背中の言い訳

小谷野 天

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8章

新月の夜

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 先にシャワーを浴びた優里は、窓を開けて空を眺めていた。
「部屋の中が外から丸見えだよ。」
 浴室から出てきた中嶋は、そう言って窓を閉めた。
「今日は真っ暗だね。月がすごく細い。」
 優里は少しカーテンを開けて、空を見て言った。
「そう。今日は新月なんだよ。優里ちゃんが鼻血を出しやすいのは、こんな月が見える時。」
「そうなんだ。」
 中嶋は優里の髪を撫でた。優里の肩に手を回して、自分の体に引き寄せようとした時、
「中嶋さん、背中見せて。」
 優里は中嶋にそう言った。
「また?」
「ダメ?」
「ダメじゃないけど、わざわざ背中を見なくても、もっと近くにいてあげるから。」
 中嶋は優里を抱きしめた。
「さっき本屋で、中嶋さんの背中を見た時、すごく怒ってたみたいだった。」
 優里は中嶋の腕の中でそう言った。
「正直、あんまりいい気分はしなかったよ。」
「そうだよね。じゃあどうして、来てくれたの?」
 優里が中嶋を見上げると、
「月を見たからかな。」
 中嶋はそう言うと、
「ほら、」
 優里に背中を向けた。
 中嶋は、やっぱり好きだと言ってくれなかった。
 優里はゆっくり、中嶋の背中に手をあてた。
「優里ちゃん、そう言えば、岡田は今シーズンで引退だって。」
「なんで?」
「なんでって、引退はひとつの区切りだろう。」
「淋しいな。」
「また、優里ちゃんの好みの選手を紹介するよ。」
 優里は中嶋の背中に左頬をあてた。
「同じ背中なんて、どこにもないよ。」
 優里は目を閉じて、中嶋の胸に手を回した。
「そうだね。どこにもないね。」
 中嶋は自分の胸の前にあった優里の左手を開いた。
「優里ちゃん、俺の気持ち。」
 そう言って手を握らせると、優里はその手をゆっくり自分の胸に持っていった。
 握ったままの手を胸に押しあて、ポロポロと泣いている優里が、中嶋はとてつもなく愛おしく感じた。
「言葉で言えば、簡単だよ。だけど、」
 中嶋は優里を抱きしめた。
 優里は握っていた手を開くと、それを飲み込む仕草をした。
 中嶋はそんな優里を見つめた。
 少し微笑んだ優里の目が、さっきの涙のせいなのか、まだ濡れていて、その奥には、ユラユラとした自分が映っていた。
 中嶋は優里をベッドへ寝かせ、上になると、自分の気持ちの思うまま、優里を抱いた。
 
 朝方。
 眠って優里の頬を撫で、そっとキスをした。
「どうしたの?」
 優里は目を覚ました。
「ごめん、起こしちゃったね。」
 優里は首を振ると、また眠りに落ちた。
 
 ついこの前までは高校生だったのか。
 たいして淡い思い出なんかなさそうな感じの子で、恋愛どころか、誰かを好きになった事なんてないんだろう。もしかしたら、あの日、岡田の背中を見ていなければ、男性に興味を持つ事はなかったのかもしれないし。
 大学はあと4年。
 それまでこんな関係が続いていたら、自分はこの子の感情を奪った責任を、結婚という形でとらなければならないのか。きっとこれからも、優里を嫌いになる理由なんて見つからない。出会ってしまったら、終わりのない道を歩くしかないんだ。
 中嶋は優里に背中を向けた。
 
