイトが終わり、高田が一緒に帰ろうも優里の後をついてきた。
「お前んちもこの近くか?」
「そうだけど。」
 優里は少し早足で歩いた。
「大学はどこだっけ?」
「駅の近く。」
「そっか、佐伯と俺は同じ大学か。キャンパスが違うから気が付かなった。」
 優里は小走りになった。
「歩くの速いよ。」
 高田が優里の肩を掴んだ。
「お腹が減ったから、早く帰りたいし。」
 優里がそう言うと、
「じゃあ、一緒になんか食べてくか?」
 高田は優里の隣りに並んだ。
「そんな事してたら、バイトしても意味ないよ。」
「俺が奢るからさ。」
「いい。」
 優里は高田の誘いを断った。
「お前のテンション、いつ上がんの?」
 高田はそう言って優里の顔を覗いた。
「ずっとこうだし。」  
「なあ、八木と連絡取ってるのか?」
「ううん。」
「佐伯に聞けばわかると思ったんだけど。」
「気になるなら、あの大学に探しに行けばいいじゃない。人文学部らしいから。」
「一緒に行かないか?」
「行かないよ。」
「頼むって。ついてきてくれよ。」
「なんで私が、一緒に行くの?」
「佐伯しか頼めないんだ。」
「高田くん、」
 優里は足を止めた。
「私、あっちだから。」
 優里は走り出した。
 悠への嫉妬と、望んでいない環境にいる自分への不甲斐なさに、後悔という名の導火線に火がつきそうだった。 

 家に着いて携帯を見ると、黒髪から連絡が来ていた
<こんばんは。>
<明日、空いてる?>
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?

屈辱と愛情

守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。

17歳男子高生と32歳主婦の境界線

MisakiNonagase
恋愛
32歳主婦のカレンはインスタグラムで20歳大学生の晴人と知り合う。親密な関係となった3度目のデートのときに、晴人が実は17歳の高校2年生だと知る。 カレンと晴人はその後、どうなる?

一夏の性体験

風のように
恋愛
性に興味を持ち始めた頃に訪れた憧れの年上の女性との一夜の経験

愛しているなら拘束してほしい

守 秀斗
恋愛
会社員の美夜本理奈子(24才)。ある日、仕事が終わって会社の玄関まで行くと大雨が降っている。びしょ濡れになるのが嫌なので、地下の狭い通路を使って、隣の駅ビルまで行くことにした。すると、途中の部屋でいかがわしい行為をしている二人の男女を見てしまうのだが……。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

君までの距離

高遠 加奈
恋愛
普通のOLが出会った、特別な恋。 マンホールにはまったパンプスのヒールを外して、はかせてくれた彼は特別な人でした。

遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。

沼野 花
恋愛
夫と子供たちに、選ばれなかったイネス。 すべてを愛人に奪われ、彼女は限界を迎え、屋敷を去る。 だが、その先に待っていたのは、救いではなかった。 イネスを襲った、取り返しのつかない出来事。 変わり果てた現実を前に、 夫はようやく、自分が何を失ったのかを思い知る。 深い後悔と悲しみに苛まれながら、 失ったイネスの心を取り戻そうとする夫。 しかし、彼女の心はすでに、外の世界へと向かっていた。 贖罪を背負いながらもイネスを求め続ける夫。 そして、母の心を知っていく子供たち。 イネスが求める愛とは、 そして、幸せとは――。

処理中です...