 こんなに弾まない気持ちで、始まる恋もあるのか。

 水曜日。
 優里は新しいバイト先に向かった。5年前に開店した洋食店は、店長と奥さん、そして、優里より5つ年上の男性の従業員が1人いた。他にもバイトが数人いるらしいが、今日のバイトは、優里1人だけだった。
「佐伯ちゃんは、栄養士志望だったよね。本当は厨房をやらせたいんだけど、子供ができてさぁ。」
 店長は奥さんを指さした。
「よろしくね。私もギリギリまで働くから。」
 小柄でキレイな奥さんは、優里を見てニッコリ笑った。こんな穏やかな笑顔もあるんだ。優里がそう思っていると、
「涼真、いろいろ教えてやってくれ。」
 店長が、従業員の男性に向かってそう言った。
「わかりました。じゃあ、こっち。」
 従業員の宮崎涼真《みやざきりょうま》は、優里を厨房に案内した。細身の体にピッタリと巻いたエプロンがよく似合う。
「店長から、俺と同じ学校だって聞いたけど。」
「あっ、えっ、そうなんですか?」
「ちゃんと話し聞いてるの?」
「ごめんなさい。」
 宮崎は物の場所や、注文の取り方を優里に教えた。
 優里が小さなノートにメモをしていると、
「真面目なんだね。」
 宮崎はそう言った。
「混んでくると、メモを見ている暇なんかないからね。」
 店を開くと、ポツリポツリ客が来て、あっという間に席が埋まった。初めは奥さんについて仕事を見ていた優里だったが、仕事の流れを掴むと、自分から動き始めた。
「もっと丁寧に扱えって。」
 宮崎は、食器を下げる優里にそう言った。
 店が閉店し、優里が掃除をしていると、
「佐伯さん、学校楽しくないでしょう?」
 宮崎が言った。
「うん。あんまり。」
「ずっと栄養素の計算ばっかりしてると思ったら、けっこう人と話さなきゃならない事もあるしさ。」
「そうですね。」
「淡々と聞いてるだけだと、あの教授に目をつけられるから、時々笑って、頷くといいよ。」
 宮崎はそう言って厨房に入って行った。
「佐伯ちゃん、明日も頼んだよ。」
 店長がそう言った。
「はい。またお願いします。」

 帰り道。
 優里の上にあるかまぼこの様な月は、輪郭が歪んで見えた。生暖かい空気のせいなんだろうか。
 女だからってバカにされたくないと、なんでも負けずにやってみようとした。元々自分は、平均以下の能力しかない事に気付いてたいたけれど、悔しさや言い訳を口にすると、それを認めてしまう事になる。手が届がない事は、黙って流してしまえばいい。私はけして、できなくて手放したわけではないのだから。
 優里は左手の手のひらを開いた。
 右手と違って、何もする事のできないこの手に、中嶋は自分の気持ちを包んだと言った。
 本当はなんにも入れてないくせに。
 優里は手のひらの上に転がる空気をゴクンと飲み込むと、帰り道を急いだ。
 今度はいつ会える?
 また月が減らないとやってこないの?
 自分から会いたいと言ってしまえば、中嶋の時間を壊してしまう事になる。そんな事をして嫌われたら、自分は暗闇の底で、あの月を思いながら、孤独に暮らしていくしかないのか。
 
 分度器の様な月を見ていた中嶋は、優里に連絡をしようか迷っていた。
 学校祭やら、中間テストがあって、仕事もそこそこ忙しくなってきてはいたけれど、自分の背中が、優里の温かさを求めている様な気がした。
 会えば捨て犬の様にまとわりついてきて、自分の淋しさを埋めてくれるのに、自分はけして、本心のわからない優里を拾ってこようとしない。
 俺は、ズルい人間だよな。

 気が付くと、優里に連絡をするのは、新月の近くになってからで、自分に助けを求めてくるかもしれないと思っている日が、2人で会うきっかけになっていた。
 優里はそれでもいいのか。
 自分から会いたいと言って来たことは、一度もなかった。元々感情を表に出さない子だったし、自分と会う時は精一杯笑顔を作ろうとしている事が、少し辛くなるんだろう。
 好きな人ができたのなら、その人の背中へ向かって行ってもいいんだよ。人付き合いな苦手な優里にとっては、もっと器用な人間の方が、合っているのかもしれないな。
 だけどな、優里が他の誰かの背中に頬をつけているのを想像すると、たまらなく淋しくなるんだ。
 この気持ち、どうしてくれるんだよ。
 そっちから会いたいって連絡をくれたら、俺はすぐにでも会いにいくのに。

<明日は空いてる?>
 中嶋は優里に連絡をした。
 ラインを受け取った優里は、カーテンを開けて月を見た。
<玄関、開けてるね。>  
 優里は鼻を触った。
<優里ちゃんはそれでいいの?>
<何が?>
<ごめん、何でもない。>
<明日話そう。>
<そうだね。>
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